第3章: 居酒屋の夜と誘い―「家に来ませんか」

第3章: 居酒屋の夜と誘い―「家に来ませんか」
柔軟体操のあの出来事から一週間が過ぎた。
賢一は、トレーニング後のシャワーを浴びながら、今日こそ言おうと何度も心の中で繰り返していた言葉を、もう一度胸の中で噛みしめる。冷たい水が鍛えられつつある胸板を流れ落ちる。
かつてのたるみは確実に筋肉へと置き換わり、手で触れればその張りを感じられる。鏡に映る自分の顔にも、どこかしまりが出てきたような――そんな気がしている。
だが、心は相変わらずおずおずと揺れていた。あの日、レオタードの布越しに感じた聡子の温もりと、自分が反応してしまった恥ずかしさ。彼女が赤面して俯いた横顔。それ以来、何だかぎこちない空気が二人の間に漂っていた。
――ダメだ。このままじゃ、まずい。
タオルで体を拭い、ジムのロッカールームで着替えながら、賢一は決意を固めた。今日、トレーニングが終わったら、何としても声をかけよう。ただの雑談でなく、きちんと食事に誘おう。
「今日も、お疲れさまでした、司城さん。フォーム、とてもきれいになってきましたよ」
聡子が汗を拭いながら近づいてきた。今日もピンク色のタンクトップに、黒いショートパンツという、体のラインがくっきりと浮かび上がる格好だ。胸の谷間が汗で少し光り、鎖骨のくぼみに一粒の汗粒がゆっくりと流れ落ちる。
賢一は、ついその一滴を見つめてしまい、慌てて目を上げる。
「そ、そうですか……五十嵐さんのおかげです」
「いえいえ。司城さんが真剣に続けてくださるからこそです。それに……」
聡子は言葉を切り、ちょっと照れくさそうにほほえんだ。
「最近、なんだか……雰囲気が、引き締まってきましたよね。見た目だけじゃなくて、中から溢れてくるような……自信みたいなもの」
「自信……ですか」
「ええ。最初にいらした時とは、別人みたい」
その言葉が、どれだけ賢一の胸を熱くしたか。妻から「男としての魅力は皆無」と言われてから、自分の存在価値がどこにあるのか、ずっとわからなかった。娘の励ましが支えではあったが、それはあくまで家族としての肯定でしかない。一人の男として、一人の人間として、認められたという実感が、この言葉には込められていた。
「……ありがとう、ございます」
「あ、もうこんな時間。そろそろ閉館ですし……」
聡子が壁の時計を見上げる。チャイムが鳴り、ジム内の照明が少し落とされる。慌てるようにして賢一は口を開いた。
「あの! 五十嵐さん!」
「はい?」
「もし、もしよろしければ……これから、一緒に食事でもいかがですか? いつもお世話になってばかりで、なんのお礼もできていませんし……」
言葉が次第に小さくなる。まるで十代の少年のように、どきどきと胸が鳴る。
聡子はぱっと目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……いいんですか? 私と、そんなに年上の男性が……」
「そんな、とんでもない! むしろ、私こそ若い女性を誘うなんて、厚かましくて……」
「わかりました」
「え?」
「お誘い、嬉しいです。行きましょう」
聡子はにっこり笑って、うなずいた。
近所の居酒屋は、木の温もりを感じる落ち着いた店内だった。個室ではないが、仕切りのある座敷席に通され、二人は向かい合って座った。最初はやはり少し硬い空気が流れた。トレーニングの話、ジムの常連の噂話……そうしてビールと焼き鳥が運ばれてきて、杯を重ねるうちに、次第に糸がほぐれていった。
「あの元彼って方……浮気が発覚したんですね」
三杯目を傾け、頬をほんのり桜色に染めた聡子が、ふと口にした。
「七年も一緒にいたのに……結婚の話も、ずっと先延ばしにされてて。『今は仕事が忙しいから』『もう少し貯金ができたら』って、いつも言われてました。で、その『忙しい』時間に、別の女性と会ってたみたいで」
彼女は串に刺さった鶏もも肉をじっと見つめ、つつくように言う。
「別れ際に、その人が言ったんです。『お前みたいにしっかりしてる女は、結婚したら面白くない』って。あたしが、堅実すぎるって……」
「……とんでもない」
賢一の声は、思った以上に力強く低く響いた。
「五十嵐さんの真面目さは、素晴らしいものです。それを『面白くない』なんて言う男は、そもそも人として未熟ですよ。責任を取る覚悟がないから、軽薄な遊びに逃げているだけだ」
聡子がゆっくりと顔を上げた。その瞳は、少し潤んでいた。
「……司城さんは、そう思ってくださるんですね」
「当然です。私の妻も……まあ、似たようなものでした。家庭や責任を重荷に感じ、自由や刺激を求めて……結局、それを口実に人を傷つけるだけです」
妻の言葉が、もう一度胸を突き刺す。
ぶよぶよ太って男としての魅力は皆無。
その一言が、全てを否定したように感じたあの夜の絶望を、今も忘れられない。
「ずっと……一人で淋しかったんです」
聡子が呟く。
「元彼と別れてから、誰にも触れられていないし……触りたくもなかった。体の関係って、そんなに簡単に別の誰かと、っていうものじゃないですよね。なのに、最近……」
彼女の言葉が途切れる。視線が、テーブルの上をさまよう。
「司城さんと、ストレッチしてるとき……あんなことになって、恥ずかしくて仕方なかったんですけど……それから、なんだか変な気がして。司城さんの、あの……たくましくなっていく体を見て、触れて、指導してると……」
「……私もです」
賢一は、自分の声が震えているのに気づいた。
「あの後、五十嵐さんのことが……頭から離れなくて。こんな年寄りが、なんて思うんですが……でも、ふと、考えてしまうんです。もしも……もしも、この淋しさを分かち合える人が、目の前にいるのなら……」
静寂が流れた。
居酒屋の喧噪が、遠くの波のように聞こえるだけだ。
聡子がグラスを持ち上げ、一口、また一口と飲む。喉がかくん、と動く。
「……私も……ご無沙汰です。体が……寂しくて。たまに、夜、一人で布団の中で……んっ……って、なってしまうことがあって、ははは…わたし何しゃべってるんだろ」
それは、吐息のように漏れた本音だった。
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