第1章: 孤独な日常と、仄かな誘い

第1章: 孤独な日常と、仄かな誘い
午後六時を回ったオフィスの窓からは、薄暮がゆっくりと街を染めていた。
佐田清彦は、書類に押すはんこの位置をわずかに調整し、そっと息を吐いた。関連会社とはいえ、定年後に再就職できたことへの感謝は、毎日のように胸をよぎる。それでも、六十二歳という年齢が、時にひしひしと重くのしかかる。帰宅しても待っているのは、静まり返った二LDKのマンションだけだ。
──今日も、あのスナックに寄って帰るか。
そう思いながら、地味なグレーのダウンジャケットの袖を通した。ネクタイはもう外している。首元が少し楽になる。
駅前から一本路地を入ったその店は、「楓」という控えめな看板を掲げていた。十年以上、通い続けている数少ない場所のひとつだ。
チャイムの音とともにドアを開けると、ほのかに甘い香水の匂いと、静かなジャズが流れる空間が広がった。
「あら、佐田さん。お疲れさま」
カウンターの中から、栗色のウェーブが豊かなママが顔を上げ、慣れた笑みを向けてくれる。黒い光沢のあるドレスが、柔らかな店内の照明に照らされて、ほんのりと輝いている。
「こんばんは。相変わらずいい香りですね」
清彦は決まり文句のようにそう言い、常連の席であるカウンターの端に腰を下ろした。すぐ隣には、すでに赤らんだ顔をした益田が、ウイスキーの水割りを傾けていた。
「おう、佐田。遅いじゃねえか。もう一杯目が終わるところだぜ」
「仕事が少し伸びてしまいまして。益田さんは相変わらずお早い」
「はっはっは! ここのママの話が面白くてな、つい長居しちまうんだよ」
益田は小太りの体を揺らして笑った。開襟シャツの一番上のボタンが外れており、のんきそうな雰囲気を醸し出している。
ママが清彦の前に、水割りのグラスと、小さな鉢に入れた枝豆をそっと置いた。
「いつものでよろしいですか、佐田さん」
「ええ、ありがとうございます」
グラスを手に取ると、冷たい感触が指先に伝わる。少し緊張が解けるのを感じた。
益田はママの方に体を向けた。
「でさ、さっきの話の続きだけどよ、ママ。あの子、結局どうなったんだ?」
ママはほんのりと困ったような、それでいてどこか楽しげな微笑みを浮かべながら、グラスを磨く手を緩やかに動かし続けた。
「ええ、結局はお断りしたみたいですわ。『まだそんなこと考えるには早いです』って。まあ、仕方ないですよね、まだ二十歳になったばかりですし」
「はあ? もったいねえなあ。今の時代、そういうので学費稼ぐ子も多いってのに」
清彦は話の流れを聞きながら、そっと枝豆を口に運んだ。塩気がほどよく、ほんのり温かい。
「何の話ですか?」
ふと尋ねると、益田が大きく身を乗り出した。
「ああ、佐田、知らねえのか? パパ活だよ、パパ活。今どきの女子大生がね、学費とか生活費とか稼ぐために、年の離れたおっさんと会うんだってさ。飯食って話して、それでお小遣いもらう。中にはその先までいくのもいるらしいがな」
──パパ活。
その言葉は、清彦の耳に、奇妙な反響を残した。テレビやネットでちらりと見かけたことはある。しかし、実際に身近な話題として、こうして酒場で語られるのを聞くのは初めてだ。
「そ、そうなんですか」
「そうだよ! ママの知り合いの娘さんが、友達がやってるって話を聞いてきてさ。でも本人はやる気ないみたいでね。もったいないって思うんだよ、俺は」
ママは優しく首を振った。
「でも、益田さん。あの子は真面目ですから。そういうのに手を出すタイプじゃないんですよ。それに、危ない目に遭うかもしれないじゃありませんか」
「まあ、確かにそうだな。怪しいやつもいるだろうし。でもさ、ちゃんとしたサイトもあるらしいぜ。身分証明が必要なとこだと、登録も厳しいし、安全だって聞いた」
清彦は無意識に、グラスの中の氷をカランカランと揺らしていた。指先が少し冷たくなっている。
──お金で、話ができる。
それは、どこか歪んだ取引に思えた。しかし、その歪みの奥に、ひそやかに灯るような可能性も、感じられないわけではなかった。
持てなかった。若い頃から、女性との付き合い方はいつも不器用で、気づけば独りで過ごす時間ばかりが積み重なっていた。定年まで勤めた会社でも、恋愛話や家族の話題には、ただ聞き役に回るだけだった。
今さら、そんなことを考えても仕方ない。歳は取った。髪には白髪が混じり、顔には深い皺が刻まれている。それでも、胸の奥で微かに揺らめく「もしも」という言葉が、消え去ることはなかった。
「……佐田さん、どうかしました?」
ママの声にはげられ、清彦ははっと我に返った。
「い、いえ。ただ、少し考え事をしておりまして」
益田がけたたましく笑った。
「はっは! 佐田も興味あるんだろ? でもな、お前みたいな真面目そうな顔してると、逆に怪しまれるかもしれねえぞ。『こんなオジサン、大丈夫か?』ってな」
「べ、別に興味があるわけでは……」
「まあまあ、益田さん。佐田さんをからかわないでくださいよ」
ママが仲裁するように言い、清彦のグラスにそっとウイスキーを注ぎ足した。
「でも、確かに世の中は変わりましたわね。私たちが若い頃には考えられなかったようなことが、当たり前のようにあるんですから」
その言葉に、清彦は小さく頷いた。
そうだ、時代は変わった。自分が若かった頃とは、全てが違う。ならば、ほんの少しだけ、その変化に触れてみても、罰は当たらないのではないか。
──ただ、話をするだけなら。
そう思うと、心臓の鼓動が、少しだけ早くなっているのに気づいた。
その夜、清彦は自宅のソファに座り、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。
リビングは静かだ。テレビの音もなく、聞こえるのは室外機の微かな唸りだけ。五十五歳を過ぎてやっと手に入れたこのマンションは、清潔で、整っていて、完璧に孤独だった。
検索バーに「パパ活 サイト」と打ち込む指先が、わずかに震えている。
いくつものサイトが表示される。派手な広告写真が並び、言葉遣いもざらついたものがある。清彦は眉をひそめた。そんなものは、自分には合わない。

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