熟年離婚、屈辱をバネに甦る肉体と若いインストラクターとの熱い夜

第1章: 退職と離婚―「男としての魅力は皆無」(続き 2/3)

賢一はソファに深く沈み込んだ。リビングの明かりが、突然、とてもまぶしく、そして冷たく感じられた。テーブルの上の離婚協議書が、白く不気味に光っている。目に入るすべてのもの――自分が何十年もかけて築き、守ってきたと思っていたすべてのものが、脆い砂の城のように崩れ落ちていく音が聞こえた。

腹の脂肪。たるんだ二の腕。妻に「生理的に無理」と言われた体。

――確かに…魅力なんて、ないよな。

――仕事さえなければ、何も取り柄がない。

――ただの…ぶよぶよ太った、年老いた男だ。

頬が熱い。気づくと、目頭から涙が溢れ、ポロポロと膝の上に落ちていた。声を上げて泣くことさえできず、ただ肩を小さく震わせながら、無限に深い穴の底に落ちていく感覚に飲み込まれていった。

いつまでそうしていたか。外はとっくに真っ暗になっていた。リビングには、自分の荒い息の音だけが響いている。

その時、ぱらりと軽い電子音が鳴った。スマートフォンの着信音だ。画面を見ると、遠方に嫁いだ娘、綾乃からのビデオ通話のリクエストだった。

一瞬、切ろうと思った。今の惨めな姿を見せられるほど、心の余裕はなかった。しかし、親指がふと、受け取るボタンの上で止まった。綾乃の顔を見たい。たとえ一声だけでも、娘の声を聞きたい。そんな寂しい欲求が、穴の底から這い上がってきた。

ボタンを押した。

画面に、娘の優しい笑顔が映し出された。背景は、彼女の自宅のリビングだろう。少し疲れた様子もあったが、目はしっかりとカメラを見つめている。

「お父さん。退職、お疲れ様!」

綾乃の明るい声が、壊れかけた鼓膜に染み渡った。賢一は慌てて涙を袖で拭い、できるだけ平静を装おうとした。

「ああ…ありがとう。綾乃」

「どうだった? みんな、盛大に送り出してくれた? お父さん、泣いちゃった?」

「…ばかな。泣くわけないだろ」

声がかすれている。画面越しに、賢一の赤く腫れた目を見逃すはずがない。綾乃の表情が、少し曇った。

「…お父さん。なんだか、顔色悪いよ。具合でも悪いの?」

「いや…ただ、ちょっと疲れてるだけだ。大丈夫」

沈黙が一瞬流れた。綾乃は、画面の中でじっと父親の顔を見つめている。その視線は、子供の頃から変わらない、純粋な心配に満ちていた。

「…お母さんとは、もう話した?」

突然の核心を突く質問に、賢一は息をのんだ。どうして? なぜ娘が?

「な…なぜ、そう思う?」

「だって、お父さんが退職するって聞いた時、お母さん、変な感じだったんだよね。『やっと自由になれる』とか、『これで私も好きにできる』って、なんだか嬉しそうに言ってて」

綾乃の声は次第に小さくなり、切なそうな色を帯びた。

「それに、私、実は少し前から気づいてた。お母さん、スマホを見る時の顔が、全然家庭のお母さんじゃない顔してたって。若い頃みたいに、目がキラキラしてた」

賢一は黙り込んだ。娘まで、気づいていたのか。自分だけが、ぼんやりと現実を見ようとせず、家族という名の檻に安住していたのか。

「お父さん」

綾乃の声が、再びしっかりと響いた。

「もし…もし何かあったら、私、絶対にお父さんの味方だから。お父さんが悪いなんて、これっぽっちも思ってない」

「…綾乃」

「お父さんは、いつも家族のために働いてくれた。私が大学に行けたのも、この家で安心して暮らせたのも、全部お父さんのおかげだよ。お母さんが何て言おうと、私は知ってる。お父さんがどれだけ頑張ってきたか、ちゃんと見てきたから」

涙が、再び止めどなく溢れた。今度は、悲しみではなく、胸が締め付けられるような温かいものがあふれ出た。賢一はうつむき、こぶしで口を押さえた。

「…ありがとう…ありがとう、綾乃」

「だから、お父さん」

画面の中の娘が、少し前のめりになり、カメラに近づいた。その瞳は、真っ直ぐで、強い励ましに満ちていた。

「いまからでも、遅くないから。第2の人生、がんばってみたら? お父さんはまだ六十一歳でしょ? これからだよ。もう、家族のためにだけ生きなくていいんだから。お父さん自身のために、何か始めてみたら」

第2の人生。

自分自身のために。

その言葉が、凍りついていた心臓の奥深くで、かすかに灯りをともした。とても小さな、風前の灯火だった。しかし、確かにそこには、光があった。

「…何を…すればいいんだろうな」

「えっとね、まずは身体からじゃない? お父さん、最近すごくお疲れの様子だし、健康第一だよ。私が住んでる近所にも、定年後の人たちが通ってるスポーツジムがあるんだ。お父さんも、そういうとこに行ってみたら? 体動かすと、気分も絶対スッキリするよ」

ジム。

確かに、あのぶよぶよの体を何とかしないことには、何も始まらないかもしれない。少なくとも、鏡に映る自分を見る勇気が欲しい。妻に吐き捨てられた言葉を、少しずつでも塗り替えていきたい。

「…そうだな。身体から…か」

「うん! そして、何か新しいこと、趣味でも仕事でも、ゆっくり見つければいいんだよ。焦らなくていいから。一歩ずつでいいの」

綾乃の笑顔が、画面いっぱいに広がった。それは、暗闇の中で唯一の、確かな道標のように感じられた。

「わかった…やってみる。少しずつでいいから、やってみるよ」

「そうこなくっちゃ! 私、いつでも応援してるからね。またすぐ電話するね、お父さん」

通信が切れた。画面は暗くなり、自分の憔悴した顔が僅かな光に浮かび上がった。しかし、先ほどまでの絶望的な暗さは、少しだけ薄らいでいた。

賢一はゆっくりと立ち上がった。足元がふらつくが、なんとか踏みとどまることができた。テーブルの上の離婚協議書には目もくれず、窓辺へと歩み寄った。外の街灯が、いくつもの小さな光をともしている。

――第2の人生。

――身体から…始める。

夜風がわずかに窓を揺らし、遠くで電車の走る音がかすかに聞こえた。全てを失った気がした。しかし、その灰の中から、ごく小さな、新しい種が芽を出そうとしていた。それは、まだ痛みと羞恥にまみれている。しかし、確かにそこには、ほんの少しの、前を向く力が宿り始めていた。

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AIが紡ぐ大人の官能短編『妄想ノベル』案内人です

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