第5章: 「ざまあ」―元妻の来訪と新たな門出

第5章: 「ざまあ」―元妻の来訪と新たな門出
引っ越し前夜の部屋は、段ボール箱が積み重なり、生活の痕跡が丁寧に梱包されつつある暫定的な空間だった。
鍋がグツグツと湯気を立て、白菜と豚肉の甘い香りが漂う。賢一は聡子の向かいに座り、彼女が豆腐をそっと取り分ける手元を見つめていた。トレーニングレオタードの上に羽織った綿のカーディガンが、彼女の肩のラインを柔らかく包んでいる。
「明日が本番ですね。緊張しますか?」
聡子が箸を置き、優しい目で尋ねた。
「正直言うと、少しどきどきしています。こんな歳になって、新しい家を構えるなんて」
賢一は苦笑いしながら、ビールのグラスに手を伸ばした。
鍛えられた腕の筋肉が、シンプルな長袖Tシャツの下でうっすらと浮かび上がる。ジムに通い始めてから、どれだけの時間が経っただろう。あのぶよぶよとした自分の体も、妻からの辛辣な言葉も、今では遠い過去のようだ。
「でも、すごく楽しみ。司城さんと一緒に選んだマンションだもの」
聡子の頬がほんのり桜色に染まった。彼女は鍋の向こうから手を差し伸べ、賢一の手の甲にそっと触れた。
その温もりが、賢一の胸を満たす。
親の遺産――母がこっそりと残してくれた金額は、決して大金ではないが、新たなスタートを切るには十分なものだった。幸恵には一切話さず、別居後もひっそりと保管していた。今思えば、これが自分の第二の人生を支える資金になるとは。
「聡子さんがいてくれたから、ここまで来られました」
「そんな……司城さん自身が頑張ったんですよ」
「いえ、本当に。あの時、ジムの門を叩かなかったら、今の僕はいない」
賢一は聡子の指を包み込むように握り返した。
彼女の指先は、インストラクターとしての仕事の跡が感じられる少し固い感触だが、内側は驚くほど柔らかく温かい。その手のひらから、まるで生命力そのものが伝わってくるようだった。
「司城さん……」
聡子が声を潜めた。
「私、時々怖くなるんです。こんなに幸せでいいのかって。だって、私よりずっと年上だし、司城さんにはもっと相応しい方がいるかもしれないし」
「そんなことを言わないでくれよ」
賢一はきっぱりと言い、聡子の目をじっと見つめた。
「僕にとって相応しい人とは、僕の全てを受け入れてくれる人だ。過去の失敗も、これからの不安も、そしてこの体も――全部を、あるがままに認めてくれる人を、僕は選んだ」
聡子の目に涙が光った。
彼女はうつむき、こらえるように唇を噛んだ。
「……ありがとう。そう言ってくれて」
その時――
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鋭く響いた。
二人は同時に顔を上げ、目を見合わせた。この時間に、誰だろう。引っ越しの手配は全て明日だし、大家さんからの連絡もない。
「宅配便かな? でも、こんな夜遅くに」
聡子が首をかしげた。
「見てくるよ。ちょっと待っていて」
賢一は立ち上がり、リビングを横切って玄関へ向かった。ドアの扉眼から外を覗く。
そこに立っていた人影に、賢一は息をのんだ。
――幸恵。
元妻の司城幸恵が、薄いコートを羽織り、うつむくように立っていた。彼女はかつてのきらびやかなドレッシーさを完全に失い、髪もきちんと整えられていない。頬はこけ、目元には深いクマが刻まれている。
賢一は一瞬ためらったが、静かにドアを開けた。
「……どうしたんだ? こんな時間に」
幸恵が顔を上げた。その目は、以前の鋭さを失い、どこかすがるような弱々しさをたたえていた。
「賢一……あの、ちょっと話がしたくて」
彼女の声はかすれ、震えている。
「話? 私たちにはもう、話すべきことは何もないはずだ。離婚は成立している」
「わかってる、わかってるわ。でも……ちょっとだけ、中に入れてくれない? 外は寒いし……」
幸恵は身震いしたふりをしたが、その仕草には明らかな演技が感じられる。
賢一は深く息を吸い込み、冷静さを保とうとした。しかし、彼女がここに来た理由は容易に想像がついた。娘の綾乃から、幸恵が付き合っていた年下の男に財産を搾取され、見捨てられたという話を聞いていた。
「短時間でいい。どうしても、あなたに伝えたいことがあって」
幸恵の目が、賢一の体を上から下まで舐めるように見た。その視線に、かつての軽蔑はなく、むしろ驚嘆と――何かを期待するような熱が込められていた。
「あなた……すごく変わったわね。痩せて、引き締まって……まるで別人みたい」
「ジムに通っているからだ」
「そう……頑張ってたのね。私、知らなかった」
幸恵が一歩前に出た。彼女の香水の匂い――かつては高級なものを使っていたが、今は安っぽい芳香剤のような匂いが漂う。
「実はあの後、色々あって……あの男、ひどい人だったの。お金だけ取って、私を捨てた。全部、計画通りだったみたい」
彼女の声が詰まった。
「でも、それでよかったのかもしれない。だって、やっと気づいたの。私にとって本当に必要な人は、あなただったって」
幸恵の手が伸び、賢一の腕に触れようとした。
「賢一、戻ってきて。もう一度始めよう。私たち、長い夫婦だったじゃない? あの時の言葉、撤回する。あなたは立派な男よ。ちゃんと見直した」
その言葉が、賢一の胸に冷たいものが走る。
あの時――退職した夜、彼女が浴びせた言葉を、彼は一言も忘れていない。
『ぶよぶよ太って男としての魅力は皆無なのに、仕事辞めたらもうなにも残らないわね』
その一言が、どれだけ彼を傷つけ、彼の自尊心を粉々にしたか。
「幸恵」
賢一の声は、意外なほど平静だった。
「もう遅いんだ。僕は――」
「遅くないわ! あなたもまだ男性として十分やっていけるし、私だってこれから頑張る。私たち、もう一度やり直せると思うの」
幸恵の目が輝き、必死さがにじみ出ていた。彼女は完全に追い詰められ、賢一という最後の浮き輪にすがりつこうとしている。
その時、リビングから聡子の声がした。
「司城さん、大丈夫ですか? 誰か来たんですか?」
聡子がレオタード姿のまま、カーディガンをしっかりと羽織って玄関へやってきた。運動後のほてりがまだ残る彼女の頬は健康的に赤く、鍛えられた肢体のラインが布地の下にくっきりと浮かび上がっていた。
幸恵の表情が凍りついた。
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