第3章: 自宅という檻と、開発されゆく肉体

第3章: 自宅という檻と、開発されゆく肉体
次に会う約束をしてから、ちょうど二週間が過ぎた日曜の午後だった。
玄関のインターホンが鳴った時、佐田清彦は少しばかり慌てて、ソファから立ち上がった。彼は普段着のチャコールグレーのカーディガンに、少し擦り切れた感じのチノパンという、休日の自宅でのいつもの姿のままだった。胸の鼓動が、妙に速くなっているのを感じる。――来たな。
ドアを開けると、やはり小池美和が立っていた。今日は白いブラウスに、紺色のデニムのオーバーオールを着ていた。肩には帆布の大きなトートバッグがかけられ、中からスケッチブックの角らしきものが覗いている。黒く長い髪は、いつものようにストレートで、丸いフレームの眼鏡の奥の目が、きょとんと周りを見回していた。
「こ、こんにちは。お邪魔します」
美和が小さく会釈した。
「ああ、どうぞ。上がってください」
清彦はドアを大きく開け、彼女を招き入れた。
美和が玄関で靴を脱ぎ、上がり框に足を乗せた。彼女の足は白く、踝が細く繊細に見えた。彼女はそっと室内へ一歩踏み込み、きょろきょろと周囲を見渡した。
「……佐田さんのお部屋、初めてです」
「うん。ちょっと狭いけど……気にしないでくれれば」
清彦のマンションは築二十年ほどの2LDK。決して広くはないが、一人暮らしには十分すぎる空間だった。リビングには大きな窓が南向きにあり、午後の柔らかい日差しが差し込んでいた。ソファと低いテーブル、壁際には本棚とオーディオラックが置かれ、ごく普通の、地味な独身男性の部屋という印象だった。
美和はゆっくりとリビングの中央まで進み、そっと立ち止まった。彼女の視線は、壁際の本棚に釘付けになっていた。
「……本、たくさんあるんですね」
彼女が感嘆するように呟いた。
「ああ、昔から買い溜めちゃって。整理できなくてね」
清彦の本棚には、ビジネス書や歴史書、それに趣味で集めたジャズやクラシックのCDが詰まっていた。特に系統立てて整理されているわけではなく、ただ時系列に並んでいるだけだった。
美和は近づき、背表紙を一本の指でそっとなぞった。
「『日本経済の歩み』……『バロック音楽史』……佐田さん、真面目なんですね」
彼女が振り返り、微笑んだ。
その笑顔は、ラブホテルの緊張したものとは全く違い、自然で柔らかかった。清彦は、その笑顔を見ただけで、なぜか胸がほんのり温かくなるのを感じた。
「真面目、かな。ただ、好きなものを集めてるだけだよ」
「そういうところ、いいなあと思います」
美和はそう言うと、今度はオーディオラックに視線を移した。
「レコードプレーヤーもお持ちなんですか? 最近のものじゃなくて、昔ながらの……」
「ああ、これはね、学生時代から使ってるんだ。まだ動くから、つい使っちゃって」
美和の目が輝いた。
「すごい。こういうの、憧れます。時代を感じますよね。わたしの絵画でも、古い技法を学ぶのが好きで……伝統的なものには、何か温かみがあるというか」
彼女はそう言いながら、ソファの傍らに置かれた小さなサイドテーブルに、自分のトートバッグをそっと置いた。
「今日は……ホテルじゃなくて、こっちの方が落ち着きます」
美和が照れくさそうに言った。
「うん。そうだね。ずっと、リラックスできるし」
清彦はそう答えながら、自分でもなぜか安心していることに気がついた。確かにここは自分の領域だ。見知らぬラブホテルの不自然な空間よりも、はるかに気持ちが楽だった。
「お茶、淹れようか? コーヒーとか」
「あ、お願いします。そういう……日常的なこと、してみたかったんです」
美和の言葉に、清彦は少し驚いた。彼女はソファに腰を下ろし、膝の上で指を絡ませながら、部屋中を眺め回していた。その様子は、まるで初めて訪れた友人の家に興味津々な少女のようだった。
清彦がキッチンでコーヒーを淹れている間、美和は静かに本棚の前で立ち尽くしていた。彼女が一冊の分厚い画集を手に取り、ページをめくっているのが、背中越しに見えた。
――絵の話、してみたいのかな。
清彦はそう思った。今まで、彼女が美術大学で何を学んでいるのか、詳しく聞いたことがなかった。パパ活としての関係では、そんな深い話は必要ないと思い込んでいたからだ。
コーヒーカップをトレイに乗せ、リビングに戻ると、美和は彼のことを見て、慌てたように画集を棚に戻した。
「あ、すみません。勝手に触っちゃって……」
「いいんだよ。気にしないで」
清彦はテーブルの上にカップを置き、美和の正面のソファに腰を下ろした。
二人の間に、温かいコーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上った。窓から差し込む陽射しが、湯気に虹色の輪を作っている。
「……佐田さん」
美和が突然、真面目な顔で言った。
「なにか気に入らないこと、あったら教えてください。わたし、まだわかんないことだらけで……でも、学びたいんです。佐田さんと一緒にいるときの、こういう感じを」
その言葉は、あまりに真っ直ぐだった。清彦は、コーヒーカップの取っ手をぎゅっと握りしめた。
「美和さんは……何がしたいの?」
彼は思わず、そう尋ねた。
美和は一瞬、目をぱちぱちさせた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……気持ちよくなりたいです。佐田さんに触られて、またあの時の感じを味わいたい。それに……」
彼女は少し間を置き、声をひそめた。
「佐田さんのこと、もっと知りたいなって。この部屋を見て、そう思いました。佐田さんて、きっとすごく誠実な人なんだなって」
――誠実?
清彦は内心で繰り返した。自分がそんな言葉で形容されるとは、夢にも思わなかった。ただ、小心で、引っ込み思案で、女運のない男だと、ずっと自分では思っていた。
「そんなこと、ないよ。ただの、地味なオジサンだよ」
「違います」
美和はきっぱりと言った。
「地味かもしれないけど、ここの本やレコード……全部、長い時間をかけて集めたものばかりでしょ? ちゃんと向き合って、大事にしてきた痕跡が、あちこちにあります。そういうの、わたし……好きです」
彼女はそう言うと、コーヒーカップを手に取り、そっと一口含んだ。そして、目を細めてほんのり笑った。
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