第1章: 歪んだ朝食と、通勤電車の喘ぎ

第1章: 歪んだ朝食と、通勤電車の喘ぎ
目が覚めたとき、世界は昨日までと何も変わっていなかったはずなのに。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、まるで刃物のように刺すような白さを帯び、目覚まし時計の甲高い電子音は、脳髄を直接抉るような不快な響きを持っていた。
津田恭平(つだ きょうへい)はベッドから上半身を起こし、ざらつくシーツの感触に怯えながら、茫然と自室の見慣れたはずの風景を見回した。
本棚に並んだ本の背表紙、デスクの上に散らかる書類の山、クローゼットの取っ手。
すべてが記憶通りの配置で、彼を安心させるどころか、かえって底知れぬ違和感の原因を探させるかのように、そこに静かに佇んでいた。
喉の奥に焼けるような渇きと、それに伴う空虚な空腹感があった。
いつもなら自然だったキッチンへ向かう足取りが、今日は一歩踏み出すたびに心臓が不意に掻きむしられるような、奇妙な抵抗感に満ちていた。
キッチンに立つと、トースターから焼き上がったパンの匂いが鼻腔を突いた。
焦げ付いた小麦と脂の甘ったるいその匂いは、食欲をそそる穏やかな刺激ではなく、どこか下品で、粘膜を濡らすような官能的な香りに感じられた。
恭平は震える手でパンを取り出し、ナイフでバターをすくう。
白く濁った脂が、熱々のパンの上面にじゅわっと染み込んでいく様子が、あまりにも生々しく、まるで他人の目に触れるべきではない秘密の儀式のように思えた。
――何だ、これは……。
彼は誰にも見られていないのに、思わず背中を丸めてパンを口へ運んだ。
その瞬間、サクッ、バリバリという音が静かなキッチンに不釣り合いなほど大きく響き、耳の奥まで突き刺さった。
噛みしめるたびに口の中に広がる小麦の甘みとバターの塩気が、まるで禁断の果実のように罪悪感を伴い、全身の毛穴が逆立つような羞恥に襲われる。
なぜ? なぜ食事という、こんなにも当たり前の行為が、まるで公衆の面前で脱衣するような、耐え難い暴露癖に満ちた行為のように感じられるのだろう。
彼は早口でパンを喉へ押し込み、次いでコーヒーを流し込んだ。
舌の上を焼き付くような苦い液体もまた、喉を灼く熱と共に、彼の内なる何かを穢していくような感覚を残した。
家を飛び出すように恭平は玄関を潜った。
外の空気は、昨日までのものとは明らかに違っていた。粘つくような湿気と、人々の肌から放たれる匂いが混じり合い、淫靡な香りを漂わせている。
人々の表情、歩き方、視線の質。
そのすべてがどこか色めき立っていて、生々しい欲望の粒子が空気中を浮遊しているようだった。
特に、最寄り駅へ向かう道のりで感じる視線は、単なる好奇心ではなく、もっと動物的で、剥き出しの欲求を含んだ眼差しだった。
恭平は無意識に襟を立て、早足で駅へ向かった。
ホームはいつも通りの人でごった返していたが、その騒ぎの中に奇妙なリズムがあった。
人々の息遣いが、いつもより少しだけ早く、濃厚なのだ。
電車がホームに滑り込むと、乗客は我先にと押し合い、車内へとなだれ込んだ。
恭平もその波に呑まれ、車内の奥へと押しやられる。
ドアが閉まり、車内は密閉された箱となった。
その瞬間、恭平は息をのんだ。
車内に満ちるのは、単なる人混みの熱気や汗の匂いだけではなかった。
それはもっと濃密で、甘ったるく、汗、皮脂、香水、そして性欲が混じり合った、粘膜と粘膜が擦れ合うような生々しい匂いだった。
隣に立つサラリーマンの肩が、恭平の胸に不自然に密着し、その体温がシャツの上からじんわりと伝わってくる。
向かいの女性は、目をつぶり、唇をわずかに開いて、浅い息をついている。その息は白く、車内の空気に溶けていく。
恭平の視線が、少し離れたところにいるカップルに吸い寄せられた。
男性は女性の背後から彼女の腰を抱きしめ、その耳元に何事か囁いている。
女性はうなだれ、羞恥に染まった顔を赤くしているが、その手は男性の手を強く握りしめていた。
そして、恭平は見てしまった。
男性の片手が、女性のスカートの裾へと、ためらいなく滑り込んでいくのを。
女性の肩がびくりと痙攣するような震えを見せ、押し殺したような「くんっ」という喘ぎ声が漏れた。
その声は、電車の走行音に紛れ、他の乗客には何の関心も引いていなかったようだった。
誰もが、自分自身の欲望と、あるいは他人の欲望と、静かに、しかし濃厚に戯れているのだ。
恭平は全身を硬直させ、ただ立っていることさえ困難だった。
背中から冷や汗が流れ、股間がじりじりと熱を帯びていくのを感じた。
――嫌悪か、それとも……抗いがたい興奮か、彼自身にも分からなかった。
ようやく目的地の駅に到着し、恭平は電車から吐き出されるようにして降りた。
オフィス街の朝の光は、さっきまでの密室の暗さとは打って変わって眩しかったが、彼の頭の中はまだ電車内の湿った空気と喘ぎ声で満たされていた。
会社のビルに入り、エレベーターで自分の階へ向かう間も、同じような緊張が続いた。
エレベーターの中では、隣に乗り合わせた同僚の女性が、恭平の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。
その仕草は、まるで当たり前の挨拶のように自然で、恭平はただ固まることしかできなかった。
彼女は何事もなかったように微笑み、柔らかな声でこう言った。
「おはようございます、津田さん」
恭平も機械的にそれを返した。
自分のデスクに着くと、恭平は深く息を吐いた。
ここなら、少しは正常な感覚を取り戻せるかもしれない。
そう思ってPCのモニターを起動した。
しかし、その視線の先に、彼の心臓を鷲掴みにする光景があった。
藤川御代(ふじかわ みよ)。彼が密かに想いを寄せていた、後輩の彼女だった。
彼女は少し脱力感のあるポニーテールを汗で濡らした首筋で揺らし、同僚の誰かと楽しげに話していた。
その姿は、昨日まで見ていたものと同じだった。
しかし、恭平の目には、全く違うものとして映っていた。
タイトなニットが強調する豊満な胸の膨らみは、乳首の形まで浮かび上がらせており、ミニスカートから覗く細い脚のラインは、男を誘うように磨き上げられていた。
そのすべてが、もはや無垢な魅力ではなく、この世界のルールに則った、露骨な欲望の表明にしか見えなかった。
彼女が笑うたびに、その濡れたような黒い瞳が、恭平の内側の最も奥深い、隠していた渇きを直視しているような気がした。
恭平の頭の中にあった、彼女への純粋で健やかな想い。
それは、目の前の世界の残酷な現実に直面し、音を立てて砕け散っていく。
頭蓋の内側で何かが軋む音がした。
理性が歪み、音を立てて崩壊し始める。
恭平は、ただ彼女を見つめることしかできず、その視線は、もう戻れない地点へと、彼自身を引きずり込んでいた。

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