第2章: ランチタイムの誘いと、理性の細い糸

第2章: ランチタイムの誘いと、理性の細い糸
壁に掛けられたアナログ時計の長針が、数字の十二を静かに指し示した瞬間、オフィスの空気はまるで目に見えない膜でも張られたかのように、一変してしまった。
午前中の忙しさを彩るキーボードの打鍵音や電話の呼び出し音が嘘のように絶え、代わりに、シートが軋む音や、布地が擦れるかすかな音、そして、人々の呼吸が濃くなっていくような、生温かい沈黙が支配的になった。
恭平は自分のデスクに座ったまま、固まっていた。
何が起きているのか理解できず、ただ周囲で起こる変化を、まるで異星人の儀式を眺めるように呆然と見つめるしかなかった。
隣の席の女子社員が、さっきまで資料に目を通していた同僚の肩にそっと手を置く。
その仕草は驚くほど自然で、まるで「お腹すいた?」と声をかけるかのように無防備だった。
男性はそれを拒絶することなく、むしろ当たり前のように受け入れ、女性の腰に腕を回して椅子ごと自分の方に引き寄せた。
二人の間に何の言葉も交わされない。
ただ、お互いの体温を確かめるように、顔を近づけていく。
恭平はその光景から目をそらそうとしたが、視線は釘付けになっていた。
羞恥心と嫌悪感で胃が捻れるような感覚に襲われながらも、その一方で、自分の体が内側から熱を帯びていくのを感じていた。
--これは、ただの空腹感ではない。
もっと深く、粘っこく、抗いがたい渇望だった。
「おい、津田。いつまでそこで突っ立ってんだよ?」
その声に、恭平はギクッと肩を跳ねさせた。
振り向くと、先輩の早川悟(はやかわ さとる)が、少し呆れたように、しかしどこか親しみを込めた笑みを浮かべて立っていた。
彼の開いた襟のシャツからは、汗で少し湿った男の匂いが漂ってくる。
その匂い自体が、この世界の空気の一部なのだと恭平は悟った。
「え、あの、仕事がまだ……」
「仕事は午後からでいいよ。そろそろお腹空かない?」
早川はそう言うと、恭平のデスクの上に置かれた、未開封のコンビニ弁当を顎でしゃくった。
その視線の先には、明らかに「それ」ではない何かが示されている。
恭平は早川の視線の先、つまりオフィスの至る所で繰り広げられている、人々が互いの体を求める光景を追った。
なるほど、と恭平の頭で理解が進む。
この世界での「お腹が空いた」とは、そういうことなのだ。
食欲は羞恥であり、性欲は空腹なのだ。
だから、昼休みとは、誰かと体を重ねて互いの「空腹」を満たす時間なのだ。
「そっちじゃなくてさ、こっちだよ」
早川はニヤリと笑い、自分の股間を軽く叩いた。
その無遠慮な仕草に、恭平の顔がカッと熱くなる。
怒りではなく、純粋な戸惑いと、自分がこの世界のルールを全く理解していないことへの恥ずかしさだった。
「俺はもう済ませたんだが、まだの人は結構いるみたいだぜ。いい相手、いるんじゃねぇか?」
早川の視線が、恭平の背後へと流れた。
その瞬間、甘く、どこか乳臭いような、それでいて獣的な体温を感じさせる匂いが、恭平の鼻腔をくすぐった。
その匂いの主は、間違いなく彼だ。
恭平の心臓が、不意に高鳴りを上げた。
体が、その匂いの主を認識し、反応している。
振り返るまでもなかった。
その存在感は、すでに恭平の背後に迫っていた。
「津田さん」
その声は、恭平の耳に溶け込むように響いた。
藤川御代。
恭平がこの世界で来る前から、密かに想いを寄せていた後輩だ。
彼女は、いつも通りに少し脱力感のあるポニーテールを揺らし、濡れたように黒く潤んだ大きな瞳で恭平を見つめている。
タイトなニットは、彼女の豊満な胸のラインを隠すことなく強調し、ミニスカートから伸びる脚は、ハイヒールによってさらに美しく見せている。
彼女の体から放つ熱と匂いが、恭平の周りの空気を彼女だけのものに変えていた。
「藤、藤川さん……」
「津田さん、何も召し上がってないみたいですけど……。よろしければ、私と一緒に、いかがですか?」
御代は無垢な、天使のような笑みを浮かべてそう言った。
その言葉は、一見するとただの昼食の誘いだ。
しかし、この世界の文脈において、その意味するところはあまりにも過激で、あまりにも背徳的だった。
--絶対にダメだ!
御代はそんな子じゃない!
純粋な、大切な子だ!
恭平の頭の中で、元の世界の価値観が悲鳴を上げている。
しかし、その叫びは、股間でじわじわと疼き始める熱気によって、どんどんかき消されていく。
恭平は答えられなかった。
ただ、御代の黒い瞳を見つめ返すことしかできない。
その瞳の奥には、恭平の戸惑いを面白がるような、いたずらっぽい光と、同時に、純粋な「空腹」の色が混ざっていた。
彼女はただ、空腹を満たしたいだけなのだ。
誰とでもいい。
たまたま、目の前に恭平がいるから、彼に声をかけた。
その事実が、恭平の胸を締め付けるような痛みと、同時に、底知れぬ興奮に変換されていく。
「どうしたんですか、津田さん?顔が赤いですよ」
御代はさらに一歩、距離を縮めた。
恭平のデスクの角に、彼女の腰がそっと触れる。
そのわずかな接触だけで、恭平は全身に電流が走ったような衝撃を覚える。
彼女の体から伝わる温もり。
シャツの生地越しに感じる、彼女の柔らかな肉感。
そして、その匂い。
もっと濃くなった、甘くて湿った匂いが、恭平の理性の細い糸を一本一本、断ち切っていくように迫っていた。
「ねぇ、津田さん……。今日のお昼、一緒に……しませんか?」
御代はもう一度、同じように尋ねた。
しかし、その声はさっきより少し低く、甘さを増していた。
彼女は恭平の頬に手を伸ばしかける。
その指先が、恭平の唇を撫でるかと思われた瞬間、恭平は息を呑んだ。
--逃げなければ。
でも、逃げられない。
逃げたいという頭と、このまま捕まってしまいたいという体が、完全に分裂してしまっていた。
オフィスの喧騒は遠のき、世界には御代の存在だけが、恐ろしいほどの密度で存在感を放っていた。
恭平の理性は、今にも切れそうな蜘蛛の糸のように、震えていた。
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