第1章: 孤独な日常と、仄かな誘い(続き 3/3)
「カフェでのお話だけでは、申し訳ないです。なので……」
美和は唇をかんだ。頬が少し赤らんでいる。
「ホテルに行きませんか? 近くに、そういう場所があると思います。私は……初めてなので、よくわからないですが、機械でチェックインするやつなら、少し調べました」
清彦は、言葉を失った。
ホテル? 彼女は、何を言っているのだろう。いや、彼女の言葉の意味は明らかだ。しかし、清彦にはそんなつもりは毛頭ない。ただ、この緊張した少女と、もう少し話がしたかっただけだ。
「ちょ、ちょっと待ってください、美和さん。別に、そんなことをする必要は……」
「わ、私がいたらないばっかりに、魅力がないんでしょうか?」
美和の声が震えた。目がうるんでいる。
「どうか、すみませんが、お願いします。私、一生懸命しますから。そうしないと、お金をもらう資格がないような気がして……」
彼女は完全に誤解している。パパ活という行為に対して、極端にストイックで歪んだ解釈をしている。清彦は慌てた。
「違います! 美和さんは十分……いや、そんなことじゃなくて、私はただ美和さんと話がしたくて……」
「でも!」
美和は勢いよく立ち上がった。周囲の視線が少し集まる。
「私、約束は守りたいんです。いただくものに対して、誠実でありたい。だから……お願いします。近くの、あの……ラブホテルに」
その言葉を聞き、清彦は呆然とした。
そして、彼女の眼差しが、どこまでも真剣で、必死であることを理解した。この少女は、世間知らずで、純粋で、そして頑ななまでに「約束」を重んじるのだ。
断り続けることもできた。しかし、彼女がそれでも諦めず、あるいは傷つくかもしれない。それよりも、彼女の「誠実さ」を、踏みにじるような気がした。
──何てことを。
清彦は、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかりました。でも、何も無理はしなくていいですからね。ただ……場所がわかるんですか?」
美和は、はっとして小さく頷いた。
「はい。前に、友達に聞いたことがあって……駅の東口を出たところに、あります」
「そうですか。じゃあ……行きましょうか」
外に出ると、夕方の冷たい空気が頬を撫でた。歓楽街の入口に近い、そのラブホテルは、派手なネオンサインを灯していた。清彦も、この歳になるまで足を踏み入れたことがない場所だ。
美和は、真っ直ぐにその建物に向かって歩き始めた。背筋がぴんと伸びているが、歩幅は小さく、足取りは明らかに緊張に震えていた。
自動ドアが開き、無機質な明るさのロビーに足を踏み入れる。正面には、大きなタッチパネルのチェックイン機がある。誰もいない。
二人は、その機械の前に立った。
「えっと……ここで、ボタンを押すんですよね」
美和が小声で呟く。指先が、画面の上で少し揺れている。
清彦も、どうすればいいかわからない。画面上には、部屋のタイプと宿泊時間、料金が表示されている。全てが初めての体験だ。
「あの……三時間で、いいですか?」
美和が振り返らずに尋ねた。
「ええ、それで」
彼女は、表示されている中から一番安い部屋を選び、クレジットカードを挿入する場所を探した。
「あれ? ここかな……でも、私、カード持ってません……」
「私が持ちますよ」
清彦が財布からカードを取り出し、差し込んだ。機械がぶんぶんと音を立て、カードを読み込む。
その間、二人は並んで、無言で画面を見つめていた。肩と肩が、わずかに触れ合う距離。清彦は、美和の体から、ほのかな石鹸の香りがするのに気づいた。
──変な状況だ。
ふと、そんな思いがよぎった。六十二歳の男と、十九歳の少女が、ラブホテルのチェックイン機の前で、まるで迷子のように立ち尽くしている。
しかし、その共有した困惑が、不思議と年の差という壁を、少しだけ薄くしているようにも感じた。ここには、人生の先輩も後輩もいない。ただ、初めての場所に戸惑う二人の人間がいるだけだ。
カードが戻り、鍵のようなカードキーと、レシートが出てきた。
美和がそれをそっと取り、清彦に渡そうとした。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
清彦が受け取ると、彼女はほっとしたように小さく息を吐いた。
「部屋は……三階だそうです。エレベーターは……」
彼女がまた先に歩き出す。清彦はその細い背中を見つめながら、ゆっくりと後を追った。
エレベーターの中は鏡張りで、二人の姿がくっきりと映った。清彦の地味なカーディガンと、美和の清楚なブラウス姿が、この場にそぐわないほどに浮いて見える。
美和はうつむき、床を見つめていた。耳たぶが赤い。
ドアが開き、廊下に出る。カーペットがふかふかとしていて、足音を吸い込む。部屋番号を探し、カードキーをかざす。
「ピッ」という電子音とともに、ドアが開いた。
中は薄暗く、自動で照明がついた。派手な紫色の壁紙と、大きな円形のベッド。天井には鏡が張られていた。
美和は入口で足が止まった。ぽかんと口を開け、目を見張っている。
清彦も、思わず咽せ返るような空気を吸い込んだ。
そして、彼は気づいた。
何かが、もう後戻りできないところまで、ゆっくりと、しかし確実に転がり始めていることを。
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