第4章: 処女の贈り物と、交わされた約束

第4章: 処女の贈り物と、交わされた約束
初めて佐田清彦の部屋を訪れてから、ちょうど三ヶ月が経過しようとしていた。
窓の外に見える街路樹の葉が、少しずつ黄色味を帯び始める頃。夕暮れの空気には、夏の湿気が消え、澄んだ秋の気配が混ざり合っていた。清彦のマンションのリビングでは、テーブルの上に夕食の跡が片付けられ、二つのコーヒーカップが並んでいた。
美和はソファの端に坐り、膝の上で指を絡ませていた。今日はいつもより少し早く訪れ、二人でスーパーで買い物をし、彼女が作った簡単なパスタを一緒に食べた。彼女の「絵の具代はバイトでなんとかなる」という言葉通り、この一ヶ月ほどは金銭の受け渡しは一切なく、ただ「会いたいから」という理由で、彼女は週に一度、彼の部屋を訪れていた。
清彦は向かい側のソファに腰を下ろし、彼女の様子をそっと観察していた。彼女の表情には、何か言いたそうな、しかし言葉にできないもどかしさが浮かんでいるように見えた。黒く長い髪は肩にかかり、丸いフレームの眼鏡の奥で、彼女の目が時折、きらりと光る。
「……美和さん」
清彦が声をかけた。
彼女ははっとしたように顔を上げた。
「な、なんですか」
「何か、言いたいことあるんじゃないかと思って」
美和の頬が、ほんのりと赤くなった。彼女は深く息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。その呼吸は、明らかに緊張を含んでいた。
「……佐田さん」
彼女は、彼の名前を呼んだ。その声は、普段よりも低く、真剣さに満ちていた。
「ええ」
「わたし……お願いがあります」
美和は膝の上で握りしめた拳を、そっと開いた。彼女の掌には、小さな汗の光りが見えた。
「なんだい。遠慮なく言ってくれればいいのに」
清彦は優しい口調で促した。彼自身、この三ヶ月で彼女との距離が、いつの間にか計り知れないほど近づいているのを感じていた。単なる肉体の繋がりを超えて、彼女の笑顔を見るのが日々の楽しみになり、彼女が学校で描いた絵の話を聞くのが、何よりの癒やしになっていた。
美和は立ち上がった。彼女はそっとテーブルの前に進み、それからゆっくりと振り返り、清彦をまっすぐに見つめた。
「わたしの処女……佐田さんにもらってください」
その言葉は、静かではあったが、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせた。
清彦は耳を疑った。彼は思わず身を乗り出し、彼女の表情を確かめようとした。冗談ではない。彼女の瞳は、一瞬も揺るがず、真剣そのものだった。
「な……何を言ってるんだい。それは……そんなこと」
「お願いです」
美和の声が震えた。彼女の目に、突然涙が浮かんだ。
「パパ活じゃなくて……お金もいらないから。ただ……付き合ってください。佐田さんと、恋人になりたいんです」
清彦は言葉を失った。六十二歳の自分に、十九歳の少女が、恋人になりたいと言っている。そんなことが現実に起こるはずがない。きっと彼女が何か誤解しているに違いない。彼女の若さゆえの思い違いか、あるいは自分に対する同情から出た言葉なのか。
「美和さん……それは、君がよく考えずに言ってるだけだよ。僕は君より四十歳以上も年上だ。孫みたいなものだ。そんなの……ふさわしくない」
「違います!」
美和の声が、初めて強い調子を帯びた。彼女は一歩近づき、涙をこらえながら言葉を続けた。
「わたし、ずっと考えてました。この三ヶ月、毎週会うたびに……佐田さんのこと、もっともっと知りたくて。でも知れば知るほど、離れられなくなって」
彼女はこぶしでそっと目頭を押さえた。
「最初は本当に、ただお金が欲しくて……パパ活を始めました。でも、佐田さんに会って……全部変わったんです」
清彦は黙って、彼女の言葉に耳を傾けた。彼の胸の奥で、何かが熱く疼き始めていた。
「佐田さんは、わたしの話を、本当に真剣に聞いてくれた。絵の話をすると、『どんな色を使ったの?』『どんな構想なの?』って、細かく聞いてくれて。学校で失敗して落ち込んでいるときは、『次はきっとうまくいくよ』って、絶対に怒らないで、優しく教えてくれた」
美和の涙が、一筋、頬を伝って落ちた。
「それに……わたしの体を、恥ずかしいものって思わないでくれた。汚いって言わないで、綺麗だって言ってくれて……触ってくれて、舐めてくれて。わたし、自分の体が嫌いだったのに……佐田さんが触ってくれるから、だんだん愛おしくなってきたんです」
彼女は息を詰まらせ、声を絞り出すように続けた。
「何より……佐田さん自身が、すごく愛おしいんです。自分に自信がなさそうで、でもわたしのためなら勇気を出そうとしてくれて……そういうところ、本当に、本当に好きです」
美和はもう涙を止められなかった。彼女の肩が震え、嗚咽が零れそうになるのを必死にこらえている。
清彦は立ち上がった。彼は彼女の前に歩み寄り、そっと両手を伸ばした。そして、彼女の細い肩を、ゆっくりと抱きしめた。
「……バカだな」
彼の声も、わずかに震えていた。
「そんなこと言われちゃ……僕、どうしていいかわからないよ」
美和は彼の胸に顔を埋め、小さく泣きじゃくった。彼女の涙が、彼のシャツの生地をじんわりと濡らしていく。
「……ダメ……ですか?」
彼女が押し殺したような声で尋ねた。
清彦は彼女の背中を、そっと撫でた。彼女の体は、まるで小鳥のように細く、しかしその中に秘められた熱量は、彼の掌に確かに伝わってきた。
「……美和さんが、そこまで思ってくれるなんて……僕は、何て幸せなんだろう」
彼は彼女の耳元で、囁くように言った。
「僕なんか……年老いた、地味な男だよ。君には、もっと若くて、素敵な相手がいるはずだ」
「いりません」
美和が顔を上げた。彼女の目は涙で赤く染まりながらも、確かな光を宿していた。
「わたしが欲しいのは、佐田さんだけです。歳なんて……関係ない。わたし、佐田さんの、古い本の匂いも、少し白髪が混じった髪も、細くて頼りなさそうな手も……全部、好きなんです」
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