第1章: 孤独な日常と、仄かな誘い(続き 2/3)
そして、ふと目に留まった。シンプルなデザインで、「身分証明書による本人確認を徹底しています」と掲げているサイトがあった。
指が、自然とそのリンクをタップした。
登録画面には、生年月日、職業、年収の欄が並ぶ。全て正直に記入する。嘘はつけない性分だ。プロフィール写真は、スーツを着た、数年前の自分を使った。笑顔を作ろうとしたが、どこか硬い表情になった。
メッセージ機能で、何人かの女性に挨拶を送ってみた。返事が来るのは半分ほど。そのほとんどが、一回のメッセージで途絶えた。
──やはり、無理なのか。
少し落胆しながら、最後の一つのプロフィールを開いた。
「美術大学油画専攻、19歳。学費と画材購入のため、はじめてパパ活をしてみます。お話しするのが好きです」
プロフィール写真は、顔がはっきり写っていない。長い黒髪が肩にかかり、丸いフレームの眼鏡が微かに光っている。服装は白いブラウスに、紺色のプリーツスカート。高校生のようだ。
少し躊躇ったが、清彦はメッセージを打ち始めた。
「はじめまして。佐田と申します。プロフィールを拝見しました。美術、いいですね。私は詳しくありませんが、興味があります」
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
返事が返ってくるまで、十秒とかからなかった。
「はじめまして、美和と申します。ご連絡いただき、ありがとうございます。美術について、お話できる機会があれば嬉しいです。ただ、一つお伝えしておかなくてはならないことがあります。私は、その、セックスはできません。もし、それをお望みでしたら、お断りさせていただきます。すみません」
文章から、ひどく緊張しているのが伝わってきた。それ以上に、律儀で真面目すぎる性格が、滲み出ている。
清彦はすぐに返信した。
「いえいえ、それで結構です。ただ、お話ができればと思いまして。もしよろしければ、近くのカフェで、お茶程度でも」
しばらく間が空いた。
「ありがとうございます。では、お願いします。場所と日時を、教えていただけますか?」
約束は、三日後の土曜日、午後二時に、駅前の大きな書店にあるカフェに決まった。
当日、清彦は十年ぶりに新しいチノパンをはき、襟のしっかりしたYシャツを選んだ。少し若すぎるかと思い、結局いつもの地味な紺色のカーディガンを羽織った。
カフェには十分早く着いた。窓際の席に座り、コーヒーを頼んで待つ。手のひらにじんわりと汗がにじんでいる。
──十九歳か。孫ほどの年齢差だ。
ふとそんなことを考えると、得体の知れない罪悪感が胸をよぎった。しかし、もう後戻りはできない。
二時ちょうど、入口のガラスドアが開いた。
長い、墨のように黒いストレートの髪。白いブラウスに紺のスカート、そして黒いニーハイソックス。丸いフレームの眼鏡の奥には、切れ長で、どこかうつろな黒目が光っていた。
高校生と見まがう、未成熟な佇まい。スレンダーで、胸の膨らみも控えめだ。が、その姿は、清彦が想像していた以上に「少女」そのものだった。
彼女はきょろきょろと店内を見回し、清彦と目が合うと、ぴくりと体を震わせた。そして、小さく息を吸い込み、ゆっくりと近づいてきた。
「あの……佐田さん、でしょうか?」
声はか細く、しかし澄んでいる。少し上ずっている。
「はい、私です。美和さんですね。どうぞ、お掛けください」
清彦は立ち上がり、いささかぎこちなく椅子を引いた。
美和はぺこりと丁寧にお辞儀をし、そっと席に着いた。リュックサックを膝の上に置き、ぎゅっと抱きしめるような仕草をした。
「お会いできて、光栄です。お忙しいところ、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。ええと……何か飲みますか?」
「あ、はい。では、紅茶で……」
美和はメニューをほとんど見もせずに答えた。緊張が伝染するように、清彦も喉が渇いた。
注文を済ませ、しばらく沈黙が流れた。外を歩く人のざわめきが、ガラス越しにぼんやりと聞こえてくる。
「美和さんは、美術大学油画専攻なんですね」
清彦がまず口を開いた。
「はい。油絵を専攻しています。でも、まだ一年生なので、基礎ばかりで……」
「それはすごい。絵を描くのは、子どもの頃から好きだったんですか?」
その問いに、美和の表情がほんのりと緩んだ。
「はい。物心ついた時から、紙と鉛筆が好きでした。特に、人の表情を描くのが……その、人の内面みたいなものが、少しでも描き出せたらな、って」
彼女の目が、一瞬だけ輝いた。それは、自分の好きなことを語る者に共通の、熱のようなものだ。
「内面、か。確かに、絵画ってそういうものかもしれませんね。私は、そういう芸術的なことはからっきしでして」
「そんなことありませんよ。佐田さんのお仕事は?」
「ええ、今は関連会社で、経理関係の書類仕事をしています。以前は、本社でずっと同じようなことをしていましたが」
「経理……数字を扱うお仕事ですよね。私、数字は苦手です。でも、きちんと正確に処理されている様子は、ある種の美しさを感じます。秩序があるというか」
その言葉に、清彦は驚いた。
「美しさ、ですか。そう言われるのは初めてです」
「すみません、変なこと言って」
「いえ、とても嬉しいです」
ほんの少し、緊張が解けた。紅茶が運ばれてきて、美和は砂糖を一粒だけカップに入れ、スプーンでゆっくりとかき混ぜた。その仕草が、どこか子供っぽく、また愛らしかった。
一時間ほど、美術の話、大学の話、そして清彦の仕事の話をした。美和は、時に真剣に、時に恥ずかしそうに、しかし一生懸命に話を聞いてくれた。清彦が詰まりながら話す様子を、決してせかさなかった。
やがて、美和がそっと時計を見た。
「あの……佐田さん。もう、そろそろ時間が……」
「あ、そうですね。ええと……」
清彦は、封筒を取り出そうとした。事前に準備していた、約束の金額だ。しかし、その前に、美和が顔を上げ、真っ直ぐに清彦を見つめた。
その目は、さっきまでの柔和さから一変し、どこか覚悟を決めたような、硬い輝きを宿していた。
「佐田さん。お金をいただくからには、私も……ちゃんと、対価をお支払いしなければいけないと思います」
「え?」
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