夫の出張中に息子のサッカーコーチを自宅へ誘った人妻が旧姓で呼ばれるたびに巨根へ堕ちていく夏の合宿夜
あらすじ
夏の夕暮れ、東京郊外の学校グラウンドでFCアヴァンテの練習が行われている。斎藤美香は息子俊哉の走りを見つめながら、夫正敏の帰りが遅い今夜の献立を考えていた。ママ友の小野寺理恵が近づき、高瀬コーチのトレーナー越しの股間の膨らみや色仕掛けの噂を囁く。美香は苦笑いで流すが、先週高瀬に俊哉の走り方を褒められ、旧姓の水野さんと呼ばれた記憶が蘇る。理恵が去った後、美香は高瀬の後ろ姿と股間を一瞬盗み見てしまい、自分でも驚くほど鼓動が跳ねる。夫を愛しているのに、身体の奥が別の生き物のように疼く気配を感じた。その夜、自宅で夫の何気ない優しさに触れるほど、秘密が生まれそうな予感に息が浅くなる。幸福な家庭の空気が少し湿り始めたところで第1章は終わる。
第1章 練習光の下で旧姓に触れる指
第1章: 練習光の下で旧姓に触れる指
夏の夕暮れが、学校のグラウンドを薄い蜜色に染めていた。踏みしめられた芝の匂いと、子どもたちのスパイクが土を蹴る乾いた音が、湿った風に混じって流れてくる。斎藤美香は、白い半袖のTシャツと紺のハーフパンツ、素足にサンダルという軽装のまま、コートの脇で息子の俊哉を目で追っていた。後ろで一つにまとめた髪の根元が汗ばみ、首筋に張りつく前髪を何度も指先で払いながら、今夜の献立を頭の隅で組み立てていた。
正敏の帰りが遅い夜は、時間の輪郭が少しだけ柔らかくなる。大した秘密もないのに、リビングの照明だけがいつもより広く感じられる、そんな夜。今はまだ、その兆しさえ見えず、ただ夏の湿り気が肌を撫でるだけだった。
息子の同級生の母親、小野寺理恵が、腕に保冷バッグを下げて近づいてきた。肩で揺れる茶色い髪はふんわりと巻かれ、明るい茶色の目を細め、汗をかいた首に冷えたドリンクのボトルを当てている。花柄のカットソーに白のクロップドパンツ、ヒールサンダル。彼女は美香の隣に立つなり、声を潜めた。
「美香さん、今日の俊哉くん、調子良くない?」
美香は視線を息子へ戻した。
「そう見える? 私にはいつも通り、走ってるだけにしか……。あの子、レギュラー争いのボーダーにいるから、毎日それなりに必死なの」
理恵は小さく笑い、首を振った。
「違うわよ。あそこ、高瀬コーチが俊哉くんの後ろ姿をずっと見てるのよ。私、試合中よく見てるからわかるの。あれ、結構いい感じよ」
美香の胸の奥が、ふっと浅くなった。先週の残暑の中で、高瀬に呼ばれた「水野さん」という四文字が、汗の匂いと一緒に鼻の奥へ蘇る。確かに彼は、俊哉のフォームに陸上選手の癖が残っていると言い、それから視線をこちらへ向けて、斎藤さんではなく、水野さんと呼んだ。あの時の低い声が、鼓膜の内側でこすれる。
理恵は声をさらに低くして、保冷バッグの持ち手を指で揺らした。
「それにしても、あのコーチ、今日も見事ね」
美香は咄嗟に聞き返した。
「何が?」
「股間」
理恵は遠慮のない目を、グラウンドの黒いトレーナー姿へ向けた。
「動くたびに、グレーのスウェットに、あれがこう……わかるのよ。これがね、無口で真面目だから逆に余計、ね」
美香は困ったように口元をほころばせた。
「ちょっと、理恵さん。聞こえたらどうするの」
理恵は肩をすくめた。
「大丈夫よ、近くに誰もいないし。だって事実だもの。でも、あの誠実そうな顔で、まさか色仕掛けなんて通じないわよね。私、最初に言ったわよ。レギュラー取るにはコーチに取り入るしかないって。でも高瀬コーチにだけは無理。何しろ石みたいに黙ってるんだもの」
美香はようやく肩の力を抜いた。
「俊哉には、自分の力で競争してほしいから、コーチへのご機嫌取りは考えないわ。それより、今日は何時に終わるのかしら。正敏も遅いし、夕飯のことばかり……」
理恵は思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。この間、高瀬コーチが俊哉くんの走り方褒めてた時、美香さんのこと、水野さんって呼んでなかった? ねえ、あれ、旧姓なんでしょ?」
美香は小さく息を吸った。
「ええ、そう。旧姓で。後から気づいて、私も何だか懐かしくて」
理恵は笑みを深めた。
「やっぱり。あの人、競技者のこと調べてからじゃない? 無口なくせに、そういうところは熱心よね」
理恵が手をひらひらと振って自動販売機の方へ歩いていく。美香はその背中を見送ると、再びグラウンドへ向き直った。さっきまで流していた理恵の言葉が、耳の奥に小さな棘のように残る。俊哉の白いユニフォームを探そうとした視線が、その隣の黒いトレーナー姿へ、意図せず滑っていった。
高瀬亮介は、短い黒髪を汗で張りつかせ、日に焼けた太い首と腕を夕日に光らせて立っていた。グレーのスウェットパンツの上に黒いTシャツ。それだけの姿なのに、遠目でも肩幅と胸板の厚みがはっきりとわかる。切れ長の茶色い目は、子どもたちの足元へ鋭く注がれていた。
高瀬が、サイドライン際で指示を出すために身体の向きを変えた。その拍子に、ゆったりしたグレーの布地が、太腿の付け根のあたりで一瞬だけ、重力に逆らえない重みを浮かばせる。美香は、何を見たのかと自問するより先に、喉の奥が締まって目を逸らしていた。葡萄色に近づいた夕映えの中で、自分の頬が火照っているのがわかる。掌にもじんわり汗が滲んでいた。
太腿の内側を、湿った空気が撫でた。いつの間にか、両足がぴったりと閉じられている。夫の正敏を愛している、その気持ちは確かなのに、下腹のずっと奥が、水を含んだ土のように急に重くなる。
コートの向こうで笛が鳴り、子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。俊哉が真っ先に美香の前へ転がり込むように駆けてきて、汗と土の匂いをぷんと漂わせた。
「ママ、のど乾いた!」
美香は腰を落として、リュックから水筒を出した。
「おかえり。いっぱい走ったね」
俊哉は水を一口飲み、まだ息を弾ませたまま笑った。
「今日さ、高瀬コーチが僕のこと、『右の上がり方が良くなった』って言ってくれたんだ」
美香は息子の汗で黒くなった髪を、タオルで包むように拭いてやった。
「良かったね。コーチに認めてもらえると嬉しいわね」
俊哉は、にぱっと笑った。
「帰りにアイス買って?」
美香は首を横に振った。
「だめ。夕飯が入らなくなるでしょ」
俊哉を家に連れ帰り、シャワーと夕飯を済ませて部屋へ送り出すと、家の中は急に静かになった。正敏はまだ戻らない。窓を開けても外の風は甘くも生ぬるく、昼間に溜めた熱が壁からじんわりと滲んでいる。
美香は台所に立ち、作り置きの茄子の煮浸しを小鉢へ移しながら、先ほどのグラウンドを思い返していた。理恵の声や、俊哉の汗、そして高瀬の身体の一部を横切ったあの瞬間。手元に集中できず、箸の先が小鉢の縁にかちりと当たる。
水野美香。あの四文字が、頭の中で音になって転がった。十年以上、誰にも呼ばれなかった自分。正敏は美香と呼び、俊哉はママと呼ぶ。それなのに、夏の夕暮れの中で一度聞いた旧姓は、皮膚のすぐ下に潜んでいた熱を、またゆっくりと掻き立てようとする。
玄関の鍵が回る音がして、短い靴を脱ぐ気配がした。美香は水を止め、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら声をかける。
「おかえり」
斎藤正敏は、紺のジャケットを腕にかけ、ネクタイを緩めた姿で台所へ入ってきた。短い髪に、疲れの滲む黒い瞳。それでも穏やかな声は、美香の神経をいつもほどけない糸のようにほぐす。
「今日も暑かったな。俊哉はどうしてる?」
美香はグラスを差し出しながら答えた。
「さっき眠ったわ。朝からずっと走ってたから、疲れたみたい。合宿、楽しみにしてるわよ」
正敏は麦茶を受け取り、美香の濡れた首元へ手のひらを近づけた。
「お前も汗かいてる。俺、風呂入れるようになるまで、窓閉めようか」
美香は首を振った。
「ううん、大丈夫。むしろこの風で少しは涼しくなってるから」
正敏はカウンターにもたれ、ネクタイをテーブルに置いた。
「高瀬さんから、俊哉の状態、何か聞いた?」
美香は一瞬、指先の動きを止めた。
「今日は何も。先週、走り方の癖を少し褒められた程度よ」
正敏は微笑んだ。
「そうか。あの人、いいコーチだよな。俊哉も懐いてるし、うちは恵まれてるよ」
美香は口元で薄く笑った。いいコーチ。たしかに、そう。信頼できる大人。夫の正敏が、高瀬と親しく話す姿を思い浮かべると、昼間、あのグレーの布地へ滑った自分の視線が、途端に浅ましいものに思えてくる。
正敏は美香の肩を軽く抱き寄せ、汗ばんだ前髪を耳の後ろへ撫でてやった。それが優しければ優しいほど、美香の下腹には、夕方感じた湿った熱がまた息を吹き返す。
「疲れてるな。早く風呂入って来いよ。片付けは俺がやっとくから」
美香は首を横に振りかけたが、彼の手が背中を押すので、そのまま頷いた。
「ありがとう。じゃあ、先にいただくわ」
バスルームから戻ると、正敏はリビングの明かりを半分消し、ソファで眼鏡を外して目頭を揉んでいた。美香は冷えた素足をフローリングにつけ、彼の隣へ座る。
正敏は美香が戻るのを待っていたように、手を伸ばして彼女の指先に触れた。
「何かあったか、今日」
美香は胸の内側を、そっと撫でられたような気がした。
「ううん、別に。暑くて少し、ぼうっとしてただけ」
正敏は低く笑った。
「そうか。お前、たまに無理するからな。何かあったら言えよ」
美香は「大丈夫よ」と笑って見せたが、暗い部屋の隅で、笑顔の裏の自分がほんの少しだけ身を起こした気がした。幸福な家庭。優しい夫。無邪気な息子。何も欠けていない。なのに、グラウンドの夕闇で見た、男の布地の奥の影が、こうして夜の静けさの中で自分の輪郭を変えようとしている。
正敏は美香の背を軽く撫で、寝室へ促した。
「今夜は早く休もう。明日も仕事だし、俊哉の合宿の準備もあるしな」
美香はこくりと頷いた。寝室の窓からは、湿った夜風が少しだけカーテンを膨らませて、昼間の興奮を乗せて流れていく。彼女は夫の隣に身体を横たえ、目を閉じた。しかし、瞼の裏には、あの黒いトレーナー姿と、旧姓の音が、細い熱の線になって残っている。幸福な家庭の空気が、初めてほんのわずかに湿り始めた夜だった。
第2章 合宿の汗とシャワー室の巨根
第2章: 合宿の汗とシャワー室の巨根
夏の朝は、目が覚めた瞬間からすでに肌を焦がすような熱を孕んでいた。斎藤美香はベッドの上で薄いタオルケットを蹴り、しばらく天井の木目をぼんやりと見つめていた。隣の布団は昨夜からもぬけの殻だった。夫の正敏は前日から出張で家におらず、寝室には彼の匂いだけがかすかに残って、朝の光の中でゆっくりと薄まっていく。胸の奥で何かが落ち着かないまま、それでも体は勝手に動き出し、台所へ向かう足音が廊下に乾いた音を落とした。
「俊哉、起きて。集合時間、早いんでしょ」
声をかけると、俊哉の部屋のドアの向こうから、まだ夢の膜を被ったような曖昧な返事が返ってきた。美香は冷蔵庫を開け、前夜に用意しておいたおにぎりと水筒の中身を確かめる。保冷バッグに詰める手つきが、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。指先だけが、昨日までとは違う場所を生きているようだった。
「ママ、ぼくのユニフォームは?」
リビングへ出てきた俊哉が、寝癖だらけの髪のまま、まだ半分寝ぼけた声で言った。美香は振り返り、壁に掛けたチームウェアを指さす。
「ちゃんと洗ってあるから、それを着なさい。汗拭きタオルは鞄に入れた? 靴下の替えも。夜は冷えるかもしれないから長袖も一枚持って行って」
「わかってるよ。ママは心配しすぎだってば」
俊哉は口を尖らせながら、無造作にテーブルの上の水を飲んだ。その小さな喉仏が上下するのを見て、美香はなぜか胸の裏側がくすぐられるような、柔らかくも不安な感覚を覚えた。この子を守らなければ、という思いの向こう側に、昨夜からずっと沈黙している自分の中の何かが静かに息を潜めている。美香はエプロンの腰ひもを解き、自分も着替えるために一度、寝室へ戻った。
白い綿の半袖シャツに、水色のパーカを羽織り、下は動きやすい麻混のグレーのハーフパンツを選んだ。サンダルに足を通すとき、剥き出しになったつま先が昨日よりも白く、血の気がないように見えた。首元には汗ばまないよう、髪を後ろで小さく結ぶ。リビングの鏡に映る自分は、家の中ではいつもと同じ母親の輪郭をしていた。けれど、鏡の奥で何かが薄く笑った気がして、美香は目をそらすように玄関へ向かった。鍵を手のひらに握ると、金属の冷たさが指の骨まで染みてきた。夫のいない朝の鍵は、いつもより重たく指の腹に食い込んだ。
集合場所の学校グラウンドに着くと、すでに何組かの子どもたちと保護者たちが集まっていた。校庭の片隅では、色鮮やかなテントの骨組みが芝の上に広げられ、汗に濡れた大人たちの笑い声が夏の空気を震わせている。美香は俊哉の背中を軽く押し出し、自分たちのグループの場所へ向かった。芝を踏むたび、サンダルの底から地面の固さと熱がじんわりと伝わる。汗ばんだ首筋を朝風がなぞっていく感触に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「美香さん、おはよ。今日はほんとに暑いわね。朝からこれじゃ、昼には倒れそうよ」
小野寺理恵が麦わら帽子のつばを揺らしながら近づいてきた。理恵の肌は汗で薄く光っていて、首元には小さなペンダントが汗の筋と重なって光っている。美香は自分も笑顔を作り、手にした紙袋を持ち上げて見せた。
「おはようございます。差し入れにスポーツドリンクと冷やしたタオル、あと果物を少し持ってきたんです。足りるかしら」
「それ、ちょうどよかったわ。設営でみんな喉カラカラよ。美香さん、本当に世話好きなんだから。でも、ありがとう。助かるわ」
理恵が笑いながら美香の腕に軽く触れた。その手のひらの湿り気が、他人の体温のにおいを運んでくる。汗と、日焼け止めと、そして理恵の香水が混ざった甘ったるい空気が、一瞬だけ美香の鼻先をかすめた。美香はそれを不快とは思わず、むしろ夏の非日常を身体ごと飲み込むような感覚に身を委ねた。
設営は思っていた以上に重労働だった。テントの骨組みを押さえ、ペグを地面に打ち込み、ロープを引く。美香は男親たちと一緒に身体を動かしながら、日ごとに強くなる陽射しの中で全身を汗で濡らしていった。背中に張りついたシャツは半透明になって肌の線を浮き上がらせ、脇には汗の筋が幾本も伝って麻の短パンへ染み込んでいく。動くたびに、胸の下にもうっすらと汗がにじんで生地が食いつき、布の内側で肌がこすれるたびに甘く湿った熱が生まれた。
「美香さん、そんな力仕事しなくていいのよ。男の人がやってくれるから」
隣に来た母親の一人が息を弾ませながら言った。美香は首を振り、汗を拭いながら笑い返す。
「私のほうが、じっとしてるより動いてるほうが楽なんです。中距離やってたから、このくらい平気」
本当にその言葉は本心だった。身体を動かすのは嫌いじゃない。汗をかいていると、余計なことを考えずに済んだ。昨夜から何度も蘇る、あの低い声と、理恵から聞いた言葉の破片。何もかも、汗と一緒に流れ出てしまえばいいとさえ思った。
昼が過ぎると、子どもたちは木陰で昼食をとり、美香たち保護者はくたくたになってテントの間を歩き回っていた。地面から立ち上る陽炎越しに、校庭の先にあるプールの水面が白く輝いてまぶしさを増している。
「あ、そうだ。今日、使えるらしいわよ。プールのシャワー設備」
そこへ戻ってきた理恵が、首に手を当てて汗をぬぐいながら言った。美香は飲みかけのスポーツドリンクのキャップを回す手を止めた。
「プールのシャワー、借りられるんですか?」
「そう。学校が特別に更衣室とシャワーを貸してくれるんですって。保護者は時間をずらして交代で、だって。夕方の一度だけなんだけど、汗を流すには十分でしょ。美香さん、先に入ってきなさいよ。顔、真っ赤よ」
理恵がにこにこと笑いながら、自分の首筋をぺたぺたと叩いた。美香は首を振り、遠慮した。
「大丈夫です。私は後で。みなさんが先にどうぞ」
「でもさ、時間割があるから。あとで高瀬コーチが説明してくれるわ。なんか、順番を決めるらしいの」
理恵の口から「高瀬コーチ」という名前が出た瞬間、美香の胸がとくん、と小さく跳ねた。喉がぎゅうっと狭くなり、飲みかけだったスポーツドリンクの冷たい液体が、胃の中で不自然にゆっくりと流れ落ちていく。美香は平然を装い、空になった紙コップを指でくしゃりとつぶした。
「そうなんですね」
短く答えるのが精一杯だった。理恵はそれ以上、高瀬の話題を引っ張らず、別の母親に呼ばれて茂みの向こうへ歩いていった。美香は大きく息を吐き、汗で湿った首筋を手のひらで押さえる。指先が自分の鼓動を皮膚越しに感じ取った。
夕方になると、朝よりも湿度が濃くなり、プールサイドからは消毒のにおいと水のにおいが混ざって流れてきた。高瀬亮介が保護者たちにシャワーの案内をしている姿が、遠くのフェンス際に見える。短い黒髪も、日に焼けた首も、肩から背中へ落ちる筋肉の厚みも、夕日に染まって橙色の陰影になっている。美香はわざと彼から距離を取るように、木陰からその姿を眺めていた。体温がまた上がっていくのが自分でもわかった。
その輪の中から保護者の一人が手を挙げ、笑い声が起きた。高瀬が頭を下げ、丁寧に何かを説明している。普段はあまり笑わないその横顔が、わずかに口元を緩ませているように見えて、美香は途端に胸の内側を鋭くつかまれたような心地がした。あの口元から、いつか私の旧姓が転がりでた。水野さん、と。たった三文字の呼び名が、十年分の妻と母の時間を薄皮のように剥がしていく。
「シャワーは、保護者の交代制にしてあります。女性の方から順に使ってください。私が見張り番をするので、安心して入っていただいて大丈夫です」
夕風に乗って、高瀬の声が遠くから届いた。無口な男の声は想像よりも低く、けれどよく通る。美香は木の幹に背を預け、白い半袖シャツの襟を摘んでぱたぱたと仰いだ。首元にまとめた髪の毛先が汗で肌に貼りつき、その一本一本が神経のように敏感に震えている。
「美香さん、先に入ったほうがいいわよ。私、着替えの都合があるから後でいいし」
別の母親に声をかけられ、美香は緩く頭を振った。だが、時計の針が十七時を回り、保護者たちが更衣室へ向かい始めると、美香も汗のねとつくシャツをなんとかしなければという思いに駆られた。日陰にいても、下着のゴムのあたりに汗が溜まり、腰回りの布地が肌に吸いついている。太腿の裏も汗でしっとりと濡れていた。身体を流すのは確かにありがたい。何より、高瀬の姿から一度離れて、水の音で頭を空っぽにしたかった。
覚悟を決めて、美香はプールそばの渡り廊下へ足を進めた。サンダルの音が木の床に小さく反響する。目指すシャワー室は体育館の裏手、プール脇のフェンス沿いに建つ旧式の平屋だった。外壁の白いタイルには、長い年月をかけて染みついた水垢が、夕日の中で銀色の鱗のように光っている。扉のそばまで来ると、ひんやりと湿った空気が素足のくるぶしを這い、甘い黴と塩素の匂いが鼻先へ張りついた。
美香はためらうように歩みを止めた。脱衣所の戸が、わずかに開いている。そこから、水音が聞こえた。それも、蛇口から流れるだけでなく、確かに誰かの身体を打ち、石の床へ跳ね散る、肉の表面を叩く軽やかで重い音。
しゃわあ、と湯気を混じえた飛沫が、扉の隙間から細く外へ漏れ、湿った舌のような空気が美香の顔へ触れてきた。美香は喉の奥で息を詰め、そっと半開きの扉の向こうへ目をやった。
湯気の中に、男の背中があった。腰のあたりが細く絞り込まれ、肩へ向かって逆三角形に広がる、日焼けしたへんじもない素肌。球技で仕上がった背中は、刃物のように薄くなった筋肉の束が何層にも重なり、水滴を弾きながらゆっくりと呼吸をしている。黒く短い髪から落ちる水が、首すじを伝い、背骨の溝をなぞって、尻の狭い窪みへと吸い込まれていく。
高瀬だった。美香は声を出しそうになり、慌てて口を塞いだ。心臓が喉を作るように跳ね、耳の奥がじん、と熱いくらいの音を立てた。門の向こうを一度見てはいけないと、理性が何度も叫んだ。なのに、眼球はその素肌に触れることなく縁どられ、背中から下へ滑り落ちていく。夕日を受け止めた肌の上で、水滴が橙色の粒になって、動くたびに砕け散る。脱衣所のざらついた空気が、高瀬の汗と湯気と安い石鹸の匂いを混ぜて、美香の鼻先をくすぐった。あの身体から、今日一日の汗が流れていく。
水音がやや高くなった。高瀬がシャワーヘッドを持ち替え、身体の正面を向けた。胸板が厚く、鎖骨から下に走る筋肉の襞が湯を磨き込むように脈打っている。腕を上げた拍子に、脇の下に濃い影が見えて、美香の腹の奥がまたきゅっと収縮した。胸の谷間だけでなく、男の脇なんてまじまじと見たことはない。見てはいけない場所を見た羞恥が、のぼせたかというほど顔に広がった。
そこで、彼の手がシャワーを自分の腹間に当てたまま、身体の向きを微かに変えた。いよいよ、腰から下へ、視界が流れ込む。太い腰骨、引き締まった脇腹、うっすらと黒い陰毛が、濡れて肌に平たくめり込み、その中心の、まだ力の入っていない肉の隆起が、湯気の中で重たげに揺れていた。
美香は息を呑み、眼前の光景が頭の中を白く焼いた。勃起もしていない。していないというのに、その存在感は、見間違いでは済まされないほど、どっしりと股のあいだに沈んでいた。夫のそれを知っている。知っているからこそ、比べてしまう。あれは、水を含んだ海綿のように柔らかいだろうに、根元から先まで、形を保ったまま、ぶらりと重そうに垂れている。先端の皮の色は、日焼けした肉の色よりずっと濃く、夕日を受けて赤紫に近い陰影を落としていた。その下にはしわの寄った袋がぴったりと太腿に貼りついて、ぬらぬらと光っている。
美香の足先から力が抜けていき、体全体がその場に釘で打たれたようになった。首筋を汗が一筋、ゆっくりと流れていく。鼓動の音が耳の中で水音よりも大きく、意識を締めつける。全身の血が、頬と、腹の底のどちらにも集まっていくようだった。ひどく淫らな場所を見ている。夫以外の男の、それも、肉のままの姿を。
そのとき、高瀬の手が止まった。水音が急に途切れ、その静寂が、かえって二人の存在を裸にしていく。高瀬がゆっくりと肩越しに振り向いた。切れ長の目が、素肌に水滴を残したまま、薄暗い脱衣所の戸口に立つ美香の姿を捉えた。
何秒たったのか、わからない。美香は口元を押さえたまま、目をそらすことすらできずにいた。高瀬も一瞬、言葉を失ったようだった。無口な男の瞳の奥で、何かが弾け、驚きと困惑が同時に束になって走る。次の瞬間、高瀬はさっと体を横に向け、近くのタオルで下半身を覆った。けれど、もう遅い。覆われた皮膚の下に、その大きさの輪郭が浮かんで、美香の網膜に刻まれた映像を何倍も強くした。隠されたからこそ、余計に、知ってはいけないものを知った気がした。
ごめん、と美香の唇がかすかに動いた。声にはならなかった。高瀬は黙って背を向け、シャワーを止めた。後ろ姿の、まだ魚のように濡れた背骨の溝が、申し訳なさと羞恥で熱い。
美香はその場から逃げ出した。木の床を蹴るサンダルの音が、自分の鼓動のように体中へ響いた。何かに掴まらないと倒れそうで、渡り廊下の柱に手をつく。昼からまとわりついていた汗と、今、一瞬で吹き上がった新たな肌の湿り気が、入り混じって太腿を伝った。下着が張りつき、内腿の付け根が熱い。
結局、美香はシャワーを浴びられなかった。更衣室の入口で心を整え、別の保護者に何か言われる前に、そのまま裏庭へ回った。夕暮れの風が汗を乾かしていく。けれど、あの浴室から漏れた湯気と、彼の背中の匂いが、肌に膜のように貼りついて離れない。水しぶきの音が、何度も鼓膜の裏側で鳴っていた。
視界の奥には、まだ、あの肉の重さが残っていた。夕日を浴びて、静かに垂れ下がっていた、夫のそれをはるかに超えるかたまり。目を閉じれば、陰毛と腹筋とはっきりと分かれた、その輪郭が際限なく膨らんで、美香を息苦しくさせる。
高瀬に、どう謝ればいいのかわからない。ただ、今日のあの瞬間、私はたしかに、夫以外の男の裸を、燃えるような恥とともに目に焼きつけた。心の奥では、水野美香という呼ばれ方と同じ温度の熱が、汗と水の匂いに絡みつきながら、ゆっくりと彼女の腹の底に広がっている。
美香がようやく頭を上げると、あたりは薄暗くなっていた。校庭のテント群から、子どもたちの歓声とも、保護者たちの笑い声ともつかぬ音が風に揺れてくる。夜が始まる。彼女は少し乱れた前髪を耳にかけ、汗の染みた襟を掴みなおしながら、ゆっくりと人々の輪へ戻っていった。何もなかったように、日常の膜の上を歩き始める。けれど、その足元はひどくふらついていた。
第3章 夜の酒盛りと股間へ吸い寄せられる視線
第3章: 夜の酒盛りと股間へ吸い寄せられる視線
空が濃紺に沈み、学校の校舎が黒い輪郭だけを残す頃、グラウンドの片隅に置かれた簡易テーブルの上で、紙コップが夜風に乾いた音を立てた。子どもたちの声はもう聞こえなかった。テントの出入り口を閉じた布が、時折りむずかる小さな体に揺れて、その度に中からくぐもった寝息が漏れている。汗を流せなかった肌は、Tシャツの下で乾いた薄膜のように張りついていて、腕を曲げるたびに違和感が走る。美香は首の後ろに手をやり、そこに残った午後の陽射しの余韻を指先で押さえた。肌はまだ、水を欲しがっていた。
「美香さん、こっち、こっち。空いてるわよ」
理恵の明るい声が、虫の音を弾くように響いた。振り向くと、折りたたみ式のパイプ椅子に腰かけた理恵が、紙コップを片手に空いた席をぽんぽんと叩いている。隣には同じクラブの保護者たちが、グラウンドの照明に照らされて橙いろの顔を並べていた。黒いTシャツの上からでもわかる理恵の二の腕は、昼間の設営で日焼け止めを塗り直す暇もなかったせいか、ほんのり火照って見える。
「ありがとうございます。俊哉、もう寝たみたいで」
美香は理恵の隣へ腰を下ろしながら、小さな声でそう言った。腰掛けたパイプ椅子の冷たさが、薄いハーフパンツ越しに太腿の裏を刺す。湿った空気が椅子の脚にまとわり、地面の熱が昼の記憶をまだ抱えている。紙コップに注がれた焼酎は透明で、氷がかちりと音を立てた。
「おつかれ。まず、ひとくち飲みな。あんた、顔がまだ火照ってるわよ」
理恵が自分のコップを軽く傾け、美香の手元を促す。美香は両手で紙コップを包み、かすかにぶつかる氷の重さを感じた。口を近づけると、アルコールの尖った匂いが鼻の奥を焼き、思わずまぶたが細くなる。蒸した芝生の匂いが夜風で薄れてはまた戻り、喉を濡らす液体だけが妙に冷たく、汗ばんだ身体の中に一本の冷たい線を描いた。
「理恵さん、私、あんまり飲めないのに」
「いいからいいから。こういう夜は、氷と一緒に溶けちゃえばいいのよ。あんたも今日、テント設営でずいぶん動いてたでしょ」
その言葉に頷きながら、美香は紙コップを口へ運んだ。焼酎の味は水のように薄く、喉を通った後から微かに熱が戻ってくる。氷の角が唇に触れるたび、昼間のシャワー室の光景が瞼の裏に点滅した。ぐちゃぐちゃした湯気の中で、重力に従って垂れ下がる、あの重そうな輪郭。湯の粒をまとった肌の色。目撃してしまった瞬間の鼓動が、まだ身体のどこかに隠れていて、酒を飲むたびに不規則な脈を打つ。美香は自分の指が紙コップの濡れた表面を何度もなぞっていることに気づき、そっとコップを膝の上へ置いた。
コーチや父兄たちがテーブルを囲み、取り留めのない話が夜の空へ上っては消えた。グラウンドの水銀灯が光の粒を飛ばし、その下で笑い声がはじける。地面にしみた酒の匂いが、風に煽られて時折美香の鼻先を通った。誰かが氷の袋を破る音、カシャンとコップが重なる音、甲高い女子の笑い声。そのすべてが美香の皮膚の上をざわざわと這い、彼女だけがいない場所に置かれたような、薄い膜を隔てた気配を持っていた。
視線を落とした先で、高瀬亮介が座っていた。黒いトレーナーの袖を肘まで押し上げ、折りたたみ椅子に深く腰かけて、紙コップを片手に黙っている。照明に照らされた首筋には、昼間の汗がうっすらと光り、喉仏が乾いた空気の中でゆっくり動いた。美香はすぐに目を逸らした。だが、目を逸らした先にあった彼のグレーのスウェットと、太腿の上で布が寄ってできた柔らかな陰影が、なぜだか視界の端に張りついて離れない。心臓が、また。
「そういえば、高瀬コーチ。今日の俊哉くん、どうでした?」
理恵が前のめりになって声をかけた。周囲の話し声が一瞬だけ低くなり、高瀬の返事を聞こうとする静けさが生まれる。高瀬はコップを口から離し、静かに首を巡らせた。
「今日は右サイドの上がりが、いつもより早かったですね。相手を引きつけてからボールを受けるようになってきた。あれは良くなっています」
低い声が、夜の空気を震わせた。酒の柔らかい熱で、いつもより少しだけ言葉に輪郭があった。美香は背中に汗が再びじわりと滲むのを感じた。心臓の音がテンポを速め、膝の上で両手が握り合わさる。
「あの子、走り方にまだ陸上選手の癖が残ってるんです。腕の振りと視線の置き方が、前に走る方向を向いているでしょう。サッカーの動きでは、その軸がずれることがある。でも、今日は軸がぶれていなかった」
高瀬が、美香の方へほんの少しだけ顔を向けた。
「水野さんは元競技者ですから、見ていてわかると思いますが」
その瞬間、夜の空から細い糸が降りてきて、美香の奥のどこかを引っ張った。水野さん、と低く呼ばれただけで、閉じかけていた水門が音を立てて開く。夫婦の呼び名では届かない場所が、じんと熱くなった。あの旧姓は、美香の中の少女を連れ戻す合図みたいに、こんな夜の芝生の上で甘く響く。
「昔のこと、よくご存じですね」
美香は声をできるだけ穏やかに保ちながら返した。だが、指先は濡れた紙コップの縁をぎゅっと潰し、コップの中の氷が小さく音を立てた。
「俊哉の走りを見ていれば、だいたい想像できます。きちんと競技をやってきた人の癖ですから。私も足元は似たような感覚でした」
高瀬の言葉は淡々としていた。彼が話すのは競技の話になるときだけだ、と理恵が以前言っていたのを思い出す。でも、その淡々とした熱が、美香の胸の真ん中を素足で踏んで通る。子どものコーチではなく、一人の男として彼の視線を感じる。隣りの席のママたちが、ひそひそとこちらを見て笑っている気がした。気のせいかもしれない。美香はますます顔を俯かせ、手の中のコップを見つめた。かちり。氷が溶けて、また軽い音を立たせる。
「美香さん、ほんとに良かったわね。高瀬コーチがそんな風に俊哉くんのこと見てくれてるなんて。あんた、顔が真っ赤よ」
理恵が楽しげに囃したて、美香の背中を軽く叩いた。ぱん、と柔らかな音が夜に吸い込まれる。美香は首を振りながら笑おうとしたが、口元がうまく動かず、下唇の内側を噛んだ。目が、また高瀬の太腿へ吸い寄せられそうになる。座った姿勢のせいで股の辺りにできた布のふくらみ。昼間見たものの形が、どうしてもその布の下に重なってしまう。見てはいけないと頭の芯で繰り返しながら、視線だけが湿った夜の匂いを辿るように落ちていく。そして実際に目にした瞬間、頬が熱湯に浸されたみたいに火照った。
「私、どの子も伸びると思って指導しています。俊哉は特に、先々が面白い」
高瀬が続けて言った。美香は顔を上げられなかった。膝の上で握りしめた指の節が白い。太腿の内側が、自分の汗でしっとりと張りついている。昼間から着ている白い半袖Tシャツの襟元は、何度も引っ張ったせいで少し伸び、胸元の汗がちょうど鎖骨の下を小さな川のように流れていた。
「水野さん、ご自宅では旦那さんとよく俊哉の動きの話をされますか」
高瀬の問いかけに、美香はようやく顔を半分だけ持ち上げた。照明の明かりが高瀬の切れ長の目に当たり、その瞳が薄い茶色に見える。彼の声だけが、なぜか他の誰の笑い声からも浮き上がって美香の耳に届く。
「夫は仕事が忙しくて、なかなか合宿までは来られないんです。ビデオを撮って見せても、詳しい話まではできないって感じで」
「そうですか。次の試合では、俊哉がいい場面をたくさん作れると思いますよ。見ていてください」
優しさの薄い膜をまとっただけの、事務的ですらない、不意に差し出されたような言葉。美香の胸の奥が、きゅ、と鳴った。嬉しいはずなのに、それを素直に受け取れない自分が、指先を無意味に動かす。隣りにいるというだけで、汗ばんだ空気が二人ぶん混ざり合って、理恵の笑い声さえ遠くに聞こえた。
「あら、美香さん、氷ばっかり舐めてる。コップが結露でびしょびしょよ。ほら、おかわり注いで」
理恵の手が、焼酎のペットボトルを傾けた。透明な液体が美香のコップに流れ込む。氷が弾けて、またかちりと鳴った。その音が、昼間のシャワー室で聞いた水の音と重なって、美香の耳の奥でぐわんと反響する。水滴の飛沫を全身に浴びたあの体。肩甲骨の盛り上がり。そして、振り返った拍子に視界へ入ってきた、あの重く、柔らかく、それでいて凶暴な重さを備えた肉塊。美香はコップを持つ手を膝に置いたまま、奥歯のあたりに熱が宿るのを感じた。酒の酔いではない別の熱が、下腹のずっと奥で楕円を描いて巡っている。
「高瀬コーチ、この後もうちょい付き合うんでしょ?」
少し離れた席から父兄の一人が声をかけ、高瀬が小さく頷くのが横顔でわかった。首を動かすとき、黒いトレーナーの胸のあたりがふくらみ、その後ろに隠れた硬い胸板を想像させる。美香はもう一度、彼の腰を覆うグレーの布へ目を奪われた。自分の息が浅くなり、唇の内側が乾く。舌先で下唇を濡らすと、焼酎の味が薄く広がった。
「美香さん」
理恵が、ちょいと身を寄せてきた。小声だが、含み笑いの気配が混じる。
「さっきから、目線やばくない? 私にはわかるのよ。あんた、合宿入ってからずっと上の空だし」
「そんなことないです」
「そう? じゃあ、いいけど。でも、あの手の男はね、黙ってるくせに視線だけはちゃんと獲物を追ってるから。気をつけな」
理恵の言葉は、湿った夜気に溶けて、美香の胸の奥をくすぐるように残った。獲物、という単語がやけに生々しくて、紙コップを持つ指にまた力が入る。汗と焼酎の匂い、芝生と夜風の匂い。すべてが混ざった空気の中で、高瀬の存在だけが強い磁石のようにテーブルの端に座っていた。
笑い声が何度か途切れ、また誰かが氷の袋を探して立ち上がった。地面に敷かれたブルーシートの端が夜風にめくれ、灰皿の傍に置かれた缶がからんと倒れる。美香は空になった自分のコップを見つめたまま、指先でコップの口をぐるりと撫でた。かちり。氷がひとつ、溶けながら音を立てる。シャワー室の水音が、まだ指先に残っているような気がした。湯気ごしに見たあの重い質量は、夜になっても消えず、むしろアルコールの熱でくっきりと輪郭を増していた。
「そろそろ、お開きにしようか」
誰かが時計を気にする声を上げると、周囲が一斉に伸びをしたり、腰を浮かせたりする。椅子の足が砂を引きずり、紙コップが重なる。高瀬が静かに立ち上がるのが、美香の視界の隅に映った。黒いトレーナーの背が立ち、照明の下で高い位置に伸びる。腰のあたりの布が、わずかに波打った。
「美香さん、あんた時間どうする? 私はまだ残り組と話してくから、先に帰っていいのよ」
理恵が置きっぱなしの氷袋をとん、と突いた。美香は微かに首を傾げ、立ち上がった高瀬の姿を追ってしまった。心臓が、耳のすぐ裏で音を立てている。下腹の奥に、昼間から消えない疼きが、また丸く熱を孕んでいた。
「理恵さん、ちょっと……空気に当たってきます」
美香はそう言って椅子から腰を上げた。濡れた太腿が冷えた空気に触れて、びり、と産毛を逆立てる。身体中が汗と夜気と酒の匂いで重く、歩き出すたびに地面の草がしなった。数歩先で高瀬の広い背が、白い外灯を背にして夜の色に沈んでいる。まだ、頭のどこかでは「帰らなきゃ」と誰かの声がしているのに、甘い水音が遠くから呼ぶような、そんな夜だった。
第4章 夫の不在と玄関の鍵に揺れる指
第4章: 夫の不在と玄関の鍵に揺れる指
夜風に背中を押されるように、美香はグラウンドの端を目指した。人の輪を二歩外れると、虫の声が急に近くなり、地面から立つ草の匂いが鼻の裏をくすぐる。腰を下ろしていた時間が長かったせいで、膝の後ろにまだ椅子の硬さが残っていた。指先に触れる紙コップの濡れはどこかへ消え、今は自分の太腿がハーフパンツの内側で汗ばんでいるのを感じる。
「帰らなきゃ」
呟きにもならない呼吸が唇から漏れた。明日の朝、俊哉を迎えに行くには、一度家へ戻って身体を休めないといけない。頭の隅ではそう決めているのに、足はまっすぐ正門へ向かわず、外灯の下をなぞるように弧を描いている。自分でも理由のわからない遠回りだった。
数歩進んだところで、後ろから砂を踏む音が近づいてきた。聞き覚えのある静かな足取り。振り返る前から、黒いトレーナーの輪郭が視界の端に浮かんでいる。美香は息を浅くしながら、わざとゆっくり足を止めた。
「斎藤さん」
低い声が虫の音の膜を破り、美香の耳のすぐ裏をくすぐった。振り向くと、高瀬亮介が二、三歩の距離を置いて立っていた。外灯が彼の右肩を白く削り、左半身は夜の色へ沈んでいる。切れ長の目はこちらをまっすぐ見ていたが、酒の火照りをまとった頬のせいか、いつもより輪郭が柔らかく見えた。
「高瀬コーチ。お疲れさまです」
美香は笑みを作ったが、口元が引きつるのが自分でもわかった。午後に目撃した裸体が、夜の薄闇の中で再び輪郭を持ち、彼の黒い衣服の下へ勝手に重なっていく。心臓が耳の奥で音を立て始めた。
「もう少しだけ、飲み直せませんか」
高瀬の声は静かで、まるで練習中の指示のように平坦だった。けれど、その平坦さが逆に、彼がこの夜を終わらせまいとしている気配を濃くした。グラウンドの向こうでは、まだ残り組の笑い声が紙コップを揺らしている。美香は自分の手がクラッチバッグの留め金を探しているのに気づいた。
「明日、朝早くに俊哉を迎えに行かないといけないので……あまり長くは」
クラッチバッグの革が掌に吸いつく感触。その奥で、自宅の鍵がちり、と小さく鳴った。金属の冷たさが指先に触れた瞬間、夫の不在が現実の重みを帯びて胸へ降りてくる。正敏は出張中で、あの家の明かりは今夜、誰の体温も覚えていない。
「どこか、静かな店でも。この近くに何かありますか」
高瀬が半歩だけ近づいた。距離が縮まると、彼の身体から立ちのぼる匂いが夜風に溶けて届いた。酒の渋い甘さ、乾いた汗、制汗シートの清涼感。その三つが混ざり合い、美香の背筋をぞろりと撫でる。昼間のシャワー室。水の雫。あの重いもの。視界の裏でいくつもの映像が点滅し、太腿の内側がひくりと波打った。
「この時間からだと、どこも閉まっているかもしれないです。それに、人目もありますし」
美香は言いかけて、自分の声が思ったより掠れているのを知った。高瀬の視線が一瞬、美香の手元へ落ちる。クラッチバッグを握る指が白くなっていた。
「でしたら、自宅で少しだけ。無理なら、このまま送ります」
低い声が夜へ沈んでいく。美香の脳裏に、夫と息子の三人で囲むリビングが浮かんだ。テーブルの木目、正敏の座る定位置、俊哉が散らかしたサッカー雑誌。その幸福な映像が、目の前の男の持つ獣じみた静けさと並べられ、ぐらりと傾いた。
「……私の家なら、少しだけ」
言ってしまってから、喉が締まった。明日の朝、俊哉を迎えに行く都合を口にしようとしていたのに、舌が別の言葉を選んでいた。高瀬の切れ長の目が、外灯の下でかすかに揺れる。瞳の色が一瞬、暗がりの茶色を深くしたように見えた。
「いいんですか」
「ええ。自宅でよければ、ですけど。夫が留守で、何もない家ですから」
「十分です」
短い返事が、不意に美香の腹の奥へ小さな石を落とした。十分、という言葉の余白。彼が何に対して十分だと言ったのか、考えないようにしながら足を踏み出す。高瀬が自然に隣へ並び、二人の影が外灯の下で溶けて一本になった。
グラウンドを出るまでの道、二人の間に会話はなかった。時折、高瀬の腕が美香の肘に触れそうになって離れ、そのたびに腕の産毛が体温を探して逆立った。触れていないのに、肩と肩のあいだに熱い空気の筒が通っていて、夜風が吹くたびにそれが膨らんだり縮んだりしている。
「俊哉は、もう眠っていましたか」
高瀬が低い声で尋ねた。美香は少しだけ息を詰めてから、首を縦に振った。
「はい。テントに入ってすぐ眠ったみたいです。運転しないでよかった」
「合宿では、最初の夜が一番疲れますから。朝も早いですし」
「高瀬コーチこそ、無理させてしまって。夜の見回りは大丈夫ですか」
「あれは私の役目ですから」
会話は途切れがちに続き、その隙間を夜の音が埋めた。街灯の下を過ぎるたび、高瀬の横顔がはっきり見えて、また暗がりに沈む。美香は視線を足元へ落とした。サンダルの鼻先に、細かな砂がついている。地面から伝わる冷えが、火照った足裏をかえって敏感にした。
住宅地へ入ると、道幅が狭くなり、二人の歩幅がさらに近づいた。よその家の門灯や、カーテンの奥から漏れる青白いテレビの光。窓を開けた家からは、どこかの家族の話し声が聞こえてくる。美香は自分の家へ近づくにつれ、胸の奥で二つの時間が重なるのを感じていた。妻として夫を迎える夜の記憶。母として俊哉を寝かしつける夜の記憶。そのどれとも違う、誰でもない女の時間が、この夜道の先に口を開けて待っている。
「こちらの辺りは静かでいいですね。夜でも安心です」
「治安はいいほうです。学校も近いですし。ただ、夜は本当に静かで、家の中の音がよく響くんです。だから、今日みたいに遅くなると、鍵を回す音がやけに大きくて」
「帰ってきた、という感じがしますね」
高瀬が小さく笑った。声を立てない笑みの気配が、耳をくすぐる。美香も釣られて口元を緩めたが、指先がクラッチバッグの中でまた鍵の金具に触れていた。汗と酔いでぬめる掌へ、金属の切っ先が食い込む。痛いほど握りしめているのに、指の力が抜けない。
「着きました」
美香は小さな声で言って、門の前に足を止めた。二階建ての、どこにでもある一軒家。暗い窓がいっそう深い色になっていて、留守の夜の沈黙がすでに建物の外まで流れ出している。高瀬は黙って美香の後ろに立ち、彼女が門を開けるのを待った。
玄関まで続く短い石畳。サンダルが擦れる音だけが、二人分重なって夜に落ちる。外灯の光が門柱から足元を照らし、美香はクラッチバッグから鍵を取り出した。指先が錠前に伸びる。高瀬の視線を背中に感じながら、鍵の先端を差し込もうとして、一度手が滑った。かちゃり、と金物の鳴る音が静寂を叩く。
「……手、震えてますね」
高瀬が、ごく低い声で言った。
「寒くて。夜風が少し」
美香は振り向かずに答えて、もう一度鍵を差し込んだ。今度は手首が震えたが、錠は抵抗なく回った。解錠の音が、自分の呼吸よりも大きく鼓膜を叩く。玄関を開けると、家の中の空気が外の夜気と入れ替わり、ひんやりと甘い、正敏のいない匂いが流れた。
「どうぞ。散らかってて、恥ずかしいくらいなんですけど」
美香は先に上がって電気をつけた。明るくなった玄関に、高瀬の大きな体がゆっくり入ってくる。濃紺のスウェットが照明を吸い、肩幅の広さが急に近く感じられた。靴を脱ぐ背中が丸まり、それまで外の暗がりでは見えなかった首の産毛まで、今ははっきりと視界に入る。
「お邪魔します」
高瀬の声が、玄関の空気を震わせた。美香は鍵を置く場所を探したが、急に家の間取りを忘れたように手が迷い、結局小さなトレーへ押し込んだ。錠の金具がまたからんと鳴る。夫が出張でいない夜、自分が男を一人、この家に通してしまった。その事実が玄関の土間に滲んで、足元を不安定にした。
リビングへ案内すると、カーテンの閉まった部屋はむっとした暑さを含んでいた。ダイニングテーブルの上には、朝急いで置いたままの俊哉の連絡プリントと、正敏の読みかけの新聞。美香は窓を少しだけ開け、空気を入れ替えようとした。網戸越しに夜風が入り込み、レースのカーテンをゆっくり膨らませる。
「ビールと、あと焼酎がありましたけど」
「じゃあ、焼酎のお湯割りを。冷たいのだと身体が冷えてしまう」
「え、ああ、お湯割りですね。少し待ってください」
美香は台所へ向かい、急須の横に置いた電気ケトルに水を入れた。背中に高瀬の視線を感じる。リビングの真ん中に立った彼は、小さなテーブルを挟んで、床のラグへ腰を下ろそうとしている。ぐず、とケトルの音がし始め、湯の沸く低い唸りが静かな部屋を満たした。グラスを二つ出して戸棚から焼酎を取り出す。冷蔵庫を開けると、夫の好物のチーズや、俊哉の飲みかけのスポーツドリンクが並んでいた。美香はそれらを見ないようにしながら、グラスへ焼酎とお湯を順に注いだ。湯気が顔へ上がり、汗の膜を温める。
「お待たせしました」
美香がグラスを運ぶと、高瀬は床に座って軽く頭を下げた。彼の向かいに正座しようとした美香の手が、テーブルの縁にぶつかってグラスが小刻みに揺れた。液体の表面が波打ち、照明のかたちを歪める。
「いただきます」
二人はほぼ同時に言い、グラスを傾けた。焼酎の湯気の匂いが鼻の奥を温め、喉へ流れ込む熱が胃ではなく下腹の奥で泡立つ。高瀬の喉仏が上下し、く、と小さな吐息が聞こえた。美香は顔を伏せたまま、上目遣いだけを彼の腰のあたりへ走らせた。グレーのスウェットにできた柔らかな襞。太腿から股間へかけて布が集まり、あの日の記憶がまた頭をもたげる。声もなく視線を解くと、今度は高瀬が美香の手元を見ていた。
「俊哉のことを、嬉しく思ったんです。今日みたいに、あなたと話せて」
高瀬が突然、静かな声で言った。美香は動揺して、両手でグラスを包みなおした。
「私も、俊哉の話ができてよかった。夫が忙しくて、教室の様子をなかなか聞けないから」
「……私は、俊哉のお母さんとしてではなく、水野さんと話がしたかった」
その一言で、部屋の空気が急激に濃くなった。水野さん。旧姓で呼ばれた瞬間、背骨の奥でぽきりと音がするみたいに、何かが折れた気がした。美香は息をとめ、グラスを握る指が熱い湯気の中で白くなる。高瀬はテーブル越しに身を乗り出し、次の言葉を待つように口を閉じた。沈黙の密度が、二人の間の狭い空間を圧縮していく。
「昔の私を知ってるみたいな言い方、やめてください」
美香は震える声で言ったが、目を逸らすことができなかった。高瀬の切れ長の瞳が、暗い茶色のまま美香を見据えている。彼の手がゆっくりと伸びてきて、テーブルの上の美香の指先から二センチのところに置かれた。触れていないのに、皮膚の上を熱い影が這う。
「水野さんは、今もあなたの中にいますよ。さっき、俊哉の走りを話したときの目を、私は見ていましたから」
高瀬の声は、まるで夜の匂いをまとったように低く、甘かった。美香の心臓が耳のすぐ裏で跳ね、太腿の裏と床のあいだに汗が滲む。彼の指が、ほんの数ミリ、こちらへ動いた気がした。部屋の中には、網戸越しの虫の声と、氷の溶ける音と、二つの呼吸だけが存在している。
「言い訳を、しなくていい夜もあります」
高瀬がそう言って、身体ごと美香の方へ近づいてきた。テーブルが小さな音を立てて揺れ、グラスの水面が光を散らす。美香は後ろへ逃げようとしたが、腰の後ろはすぐに壁で、逃げ場は焼酎の湯気と男の匂いのあいだに閉じ込められていた。
「高瀬コーチ……」
美香の声が尻すぼみに消える。高瀬の手が上がり、真っ直ぐに美香の首元へ伸びてきた。長い指が、汗で濡れた襟足にかかる髪を一房だけ救い上げる。触れるか触れないかの距離で、指先がゆっくり耳の後ろをなぞった。皮膚の産毛が一斉に逆立ち、唇の奥で小さな悲鳴が潰れた。
「いい匂いですね。汗と、日向の匂いがする」
高瀬の鼻先が、美香のうなじへ近づいた。すん、と空気を吸い込む音が、耳のすぐ下で聞こえる。彼の吐息が首筋へ降りかかり、そこだけ熱湯をかけられたみたいにじんと痺れた。美香は両手を床についたまま、指でラグの繊維を握りしめた。脚の内側を、自分の汗が一本の線になって流れていく。
「やめて……」
声はしても、手が出ない。夫の匂いのしない家で、夫の知らない男の鼻先が、女の匂いを確かめている。抵抗の代わりに、太腿の内側がふるりと震えて、下着の奥が熱を持つのを感じた。高瀬は顔を離すと、今度は美香の二の腕へ手を這わせた。指の腹が、日中の設営で焦げついた肌をゆっくり滑る。
「無理なら、この先へは進みません」
高瀬がそう囁いた。その選択を委ねられた瞬間、美香の身体はいっそう深く火照り、口からは何の言葉も出なかった。ただ、彼の手のひらが触れている二の腕だけが、もう抵抗する熱を失っていた。二人は床に座ったまま、時間の沈む海の底で互いを見つめ合う。
高瀬の手が、白い半袖Tシャツの裾へ降りてきた。指先が布の端を摘む。その触覚は軽いのに、腹の奥のいちばん深いところを直に掴まれたみたいに、美香の全身がびくりと跳ねた。彼の指は布をかけたまま止まり、次を求めるというより、美香が息を吐くのを待っている。
二人の呼吸だけが部屋に溢れ、夫の不在を静かに濡らしていく。美香は目を閉じることもできず、高瀬の指にかかったTシャツの裾を見つめたまま、唇の端から熱い息を逃した。
第5章 一線を越えた夜に奥を突かれて

第5章: 一線を越えた夜に奥を突かれて
高瀬の指は、白いTシャツの裾を摘んだまま、まるで美香の許しを請うように細かく震えていた。指の腹が布を介して腰骨の上に触れている。ただそれだけのことが、下腹の奥に細い糸を通されて、ぎゅっと引かれたような鈍い疼きへ変わる。美香は床に座ったまま、壁に背を預けて短い息を繰り返した。換気のために開いた窓から、夜風が網戸を微かに鳴かせている。その音がやけに遠く聞こえた。
「……無理なら、止めます」
高瀬の声が、湿った空気の底を沈んで届いた。目線を上げると、彼の切れ長の瞳が薄暗いリビングの照明を吸い込んで、濡れたように光っている。美香は唇を開きかけたが、喉の奥に貼りついた熱い息が言葉の形にならず、小さく首を横に振ることしかできなかった。
「止めないで、というふうに見えますけど」
高瀬が、ほとんど吐息だけで言った。彼の手が裾から中へ忍び込む。熱い掌が美香の脇腹をゆっくりと這い上がり、びしょりと汗ばんだ背中へ回った。皮膚と皮膚が擦れる、ぬるついた音がやけに生々しく鼓膜を刺す。美香は思わず背をしならせ、彼の手から逃げようとしたが、壁がそれを拒んだ。
「汗が冷えてる。気持ちいいです、触っていると」
高瀬の言葉は途切れ途切れで、そのくせ指先は確信を持って美香の背骨の溝をなぞっていく。指が腰のくびれから肩甲骨の下へ至るたび、彼女の身体は細かく波打った。あのシャワー室で見た裸体が、今、こうして自分の背中をまさぐっている。その事実だけで頭の芯が痺れ、太腿の内側がきゅうと窄まる。
「高瀬コーチ……」
呼びかけた声は湿り気を帯び、語尾が甘く溶けてしまう。高瀬は返事の代わりに、空いた方の手で美香の後頭部へ触れた。髪をまとめていたゴムを外すと、黒い髪が肩へ広がり、汗で張りついた首筋が夜気にさらされる。彼の指がその首筋を軽く押さえ、耳の後ろへ鼻先を押し当てた。
「水野さん、匂いが変わってる。さっきより甘い」
すん、と短く吸い込む音が、耳のすぐ裏で濡れた音を立てた。美香の視界が瞬間、白く明滅する。駄目なのに、そんなことをされてはいけないのに、下着の中へじわじわと熱いものが滲み出ているのを感じる。それは彼に触れられた場所からではなく、誰にも知られていないもっと深い場所から、自分の意思とは別に溢れているようだった。
「あっ……」
高瀬が美香の耳たぶを唇で挟んだ。濡れた温かい舌先が、小さな飾りを転がす。反射的に首をすくめると、彼の吐息が耳の穴へ流れ込み、背中から腰へかけて電流のような痺れが走った。美香は両手で床を掴み、ラグの繊維を握りつぶす。脚の内側が汗でしっとりと光り、紺のハーフパンツの股のあたりに暗い染みが広がりつつあるのが、自分でもわかった。
「立って、寝室のほうへ」
高瀬が囁いた。その声は命令のようでいて、哀願のようにも聞こえた。美香は目を伏せたまま、小さく頷いた。高瀬が先に立ち上がり、美香の手を取ろうと差し出す。大きな掌だった。指の節は太く、爪の先まで日に焼けた男の手。美香はその手を取らず、自分の力で立ち上がろうとしたが、腰の後ろで足がもつれた。高瀬の手が咄嗟に美香の肘を支え、そのまま二の腕を軽く握る。彼の手の熱が、冷えかけた汗の膜をじゅっと溶かした。
「歩けそうですか」
「大丈夫……」
声は掠れ、唇は乾いていた。美香は高瀬に導かれるまま、薄暗い廊下を進んだ。家の中は静かで、二人の足音と呼吸の音だけが壁に吸い込まれる。夫と俊哉の写真が飾られたリビングを抜け、階段の横を通り、寝室の引き戸を開けた。いつもの自分たちの部屋。正敏が選んだ生成りのカーテン、俊哉の小さい頃の写真を入れた棚、整理された化粧台。そこへ、夫以外の男が入ってくる。その異物感が、かえって身体の奥を熱くさせた。
高瀬は美香をベッドの端へ座らせると、静かに見下ろした。暗がりの中でも彼の肩幅の広さがわかる。黒いトレーナーの胸元が上下しているのは、彼も呼吸を乱しているからだ。美香は顔を上げられずにいると、高瀬が片膝を床につき、美香のサンダルを持ち上げた。
「足、冷えてますね」
そう言って、彼は美香の足首を両手で包み、サンダルを脱がせた。指が土踏まずをゆっくりと親指で押しながら足の甲を撫でる。美香はくすぐったさと気恥ずかしさで足指を丸めたが、高瀬の手は離れなかった。
「あたたかい……高瀬コーチの手、すごく熱い」
思わず漏れた素直な言葉に、高瀬の動きが一瞬止まった。それから彼は、美香の太腿へ手を這わせる。ハーフパンツの裾から中へ入り込むのではなく、布の上から内腿をゆっくりと撫で上げた。指の腹が、汗水で湿った肌と布を一緒に押し上げる。ぬるりとした感触が脚のつけ根へ近づいて、美香の腰がびくんと跳ねた。
「ひゃっ……」
自分の口から出たとは思えないほど幼い声が、静かな寝室に響いた。美香は両手で口を覆った。しかし高瀬は構わず、今度は両手で美香の太腿を左右から包むようにして揉んだ。彼の親指が内腿の柔らかい肉を押し分け、ハーフパンツ越しに下着の縁をなぞる。その刺激に、下着の中がまたぐっしょりと重くなった。
「布、びしょびしょになってる」
高瀬の声は驚きではなく、確かめるような響きだった。彼の指が、美香の股間を覆う布の中心を押した。ぐちゅり、と湿った布と陰唇が擦れる音がする。美香は羞恥で胸の奥を掻き回される思いだった。身体の一番恥ずかしい場所を、夫以外の男に触れられている。それなのに、あのママ友の噂話のときから意識していた男の指が、自分の淫らな汁を布越しに確かめている。頭では逃げ出したくてたまらないのに、腰が勝手に動いて、指へ押しつけるように浮いてしまう。
「あ……やだ、それ、見ないで」
「見てません。触っているだけです」
高瀬が低く笑った気配がした。彼の手がハーフパンツのウエストゴムへかかる。美香は咄嗟に彼の手首を掴んだ。震える指が彼の硬い腕に触れる。
「待って……お願い、少しだけ……心の準備が」
自分でも何を言っているのかわからなかった。恥ずかしいのと、怖いのと、もどかしいのが混ざって、涙が滲む。高瀬は美香の手を振りほどかず、そのまま動きを止めた。
「急ぎません。あなたが濡らしてきた分、私も焦らないつもりです」
その穏やかな言い方が、逆に美香の羞恥を深く抉った。彼は全部わかっているのだ。公営プールのシャワー室で見てしまった、あの重い一物のことも、酒盛りの最中に彼の股間を盗み見てしまったことも、そして今、身体が彼を求めて濡れていることも。美香は観念したように手を離し、ゆっくりと腰を浮かせた。高瀬がハーフパンツを太腿から足へ滑り落とす。下着は淡いベージュのシンプルなもので、中心部分だけが濡れて肌に張りつき、陰唇のかたちをくっきりと浮かび上がらせていた。
「綺麗だ。水野さんの身体は、思った通りに引き締まっていて、それでいて柔らかい」
高瀬が、美香の腰から腿へ手を滑らせながら言った。美香は首を振った。夫以外の人に裸を見せるのは、学生の頃の自分とは違う、35歳の女の身体。それでも、彼の視線が熱を帯びるほど、身体の内側から何かが溶け出して、下着のまん中をさらにどろりと重くする。
「嘘……私の身体、もう若くないもの」
「若さの話はしていません。俺は、あの夕方、運動をしていた頃の水野さんを、俊哉の走りから想像した。あの頃から、あなたの身体の軸は美しいし、それは今も変わっていない」
高瀬はそう囁きながら、美香のTシャツの裾を胸の方へめくり上げた。彼の指が腹の中心をなぞり、汗で濡れた肌を確かめるように撫で上げる。美香は自分から腕を上げた。Tシャツが脱がされて、ブラだけの姿になる。自分でもはっきりと聞こえるほど、心臓が早鐘を打っていた。ブラは白いレースの、下着と揃いのもの。高瀬は美香の背中へ片手を回し、ホックを外す。するりと肩からストラップが落ち、乳房が夜の空気に触れて、乳首が急に硬く立つ。
「きれいだ」
高瀬の吐息のような言葉が、首筋の汗を震わせた。彼の手が、乳房の下からゆっくりと包み込む。ひんやりとした掌に、美香の熱い胸が吸いつくようだった。大きすぎず、形の整った双丘。その重みを測るように揉まれ、美香は後ろへ倒れそうになった。腰を支えられて、そのままベッドへ沈んでいく。背中に敷かれた掛け布団が、しわを寄せた。高瀬が覆いかぶさってきて、彼の体重が腰のあたりに載る。グレーのスウェット越しに、彼の股間のあの熱いものが、美香の下着の上から強く押し当てられた。布越しでもわかる、あの質量。硬く反り返って、腹を圧迫するような存在感。
「あ……高瀬コーチ、それ……当たって」
美香が恥ずかしさに身をよじると、高瀬は逆に腰を押しつけてきた。布を隔てた肉の隆起が、美香の陰裂を割るように擦れる。そのあまりの硬さと熱さに、美香は声にならない悲鳴を喉の奥で潰した。シャワー室で見たあの大きさが、今、自分の股間をぐりぐりと押している。あのとき想像してしまった通りのことが、現実に起こっている。恐怖と好奇心と、どうしようもない期待。それがごちゃ混ぜの渦になって、下腹の奥を激しく疼かせた。
「この布、いらないな」
高瀬は身を起こすと、美香の下着を腰から下へずらした。美香は反射的に脚を閉じようとしたが、高瀬の手が膝を開かせた。露わになった秘所は、暗がりの中でもわかるほど濡れて光り、閉じた陰唇のあいだから透明な糸が垂れていた。
「すごい……こんなに濡れてる」
高瀬は無造作にそう言って、長い中指を陰裂に沿ってすべらせた。くちゅり、と粘液をかき分ける音が、夫のいない静かな寝室に妙に大きく響く。美香は顔を背け、シーツを両手で掴んだ。彼の指が敏感な肉芽を軽くなぞると、腰が跳ね上がり、胎の奥まで痺れが突き抜ける。
「ああっ……んっ……」
思わず漏れた声が、自分のものとは思えなかった。高瀬の指はゆっくりと、まるで女の形を確かめるように、濡れた溝の上を前後に滑る。指の節の硬さと、皮膚の柔らかさ。その対比さえ快楽に変換されて、美香の脳が沸きたつ。彼の指が入り口に到達すると、何のためらいもなく、ぬるりと中へ沈み込んできた。
「はぁっ……」
指が入ってくる。夫の指よりずっと太くて長い。内壁を押し広げながら、奥へ挿入れてくる感覚に、美香の息はかすれて乱れた。指の第二関節まで入ると、高瀬は指を曲げ、内襞のざらついた部分を引っ掻くように刺激した。
「ここです。水野さん、ここが弱いんですね」
「や……そんな、言わないで……」
美香は涙を滲ませて首を振った。だが、身体は正直に反応して、指を咥え込む腟がぎゅっと締まる。彼の指が抜き差しされるたびに、くちゅくちゅという粘ついた水音がした。その音が恥ずかしくて、美香は耳を塞ぎたくなる。だが、彼の指が内壁を深く刺激すると、腰が浮いてさらに音が大きくなる。
「なあ、水野さん。俺と、ここまで進んで、後悔してないか」
高瀬の低い声が、美香の額に落ちてきた。美香はぼんやりと目を開け、覆いかぶさる男の顔を見上げた。切れ長の目が、真剣な熱を宿してこちらを見ている。その顔を見た瞬間、美香の中で何かが弾けた。俊哉のコーチ。正敏のサッカー仲間。ほかの母親たちが色仕掛けの噂をする、あの高瀬亮介。その男が、今、自分の中に指を入れて、後悔していないかと聞いている。後悔していないわけがない。夫を裏切っている。息子を裏切っている。後悔していないと言えば嘘になる。それなのに、開いた口から出たのは、全く別の言葉だった。
「……後悔するのは、きっと明日から。だから今夜は、後悔より先に進んでください」
自分で口にした言葉の背徳感に、美香の胎の奥が疼いた。高瀬は一瞬瞠目したあと、深く頷いた。
「ああ。そうしろっていうなら、そうする」
高瀬が下着を完全に脱がせた。そして、自分の黒いトレーナーを脱ぎ捨て、グレーのスウェットを下ろす。現れた彼の身体は、合宿の日に湯気の中で見たものより逞しく、胸板が厚く、腹筋が割れていた。そして、下着を脱ぐと同時に、あの肉茎が立ち上がる。暗い部屋でも、はっきりと存在がわかるほど凶悪なほど大きく、太く、上向きに反り返っていた。先端はぬらぬらと光り、怒張した血管が浮いている。美香は息を呑み、ごくりと唾を飲んだ。あれが自分の中へ入る。夫のそれとは比べ物にならない肉の槍が、あの狭い場所へ。
「怖いか」
高瀬が美香の両脚を広げ、自分の腰をそのあいだへ割り込ませながら言った。美香は震える声で答えた。
「……こわい。でも、それ以上に、あの日見てからずっと、頭から離れなかった」
美香の言葉を聞いた高瀬は、目を細め、ゆっくりと腰を下ろした。彼の左手が自分の肉茎を支え、先端を美香の濡れた陰裂にあてがう。泥のように熱い肉の感触が、大陰唇を押し開いた。ずぶりと先端が沈んだ瞬間、美香の背中に電撃が走る。
「あ……ああ……っ」
入り口が破れるかと思うほど圧迫され、それでいて歓喜に満ちた悲鳴が喉から溢れた。高瀬の一物は、指とは比べものにならない質量で、美香の窄まりをこじ開けながら少しずつ奥へ進む。美香は自分の腟壁が彼の形へ強制的に変えられていく感覚に、くらくらした。
「痛い部分があったら言ってください。ですが、たぶん大丈夫だと思います。これだけ濡れていれば」
高瀬は美香の内腿を撫でながら、また数センチ押し入れた。美香の腰がぐっと浮き、シーツを足の裏で蹴る。夫に抱かれるときとは全然違う、内臓を直接押し上げられるような、泣きたいほど深い圧迫感。それでも、痛みよりも熱い快感のほうが先に立って、彼女の膣は彼の肉茎を歓迎するように収縮した。
「んっ……ひ……んぅ……」
美香は声を下唇で噛み殺そうとしたが、彼がさらに奥を貫いてくると、喉の奥からひぃ、と短い音が抜けた。彼の先端が子宮口の手前に届いて、ごり、と突かれた瞬間、目の前が白く弾けた。夫では触れられたことのない、身体の一番深い場所。そこを初めて蹂躙されて、美香の身体は全身で痙攣した。
「あああっ……!」
美香は自分の腰が浮き、高瀬の肉茎を根元まで咥え込んでいることに気づいた。彼の下腹が自分の陰核を押しつぶし、そのたびに甘い疼きが駆け上がる。高瀬はしばらく動かず、美香の奥を味わうように腰を回した。肉と肉がぐちゅぐちゅと濡れた音を立て、結合部から愛液が溢れてシーツを濡らす。
「水野さん、全部入りました。あなたの一番奥に、私のが触れています」
「んっ……わかってる……おかしくなる……こんなの……」
美香は涙をこぼしながら、高瀬の首に両手で縋りついた。脚を彼の腰へ回し、もっと深く繋がりたいと願う自分がいる。その自分が、とても淫らで、とても女の顔をしていた。高瀬がゆっくりと抽送を始めると、美香の意識は一気に快楽の坩堝へ沈む。彼が腰を引くたびに、内腔の肉が逃さまいと肉茎へ絡みつき、突き込まれるたびに奥の敏感な場所をえぐられる。ぬちゃっ、ぐちゅっ、と溢れる蜜が泡立ち、粘ついた音が寝室に満ちた。
「あ……だめ、そんな、奥……おく、弱いの……」
「大丈夫です。力抜いて。私の動きに、身体を預けてください」
高瀬の声は落ち着いているのに、動きは容赦がなかった。腰を少し浮かせ、角度を変えて、美香の弱い場所を狙ってくる。彼が亀頭で子宮口の手前を擦り上げると、美香は背中を反らして、立て続けに軽い絶頂へと突き落とされた。
「ひぃっ……き、きた……あ、ちょっと、だめ、また来る……」
膣が収縮し、大量の愛液が一気に溢れ出る。高瀬は構わず、美香の片足を自分の肩へ担ぎ上げた。結合部がさらに開き、より深く入ってくる。その深さに、美香は快楽の悲鳴を長く引き千切った。自分の胎の中で、彼の肉茎が脈打っているのがわかる。あのシャワー室で見たときは想像もできなかった熱と硬さ。それが今、自分という女を内側から壊している。
「は……ああ、高瀬コーチ……おかしくなる、本当に……あたま、真っ白になるの」
「水野さん、あなたは綺麗です。背を反らして、泣いて、それでも私のものを締めつけている。たまらない」
高瀬が美香の乳房へ片手を伸ばし、突き出た乳首を指で転がした。もう一方の乳首は、彼の顔が近づいて、唇で吸われ、舌で転がされる。胸への刺激と奥への刺激が同時に押し寄せ、美香の意識は細くしぼられていく。腕が痺れ、指先がシーツを掻いた。汗と涙と愛液の匂いが混ざり、寝室の空気を重く変えている。
「おく……おくを、突いて……もっと……」
自分からそんな言葉をねだっているのに、美香は愕然とした。夫の前では決して出したことのない声。いや、出そうと思って出せる声ではなかった。高瀬の肉茎が、彼女の女の身体を引きずり出している。彼が欲しいのは「俊哉くんのお母さん」でも「斎藤正敏の妻」でもない、旧姓の水野美香。その事実が、たまらないほど美香の身体を昂らせた。
「水野さん、良い子だ。そのまま、私を受け止めてください」
高瀬が抽送を速めた。腰が激しく打ちつけられ、睾丸が陰唇へ当たってぱちゅん、と音を立てる。美香は何度も何度も軽い絶頂を繰り返し、そのたびに内腔が激しく収縮して、彼の一物を奥へ搾るように締めつけた。深い場所から、子宮が押し上げられるような、排便感にも似た、しかしもっと甘く絶望的な快楽が込み上げてくる。脚の先から頭のてっぺんまで、全身が熱い蜜に浸かって溶けていくようだった。
「ひぃっ……あ……んぅ……こうらい、こないで……おかしくなる、助けて……ああ、それ、それ、おくに当たってる、あたってる……っ」
美香は高瀬の背中へ爪を立てた。彼の汗で滑る広い背を、縋るように抱きしめる。口からは、抑えきれない嬌声と涙と涎が一緒に溢れた。もう、夫のことも、歩いてくる途中で感じた罪悪感も、頭の隅に追いやられていた。今、この瞬間、自分の身体を蹂躙する男の肉茎だけが、この世のすべてだと錯覚するほどの快楽だった。
「美香」
高瀬が初めて、ファーストネームで呼んだ。美香、と呼ばれた瞬間、女としての自分が完全にひらいた。目を開けると、高瀬の首筋に汗が滴り、彼の目が獣じみた熱を宿して自分を見下ろしている。
「一緒に、イきましょう」
そう囁かれた声に導かれ、美香の胎の奥で大きな波が起こる。彼の肉茎が最深部を貫き、その先端が子宮口のすぐ手前をぐりっと抉った瞬間、宇宙が横転するような絶頂が来た。美香は喉を仰け反らせ、声にならない悲鳴を上げた。脳内で無数の星が砕け、膣が彼の肉茎を全力で搾り上げる。高瀬も美香の内腔に追いつめられ、荒い息を漏らしながら、奥へ突き入れた。
「……う、出る……!」
高瀬の熱い吐息が耳へ吹き込まれたかと思うと、美香は自分の奥深くで彼が果てたのを感じた。精液がどくどくと子宮口を叩き、想像を絶する熱さで内側を満たしていく。と同時に、美香は二度目の深い絶頂へと突き落とされた。下半身が痙攣し、立ち上がった背中が大きく反る。目を見開いたまま、暗い天井を仰いで、美香は自分の中の水野美香が、夫の知らない女が、嗤っているような、泣いているような、そんな気配を最後に、意識を手放した。
高瀬の背にすがりついた指が、力尽きてシーツの上へ落ちる。男の荒い呼吸と、交わった場所から溢れる熱い液体の感触だけが、まだ皮膚の上に残っていた。部屋は甘い生臭さに満ちて、網戸の向こうで虫の音がいつまでも鳴いていた。美香の開いた唇から、あ、という小さな呼気が一筋漏れて、静かな寝室に沈んでいった。
第6章 # 夜通し求められた身体が朝に疼く
# 第6章: 夜通し求められた身体が朝に疼く
美香の意識がゆっくりと天井から降りてきたとき、まず最初に感じたのは、自分の内ももを伝う生温かな液体の感触だった。膣の奥から溢れ出たものが、太腿のつけ根を濡らし、シーツへ染みを広げている。閉じたままの瞼の裏で、まだ白い星の粒が弾けていた。指先が掠れた喘ぎかすかに震える。
「……水野さん」
すぐ耳元で、低い声が落ちた。高瀬の声。喉の奥でくぐもった響きが、美香のこめかみを柔らかく包む。目を開けると、薄闇に沈んだ天井の向こうで、彼の肩が呼吸に合わせて上下していた。まだ繋がっている。彼の肉茎が、自分の奥でじん、と脈を打ち、全身がその熱を忘れられずに火照っている。
「ん……わたし、気を失って……」
自分の声とは思えないほど掠れて、語尾が濡れたシーツに吸い込まれていく。戻ってきた意識は、あまりにも生々しい現実を運んできた。夫のいない寝室。汗と精液と愛液の匂いに満ちた空気。あの巨根が、まだ抜かれないまま、隘路を深く塞いでいる。
「動いたら、お前の奥がまた、きゅうって締まった」
高瀬の言葉が、熱い吐息と一緒に耳へ流れ込む。美香は首を横へ逃れながら、しかし腰は彼から離れられず、内壁が意志に反して彼の形を確かめるように蠢いた。恥ずかしさで顔が燃え、涙がまた頬を湿らせる。汗で張りついた黒髪が、首筋に黒い筆の線をいくつも作っていた。
「ちがう、あれは……いきなりあんな、深いの……」
はくはくと浅い呼吸を繰り返す美香の唇へ、高瀬がそっと人差し指を置いた。汗ばんだ指の腹が、下唇のふくらみをゆっくりと撫でる。彼の瞳が、薄暗い中で獣のように光っていた。
「ここを、舐めても」
問いかけなのか命令なのかわからない色を帯びた声。美香が何も言えないでいると、高瀬は自分の指を美香の唇の割れ目に沿って滑らせた。指先に触れた舌が、恐る恐る彼の指へ絡む。しょっぱい汗と、自分のひどい匂い。それすらも今は、深い泉の底へ引きずり込む甘さに変わる。
ぬちゅ、と小さな音を立てて、美香は高瀬の指を唇で吸った。彼の指を、舌で包み、根元まで含む。自分から。してしまった、と思っても、口はもっと深く彼を咥え込もうと動く。
「上手い」
高瀬の声が掠れ、彼の腰が微かに揺れた。体内で硬さを増す熱に、美香の下腹がきゅんと反応する。彼の親指が、美香の顎を支え、指を唇から抜いた。唾液が銀の糸となり、彼の指と美香の唇を繋ぐ。切れた糸が顎へ垂れるのを、高瀬の舌が追いかけた。
「ベッド、びしょびしょだな。お前の汁と、私の精で、とんでもないことになってる」
羞恥で喉が引き攣れた。だが、身体は嘘をつけず、彼が腰を引く動きに合わせて、結合部からぐちゅ、と粘ついた水音が漏れる。半分抜けた肉茎が、内壁のざらつく襞を裏返し、また戻る。その動きだけで、美香の背中が弓なりに反れた。
「あ……ああ……」
声を殺すこともできず、美香は高瀬の背に手を伸ばした。彼の背中は汗でしっとりと濡れ、分厚い筋肉が指の下で滑る。呼吸のたびに背中が波打ち、その動きが彼の性器を通して美香の奥にまで伝わってくる。
「このまま、私の上に乗って。腰、動かしてごらん」
高瀬がそう囁き、美香の腰を抱えて体位を変えようとした。中に挿れたまま。くぐもった声が、二人の口から同時に漏れる。高瀬が仰向けになり、美香を上に乗せた。体重が全部、繋がった場所へ落ちる。さっきまでとは違う、計り知れない深さ。子宮口を直に突き上げられ、視界がまた明滅した。
「そんな、これ、奥、とどきすぎ……っ」
「自分で、いい深さを見つけてみて」
美香は高瀬の胸へ両手をつき、膝で腰を浮かせた。内ももが震え、太腿の筋肉が恐怖と期待で痙攣する。少し腰を沈めると、ぬぷ、と太い肉茎がさらに根元まで吸い込まれた。蜜壺の奥へ、ありえないほど深く。自分の体重で、彼の亀頭が子宮の入り口を押し潰し、甘い悲鳴が天井へ消えた。
「だめ……おく、あたん、だめだって……」
「動こうか」
高瀬が美香の腰を掴み、下からゆっくりと突き上げた。彼の腹筋が、美香の太腿の内側に当たって硬く。肉茎が引き抜かれるたびに、隆々とした形が内ももから浮き上がって見え、挿入されるときは、彼の下腹と自分の陰核が擦れ合う。ぞりぞりと快感が背筋を駆け上がり、呼吸が細かく乱れた。
「んっ、んぅ……なに、これ……さっきより、おく、あた、っ……」
ぐちゅ、ぐちゅ、と水音が部屋に満ちる。美香の汗が、高瀬の胸へ落ちて弾けた。彼の手が、美香の乳房へ伸び、ぶら下がる双丘を下から支えるように揺らす。乳首を指で転がされ、透明な蜜が結合部から泡立って流れ落ちた。擦れる肌が熱すぎて、頭の中が溶け出す。
「たまらない……お前の中、熱くて、絡んで離さない。もっと聞かせて」
高瀬の低い声が、美香の涙を誘った。声を殺すために食いしばった唇から、くちゅ、くちゅ、と自分の中から聞こえる音だけが漏れる。下腹がじわじわと重くなり、太腿の内側に広がる、皮膚が裂けそうなほどの圧迫感。だめだ、また、来る。美香は高瀬の胸へ爪を立て、全身を硬直させた。
「ひ……っ、あ、あああっ……」
身体が跳ね、内壁が彼を搾り上げる。脳が真っ白に染まり、声が裏返って途切れた。絶頂の波が、下腹を何度も打ち、呼吸が止まる。それでも高瀬は突き上げを止めず、美香が背を反らして倒れかかってくると、今度は体を入れ替え、美香を四つん這いにして後ろから腰を押し入れた。
「場所を、変えたい。リビングのソファで、お前を後ろから抱きたい」
美香は頷くこともできず、ただ彼の手に引かれるまま、まだ精液と自分の汁が混ざった太腿で、寝室からリビングへ歩いた。一歩進むたび、中から溢れたものが、内ももを温かく伝い、床へ小さな滴を落とす。そのことが恥ずかしくて、足が縺れた。高瀬に肩を抱かれ、裸のまま、自分たちの生活の場を引きずっていく。
リビングには、飲み残した焼酎のグラスと、網戸から入る夜風が、すべてを見ていた。ソファに両手をつき、腰を高く突き出す姿勢を取らされる。この姿勢は、夫の前でもしたことがない。二回ほどは。後ろから、大型犬みたいに。羞恥が熱を呼び、蜜壺からはまた新しい汁が溢れて、ひくつく入り口を濡らした。
「お前のここ、ひくひくして……私の形に開いたままだ」
高瀬が、美香の尻たぶを左右に割り開き、ぬめる割れ目を見下ろしている。その視線を感じただけで、内壁が空気を搾り出し、くぱ、と音を立てた。恥ずかしい。穴の中まで全部、見られてる。そう思うほど、淫らな汁がぼたぼたと床へ落ちた。
挿入は、もう無理やりではなかった。彼の腰が前に出ると、ぬぶぶぶ……と、肉茎が根元まで一気に奥へ吸い込まれた。後ろから子宮口の裏を押し上げられ、美香は頭をソファへ埋めた。快楽の重みで、言葉にならない、低いうめきが喉の奥から漏れ続ける。
「お前の匂い、さっきよりずっと濃くなってる。ここを舐めたい」
高瀬が美香の背中へ覆いかぶさり、首筋から背中を、腰を打ちつけながら、ゆっくりと舌で舐め上げた。ざらりとした舌が、汗でしっとり光る背骨の窪みを、上から下へ。美香の肩甲骨の間を、犬のように這い回る。その動きと、奥を突く肉茎の硬さ。二つの刺激がせめぎ合い、美香はソファの背もたれを掴んで泣いた。
「あ、あ、あ……そこ、なめちゃ、いや……腰うごい、て、る……」
「お前のは、汗の匂いが甘い。泣いてるのに、腰が自分からこっちへ来てる」
高瀬の指が、美香のうなじを掴み、顔をわずかに持ち上げた。涙と涎でぐしゃぐしゃの顔。逃げ場のない快楽に、顎が震える。彼が腰を前後に動かすたび、美香の肛門がひくつき、膣壁を通して彼の肉茎を締めつける。
「ここも、舐めてやりたいな。お前の、恥ずかしい場所、全部」
「や……そこ、だめ、そこし、ないで……みないでぇ……」
羞恥が限界を超えると、それが快楽の呼び水になった。彼の親指が、ぬめる結合部の上の窄まりを、ゆっくりとなぞる。ひっ、と美香の全身がびくんと跳ね、膣が強く収縮した。お尻の穴まで彼に犯されるかもしれない。その恐怖と期待が、もっと深い場所から蜜を滲ませる。
「本当に嫌か? ここも濡れてきてるぞ。お前の奥から溢れた汁が、垂れてきてる」
指が狭い窄まりを濡らし、くちゅ、と音を立てて表面を滑る。入れられていないのに、肛門がひくひくと指を欲しがるように食い締まった。便秘のときとは違う、もっと深い、もっと浅ましい感覚。美香は首を振りながら、高瀬の指が入り口に爪を立てるのを、拒めなかった。
「入れるぞ、指だけ。痛くないように、ゆっくり」
高瀬の声が、うなじへ落ちる。とろりとした愛液を後ろの窄まりへ塗り込みながら、人差し指の先端が、ゆっくりと埋まっていく。別の穴を開かれる、異物感。排便感と紙一重の圧迫。しかし、膣を深く満たした肉茎と、その熱で痺れた壁の向こうから、双穴を貫かれた快楽が、波のように押し寄せた。
「ひ……うそ、おかしくな……おしり、いや、なのに……あ、あ、あっ……」
「すごく締まってる。お前のいやらしい所、全部私の指を咥えてる」
指が肛門でゆっくりと曲がり、腹側の壁を押し上げた。とたん、肉茎越しにその圧迫が伝わり、子宮口の裏を直に押されたような、二重の衝撃が走った。美香の身体は、尻穴を貫いた指と、膣を満たす肉茎と、そのあいだの薄い壁を挟んで、おかしくなりそうなほど感じてしまう。ずぷ、ずぷ、と二つの穴から、それぞれ別の水音が混ざり合う。
「も、もう……くる、おしり、おく、両方、だめぇ……」
美香が髪を振り乱して泣くと、高瀬は指をより深く埋め込み、腰の速度を上げた。ソファの脚が、床と擦れて、乱暴な音を立てる。ガタン、ガタン、と生活の音が、この背徳のリズムに合わせて揺れた。生々しい肉の音、ぐちゅっ、ぬちゃっ、どちゅっ。聞きたくないのに、自分の淫裂と尻穴から、同じような音が絶え間なく鳴る。
「一緒に、お前の好きなように、乱れろ」
高瀬の言葉に、頭の奥が白く焼き切れた。喉が裏返り、声にならない悲鳴が、リビングの暗い空気に溶けた。臀部が痙攣し、膣が肉茎を深く深く、ねじり締める。肛門もギチギチと彼の指を噛み、そこからも蜜のようなものが滲んだ。美香は全身を硬直させ、そして、息が止まるほどの絶頂のあと、がくん、と腕の力が抜けた。
高瀬は、美香をソファに沈め、荒い呼吸のまま、洗面所の前へ彼女を運んだ。夜明け前の、青い空気が、家じゅうを冷やしていた。洗面台の鏡の前。暗がりでも、美香の汗と精にまみれた裸が映っている。彼は後ろから、立たせたまま美香を抱き、鏡越しに、開いた脚のつけ根から再び肉茎を押し込んだ。メリメリと、入り口が悲鳴を上げる。戻された快楽に、美香の口から切ない、笑い声のようなものが漏れた。
「見えるだろ。お前が、どうやって私を咥えてるか。綺麗だ」
高瀬の囁きが、耳を犯す。鏡の中の女。涎と涙で頬を光らせ、唇を半開きにした女。男の巨根を咥え込み、悲しそうに、いや、悦んで腰をくねらせている。それが自分。妻の、母の顔が剥がれ落ちた、水野美香。
「見ないで……あたしの、そんな顔、見ないでぇ……」
「見ろ。お前の中の水野さんを、私が見ている」
洗面台の前で、また奥を突かれる。血管の浮き出た肉茎が、粘膜を擦り、絶頂の残り火に、新たな快感が重なる。立ったままでは力が入らず、美香は鏡に手をつき、男の腰の動きに翻弄された。結合部から泡だった汁が、太腿を伝い、床へ小さな池を作る。ずちゅっ、ぬちゃっ、と下品な水音が、タイルの壁に反響した。
夜が白み始めた頃、高瀬は、美香を再び寝室のベッドへ戻し、上から覆いかぶさった。もう何度目かもわからない。身体中が痛くて、腫れて、少し動くだけでも、愛液と汗と精液がぐちゅぐちゅと音を立てる。それなのに、彼が腰を沈めると、奥はまた、待っていたとばかりに彼を搾り上げた。
「朝が、来る前に、お前の中へ出したい」
高瀬が、美香の耳元で、祈るように言った。美香は、涙をこぼしたまま、脚を彼の腰へ回し、開いた唇で喘いだ。
「出して……朝のこと、考えられなくして……」
自分の口から出た、自分でもぞっとするほど官能的な言葉。高瀬が、美香の両腕をベッドへ縫いとめ、深く、もっと深く、腰を打ちつけた。彼の抽送が一段と速く、乱暴になり、肉と肉がぶつかる音、睾丸が尻たぶを叩く音が、いやというほど部屋へ響く。どちゅっ、どちゅっ、ぱちゅん。美香は声を殺せず、ああ、ああ、と短く、何度も、獣のように啼いた。
「……いく、お前の奥で、最後の、いくぞ」
高瀬が美香を強く抱きしめ、肉茎を最深部へ突き入れた。子宮口がこじ開けられる。その拍子に、美香の胎の奥で、どく、と彼の精液が迸った。熱い奔流が、何度も何度も、狭い隘路を打つ。内壁がその熱に驚いて、また強く収縮する。絶頂の波が、全身を貫き、目の前を真っ白にした。
「あ……あああっ……」
美香は高瀬の背中へ爪を立て、足の指を丸めて、自分の奥に流し込まれる精液が、子宮口を叩くたび、深い悦びに震えた。彼の心臓の音が、胸を通して伝わってくる。汗で滑る二つの身体が、朝の気配を前に、互いを抱きしめ合ったまま、いつまでも、小さく揺れていた。
しばらくして、高瀬が美香から体を離した。中からまた、生温かい液体が、どろりと溢れて、シーツを汚した。美香は目を開け、薄明りの中、彼の横顔を見た。高瀬の胸には、汗が玉になり、美香の爪の跡が、赤い線をいくつも作っていた。
「……水を、もらっても」
美香が掠れた声で言うと、高瀬は頷いたが、動かなかった。代わりに、美香を抱きしめ、彼の腕の中へ閉じ込める。
「大丈夫か」
「……わかんない。身体が、ばらばらになるかと思った」
美香がそう言うと、高瀬は低く笑った。彼の笑顔が、朝の青い光に浮かぶ。彼の腕が、まだ腰を離さない。このままずっと、夫のいない家で、こうしていたい。そんな自分が怖くて、美香は指先を動かした。
「……時計、見て」
美香の言葉に、高瀬が身体を起こす。彼の裸の背中に、朝の光が薄く降り注ぐ。自分の身体の上に残った彼の重みが、まだ欲しいと叫んでいた。心臓が、痛いほど鳴っている。
「五時だ」
高瀬が振り向き、静かに告げた。五時。俊哉を迎えに行く時間。六時には、学校へ。現実が、ひび割れから流れ込んでくる。
「……シャワー、浴びないと」
美香は震えながら起き上がろうとした。しかし、太腿をつたう、まだ生暖かい液体。下着を探す指先が、空を切り、震える。着替えを探す、裸の35歳の女。胸の奥で、昨夜の罪悪感と、まだ熱い快楽の記憶が、ぐるぐると渦を巻いている。この人生は、もう、どこからやり直せばいいのか。
高瀬が、黙って美香の下着を拾い上げ、手渡す。白いレースの、汚れた下着。自分の汁と彼の精で、ぐっしょりと重い。触れるだけでも、あの時間が蘇って、下腹が、ぞく、と疼く。服を整えるたび、肌の擦れる音が、昨夜のあれこれを、まざまざと思い出させた。
「……高瀬コーチ、私、これから迎えに行かなきゃ」
美香は背を向けたまま言った。服は、昨日の白Tシャツと紺のハーフパンツ。汗と酒と、彼の匂いが、こびりついている。下着は、洗面所にあった替えのものに。指先が、ブラのホックを留めるのに、何度も失敗した。首筋に、彼の唇が残した痕が、服の襟で隠れるか、触って確かめる。
「……私も、戻る。子どもたちが起きる前に」
高瀬が、ゆっくりと立ち上がり、服を着る音がした。背中を向けたまま、その音を聞く。自分に後ろから抱きつかれたら、また、何もかも投げ出してしまいそうで、怖かった。
「鍵は、このまま置いて行って。私が閉めるから」
美香が振り返らずに言うと、高瀬が近づいてきて、後ろから、彼女の肩を、そっと抱いた。火傷しそうな熱。耳の裏へ、唇が触れる。
「水野さん」
呼ばれた瞬間、身体の軸が、ぐらりと揺れた。
「……水野さんは、今、お前の中にいるよ」
その言葉を背中に受けて、美香は唇を噛んだ。腕を振り払った。振り払えなかった。ただ、涙を零さないように、前だけを向いて、リビングのドアを開けた。
玄関で、靴を履く。サンダルに、昨夜の砂。フローリングに、自分の吐息だけが響く。高瀬の足音が、後ろから続く。
「行ってくる」
美香は、振り返らず、そう言った。
「……送りはしない」
高瀬の声が、玄関の暗がりに沈む。彼もまた、夜の残り香に、足を取られているのがわかった。
美香は鍵を開け、外へ出た。途端、朝の空気が、裸の首筋を冷たく撫でた。朝。いつもの住宅地。門の外で、朝刊を抱えた配達員が、一瞬、美香を不審そうに見た。下着を穿いていない軽さが、歩くたび、太腿の内側を擦れる。
中から、誰かの視線を感じる。彼が、まだ玄関に立って、こちらを見ている。後ろを振り向けない。振り向いたら、もう、戻れない。美香は、前だけを見て、震える太腿で、冷たいアスファルトを踏みしめた。
足の間から、まだ彼の精が、下着を汚し、太腿を伝う。内ももは、誰にも知られず、濡れたまま。夫のいない家に、男を一人、置いたまま。美香は、白々と明けていく住宅地を歩きながら、自分の胸の中に、二つの心臓があるのを感じていた。ひとつは、夫と息子への愛。もうひとつは、昨夜の快楽を、まだずっと欲している女の、浅ましい心臓。
朝焼けが、駅の方の空を、薄い葡萄色に染めていた。
第7章 朝帰りの下着に残る秘密
第7章: 朝帰りの下着に残る秘密
朝の空気が、昨夜の汗と精液と焼酎の匂いを乗せた肌を容赦なくさらしていく。住宅地の舗道は湿っていて、昨夜のうちに降りた露がアスファルトの黒をやわらかく光らせていた。美香は足を踏み出すたびに、下着の布が太腿のつけ根へ食い込み、くちゅ、と極小さな粘液の音を自分の内側にだけ響かせるのを感じていた。替えの下着を身につけたはずなのに、歩くたびに奥から滲み出るものが新しい布をまた湿らせている。サンダルの鼻先が、昨夜の砂をまだ残したまま、朝の静けさを踏みしめた。
自動販売機の白い光が、遠くの角からにじみ出ていた。誰もいない道に、その冷たい照明だけがぽつんと立っていて、青白い光が濡れた路面を銀色に染めている。美香はその光を見つめながら、自分が今、夫のいない家から逃げるように歩いているのだと思った。いや、逃げているわけではない。逃げられない場所へ向かっている。俊哉の待つ学校グラウンドへ。母の顔をしなければならない場所へ。その二つの距離が、朝の光の中で細長く伸びていた。
首筋に触れる空気の温度と、服の襟が擦れるたびに走る疼き。ブラの下で硬く立ち上がった乳首は、昨夜の高瀬の指と舌の記憶をまだまとっていて、Tシャツの柔らかい布が触れるだけで、下腹の奥を小さく痙攣させた。髪をまとめなかったせいで、汗ばんだ毛先が頬に張りつき、歩くたびに彼の低い声が耳の産毛を撫でた夜の感触を思い出させる。
「水野さん」
誰もいない住宅地の朝に、その声が不意によみがえって、美香は唇を噛んだ。旧姓で呼ばれるたびに、身体のいちばん深いところが、ひくりと震える。今はもう、昨夜のような激しさではない。けれど、呼ばれる前より確実に、自分の中の何かが目を覚ましてしまっている。母でも妻でもない時間を、たった一夜で身体に刻まれた女が、今も奥で息をしている。
公営プールの横を過ぎると、消毒液の匂いが薄く風に流れてきた。あのシャワー室の光景が、また瞼の裏に浮かぶ。もう、あのときから始まっていたのだ。あの日、湯気の中で目撃した質量が、自分の日常を少しずつ溶かしていた。美香はうつむきながら、濡れたアスファルトに映る自分の影を見た。歩くたびに影が揺れて、腰のあたりが重く、太腿の内側が擦れ合う。
学校の正門が見えてくる。グラウンドの向こうに、テントの白い屋根が朝の光を跳ね返していた。子どもたちの声が、もう聞こえている。その無邪気な笑い声が、美香の胸の奥に小さな棘を刺した。自分は今、この声のひとつ、俊哉の声を迎えに行く。昨夜の自分を知らない息子の、あの明るい声を。
グラウンドに入ると、保護者やコーチが朝の片付けを始めていた。美香は周囲をさりげなく見回したが、高瀬の姿はなかった。当然だ。彼はとっくに子どもたちのテントへ戻っているはずだ。それなのに、自分の視線が彼の姿を探していることに気づき、美香は慌てて視線を地面へ落とした。朝の芝生は露に濡れて、靴の縁から水が染みる。
「ママ!」
俊哉の声が、遠くから弾むように飛んできた。振り向くと、紺のチームTシャツを着た息子が、ボストンバッグを引きずりながら駆けてくる。寝癖のついた黒い髪が朝の光で茶色く透けて、泥と草の匂いを身体いっぱいにつけていた。顔には笑みが張りついていて、その表情が、昨夜の自分との距離を一瞬で広げる。
「おはよう、俊哉」
美香は声を作った。明るく、柔らかく、いつもの母の声。けれど、喉の奥に張りついた熱が言葉を少しだけ震わせた。俊哉はそんな母の変化には気づかず、寝袋を引きずった友達のほうを振り返って叫んでいる。
「ママ、昨日の夜さ、星がすごかったんだよ。テントの隙間からずっと見てた」
俊哉が前を向き、美香の顔を見上げた。
「それでね、朝起きたら、靴が露でびしょびしょになってて、みんなで乾かしたんだ」
「あら、大変だったのね。ちゃんと朝ごはん、食べた?」
「食べたよ。コーチが配ってくれたおにぎりと、紙パックのお茶。あと、眠いからって、みんなで二度寝しそうになった」
俊哉は嬉しそうに話しながら、美香の横に並んで歩き出す。小さな手が、無意識に美香のハーフパンツの裾を掴んだ。その温かい指先が、昨夜の高瀬の指とは全く違うものであることが、逆に身体の奥底に残る熱を鋭く自覚させた。
「ママ、今日は目が赤いよ。あと、なんか、いつもと匂いが違う」
俊哉が首をかしげて、美香の腕に鼻を近づけた。美香は咄嗟に身を引き、笑いながら息子の頭を軽く押し戻した。
「昨日の夜、なかなか眠れなくて。それに、合宿の手伝いで汗かいちゃったから、ママ、ちょっと臭いかもね」
「べつに臭くないよ。でも、父さんがいないと、ママも夜更かしするんだね」
その無邪気な言葉が、美香の胸をえぐった。夫がいない夜。その夜に自分がしていたことを、この子は知らない。知らなくていい。いや、知られてはいけない。美香は俊哉の手を取り、指を絡ませた。小さな指が、昨晩の男の熱を消すように、美香の手をしっかりと握り返してくる。
家までの道のりを、俊哉は合宿の出来事を途切れなく話し続けた。テントの中で誰が寝言を言ったか、朝のミーティングでコーチに何を言われたか、友達と交わした約束。その声を聞きながら、美香は相槌を打ち、時折笑い、母としての自分の輪郭をなぞっていた。だが、足の間では、まだ乾ききらない下着が肌に貼りつき、歩くたびに昨夜のぬめりを思い出させる。身体に残る倦怠と、子宮の奥に残る形の記憶。それらが、俊哉の明るい声の下で、静かに熱を持ち続けていた。
家の門をくぐると、朝の光が庭の草木に注いでいた。美香は鍵を取り出し、玄関を開けた。途端、家の中の空気が流れ出してくる。昨夜の酒の匂いの残り香。高瀬の汗と肌の匂い。それらが混ざり合った重い空気が、玄関からふわりと美香の顔を撫でた。俊哉が先に入り、リビングへ駆けていく。
「あれ、ソファの位置がずれてる。ママ、昨日大掃除でもしたの?」
俊哉の言葉に、美香の心臓が跳ねた。リビングのソファは、昨夜の行為でわずかに位置がずれたままだった。テーブルの上には、飲み残した焼酎のグラスが二つ、まだ置かれている。美香は急いでそれを手に取り、流しへ運びながら、できるだけ自然な声で言った。
「ちょっとね。夜に暑くて、扇風機を動かしたときに、いすをずらしたの。俊哉、まずシャワー浴びてきなさい。泥だらけでしょう」
「うん。あとで、ママも汗くさいよ」
俊哉が無邪気に笑い、階段を上っていく。その足音が遠ざかると、美香は台所のシンクに手をついて、深く息を吐いた。蛇口から水を出し、グラスを洗う。水の冷たさが指先から腕へ走り、昨夜の熱をゆっくりと冷やしていく。だが、洗面所の鏡に映った自分の顔を見たとき、首筋に残る痕が、襟の上からわずかに覗いているのが見えた。左手で襟を押さえ、布で隠す。鏡に映る女の目が、どこか濡れているように見えた。
しばらくして、俊哉が二階のシャワーを浴び終え、リビングへ戻ってきた。着替えたばかりのTシャツとハーフパンツ。濡れた髪をタオルで拭きながら、テレビの前へ腰を下ろす。美香も隣の台所で、朝食の片付けをしながら、指先の震えを水仕事に紛らわせていた。
スマートフォンが、テーブルの上で短く震えた。手に取ると、画面に夫の名前が浮かんでいる。
「おはよう。そっちはどう? 俊哉、ちゃんと起きてた?」
短いメッセージだった。出張先のホテルから、朝の早い時間に送られてきたらしい。美香は指を画面に置いたまま、数秒、動けなかった。正敏の言葉は、昨夜の自分を何ひとつ知らない。知らないまま、いつも通りに妻へ言葉を向けてくる。そのあまりに何も変わらない優しさが、胸の奥を刃物で引き裂くように痛めつけた。
「俊哉、元気に迎えに行ってきたよ。今、シャワーから出たところ。そっちは?」
美香はそう返した。文字を打つ指が、自分でも不思議なくらい静かに動く。画面の向こうに、夫の安堵した顔が見えるような気がした。この指が、昨夜は他の男の背中を掻き、他の男の精液を拭った。その同じ指で、今、夫へ何気ない返事を送っている。あまりの矛盾に、美香は眩暈にも似た感覚を覚えた。
「昼には仕事が終わりそうだから、夕方には家に戻れると思う。俊哉に、合宿の話を聞かせてもらおう」
正敏からの返信が届く。美香は「気をつけて帰ってきてね」と打ち込み、送信した。自分の心が二つに割れていることが、指先の冷たさになって現れていた。夜の女と、朝の妻。その両方が、同じ身体の中にいる。
俊哉がテレビを見ながら笑っている。リビングの空気は、窓から入る朝の風で少しずつ入れ替わっていたが、ソファの周りには、まだ昨夜の残り香が薄く沈んでいた。美香は寝室へ向かい、乱れたシーツを剥がした。汗と精液と愛液の染みが、乾いて地図のような模様を作っている。それを丸めて洗濯機へ押し込む。ベッドの上に、昨夜の自分の爪が破った跡や、枕の位置がずれたままになっている。すべてを元通りにしようとすればするほど、何かがずれたまま残っていく気がした。
洗面所に立ち、顔を洗う。冷水が皮膚を刺し、昨夜の火照りを一時的に鎮めた。鏡の前に立つ。前髪を整え、口元を軽く上げる。母の顔。俊哉が「ママ」と呼ぶときの、あの顔。美香は何度か瞬きをして、表情を作り直した。目の下のくまは、昨夜の睡眠不足のせいだと言い訳が立つ。首筋の痕は、服の襟を正せば隠れた。けれど、鏡に映る自分の目は、どこか奥に光を宿していて、それが何よりも昨夜のことを雄弁に物語っていた。
リビングへ戻ると、俊哉が床に座り込んで、サッカーボールを転がしていた。
「ママ、まだ疲れてるなら、今日はゆっくりすればいいよ。僕、宿題してからまた練習するから」
俊哉が、ボールを抱えて美香を見上げた。その気遣いに、美香の胸がいっそう締めつけられる。息子は母の変化を、感じていないようでいて、確かに感じ取っている。その無垢な優しさが、昨夜の自分をいっそう汚れたものに思わせた。
「ありがとう、俊哉。ママ、あとで少し休むね。でも、お腹は空いてない?」
「朝ごはん食べたから大丈夫。あ、でも、アイスあったら食べたい」
「朝からアイスは駄目でしょ。せめて、お昼にしなさい」
そう言って笑いながら、美香は台所へ立った。冷蔵庫を開けると、昨日の夕方まで見慣れていた食品たちが、どこか別の世界のもののように見えた。家族の暮らし、正敏と俊哉と過ごす穏やかな時間。それが、昨夜のたった一夜で、こんなにも遠くなってしまうのか。美香は冷蔵庫の扉を閉め、息を整えた。戻れる、まだ戻れるのだと、自分に言い聞かせるように。
玄関の鍵が、内側からかかっていることを確かめて、美香は廊下の壁に背を預けた。家の中は静かで、俊哉が床に座って雑誌をめくる紙の音だけが聞こえる。朝の光が、窓から床へ傾いて、昨夜の酔いと汗と涙が染みた空気を、ゆっくりと押し出していく。だが、身体の奥は、まだ彼の形を覚えていた。下着に指を這わせると、布はしっとりと湿っていて、自分の指先が触れただけで、昨夜のあれこれが肺の裏にまで蘇る。
旧姓で呼ばれた夜が、日常を決定的に変えていた。変えてしまった。そのことに、まだ名前をつけられない。後悔なのか、高揚なのか、恐怖なのか。いや、その全部が、朝の光の中で溶け合って、ひとつの熱い塊になっている。
美香は目を閉じて、息を整えた。それから、ゆっくりと玄関へ向かった。俊哉がリビングから顔を出して言う。
「ママ、庭に水まきしようか?」
「いいよ。ママがやるから。俊哉は宿題を始めなさい」
美香はそう言って、玄関のドアを開けた。朝の光が、いっせいに裸の腕を照らして、昨夜の熱をじりじりと炙る。庭の草木が、露に濡れて朝の匂いを放っていた。水まき用のホースを手に取り、蛇口をひねる。水が勢いよく飛び出し、葉の上で砕けて、細かい飛沫が美香の足元を濡らした。
その冷たい飛沫が、太腿に残る昨夜の熱を少しだけ和らげる。けれど、下着に残る湿り気と、子宮の奥に残る疼きは、水では洗えない。美香はホースを握ったまま、東の空に見える白い雲を見つめた。朝の光が、住宅地の屋根を金色に染めていく。
秘密は始まったばかりだった。いや、始まってしまっていた。ここから先へは、戻れない。その予感だけが、朝の光の中で輪郭を濃くしている。庭に落ちる水音が、静かに、けれど確かに、日常の表面を濡らしていた。美香は、ホースの先から落ちる水の筋を、しばらくぼんやりと見つめていた。朝の住宅地が、昨日までと違って見える。見えてしまう。そのことに、目を背けることはもうできなかった。
俊哉の声が、家の中から遠く聞こえる。
「ママ、辞書どこ?」
その声に、美香は我に返って水を止めた。蛇口を閉め、ホースを巻き取る。いつもの朝の動作。それをなぞりながら、自分が母として、妻として、この家に立っていることを確かめる。それでも、下着の中の女は、静かに濡れたまま息を潜めていた。朝の光を浴びた横顔に、昨日までとは違う女の影が、うっすらと差している。
美香は玄関へ戻り、ドアを閉めた。閉まった音が、家の中に小さく響いて消える。リビングへ向かうと、俊哉が辞書を手に、床へ座り込んでいた。
「あった?」
「うん。ママ、ありがとう」
俊哉の笑顔が、朝の光の中で輝いている。美香はその隣にしゃがみ、息子の頭をそっと撫でた。小さな頭の熱が、手のひらに伝わって、昨夜の熱を押しのけていく。だが、完全には消えない。消えないまま、自分はこの子の母でいようとする。その矛盾を抱えながら、それでも美香は息子に笑いかけた。朝の光が、カーテンを通って、リビングいっぱいに広がっていた。
登場人物
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斎藤美香 さいとう みか女性 ・ 35
外見: 長い黒髪を後ろでまとめることが多く、茶色の瞳、引き締まったスレンダー体型、身長165cm、脚が長く姿勢がよい。服装: 合宿では白い半袖Tシャツと紺のハーフパンツ、サンダル。普段はクリニックの淡いピンクの事務服や、家では柔らかいカットソーにエプロン。明朗で世話好き、笑い上戸。頼られることに弱く、奥さんや俊哉くんのお母さんとして扱われると小さな寂しさを感じる。自分の中に潜む女の本性はエロいと自覚している。
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高瀬亮介 たかせ りょうすけ男性 ・ 39
外見: 短い黒髪、日に焼けた肌、切れ長の茶色い目、高身長で筋肉質なアスリート体型、身長184cm、肩幅が広く胸板が厚い。服装: 合宿では黒いトレーナーとグレーのスウェットパンツ、スニーカー。普段はスーツ姿やスポーツメーカーのポロシャツ。無口で落ち着いているが、競技の話になると真剣。子供には厳しいが見下したり怒鳴ったりしない。むっつりスケベで匂いフェチ。お酒が入ると普段より会話が増える。
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斎藤正敏 さいとう まさとし男性 ・ 35
外見: 短い髪、黒い瞳、均整のとれた痩せ型の体型、身長178cm。服装: IT企業のジャケットスタイルや、休日はポロシャツとチノパン。真面目で家事もこなす優しい夫。妻をアスリートと呼ぶ冗談を言い、妻を心から信頼している。ペニスは高瀬に比べると普通サイズ。
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斎藤俊哉 さいとう としや男性 ・ 10
外見: 短い黒髪、大きな黒い瞳、小柄で活発な少年。服装: サッカーのユニフォームやチームTシャツ、ハーフパンツ、スパイク。明るく負けず嫌いで、母親に似て表情豊か。
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小野寺理恵 おのでら りえ女性 ・ 37
外見: 肩につく茶色っぽい髪をふんわりと巻き、明るい茶色の目、ふっくらと柔らかそうな体型。服装: ブランドものでまとめたカジュアルな服、大きめのサングラス、ヒールサンダル。情報通で社交的。男女関係の観察に鋭く、言いたいことははっきり言うが面倒見はよい。





