バブル期に戻ったサラリーマンが高校の吹奏楽部の恋人・淳子を巨根と羞恥プレイで堕とし、大学で寝取ろうとした先輩から奪還して完全勝利する話
あらすじ
五十二歳の香坂和也は、妻子と暮らしながらもかつての恋人・明石淳子への未練と人生の虚無感に苛まれていた。深夜、酒に溺れて眠りにつくと、目覚めたのは中学二年の自分の部屋。タイムスリップを確信した僕は、淳子に振られない男になるため、亜鉛サプリと常時皮むきによる亀頭鍛錬、スクワットを即日開始する。未来の記憶をノートに書き留め、競馬と株での資金計画を練る。心の中で渦巻くのは前世の悔恨──小さく仮性包茎だった己のペニス、そして大学二年の冬に淳子から向けられた冷たい瞳の記憶だけだ。今度こそ彼女を離さないために、まずは自分の身体を一から作り変えていく決意を固める章。
第1章 五十二年目の朝、僕は中学二年の春にいた

第1章: 五十二年目の朝、僕は中学二年の春にいた
目覚めは、まるで濁った水の底からゆっくりと浮上していくような感覚だった。
まぶたの裏にまだ残る昨夜の安酒の苦みと、妻の溜め息。娘はもう大学生で、父親の僕と目を合わせようともしなくなっていた。僕の五十二年の人生は、薄暗いトンネルをただ歩き続けるだけのものだったのだと思う。
だからこそ、その朝、瞼を開けた瞬間、飛び込んできた天井の木目模様に、僕は呼吸ごと凍りついた。
これは……父親の会社の借家の、二階の六畳間だ。中学時代の僕の部屋。黄ばんだポスターも、角の欠けた勉強机も、すべてがあの頃のまま、生々しいまでに現実の手触りを伴ってそこに在った。窓の外からは、まだ蕾の硬い桜並木を通り抜ける、三月の半ばの、どこか水っぽい風が吹き込んでくる。その空気には、これから芽吹こうとする若葉の、青く尖った匂いが微かに混じっていて、それが五十二歳の僕の鼻腔の奥を、突き刺すように刺激した。
(新緑の、匂いだ……)
まだ葉の開かぬ早春の朝なのに、その空気はすでに、来たるべき生命のざわめきを孕んでいる。僕は布団の上に身を起こし、震える両手を、自分の顔の前にかざした。皺ひとつなく、張りと弾力に満ちた、十四歳の手だった。まじまじと手の甲を見つめ、指を折り曲げては伸ばす。関節の柔らかさ、皮膚の薄い輝き、そのすべてが、まぎれもなく中学二年の春の自分自身だった。
「……タイムスリップ、か」
声に出してみて、初めて、喉の奥からせり上がってくる笑いが止められなくなった。それは歓喜なのか、それとも、前世のあまりに不甲斐ない自分への嘲笑なのか。どちらでもあった。僕はその場で立ち上がり、押入れの鏡の前に裸で立った。そこに映っていたのは、細く頼りない、しかし未来への可能性だけは無尽蔵に秘めた、少年の肉体だった。
僕の視線は、すぐさま股間へと落ちた。まだ幼さの残る陰茎が、不安そうにそこにある。包皮は亀頭を覆い隠し、それはまるで、殻にこもったままの、臆病な生き物のようだった。
(この、弱々しいものが……僕のすべてを、駄目にしたんだ)
前世での僕のペニスは、勃起時でも十二、三センチしかなかった。仮性包茎で、早漏だった。その事実が、いつも僕の自信を奪っていた。そして大学二年の冬、彼女――明石淳子が去っていった、あの冷たい瞳の記憶が、まるで昨日のことのように脳裏に甦る。彼女の黒目がちな大きな瞳は、最後まで僕を見てはくれなかった。小柄で、形の良いお尻が印象的だった彼女は、最後に、ただひと言、「ごめんね」とだけ言い残して、僕の世界から消えたのだ。
胸の奥が、ギリギリと音を立てて締め付けられる。だが、その痛みが、今の僕にとっては何よりもの原動力だった。今度こそ、負けるわけにはいかない。
僕はすぐさま机に向かい、無地のノートを開いた。そして、五十二年分の記憶のすべてを、夢中で書き殴った。皐月賞の勝ち馬「サクラオー」。ブラックマンデーの日付と、バブル崩壊前の株価のピーク。未来の歴史の、金脈の地図だ。だが、何よりも最初のページに、僕は大きくこう書いた。
「ペニスを鍛えろ。最強の亀頭を作り上げろ」
その日から、僕の新しい人生が始まった。午後の陽射しが部屋に差し込む中、僕はまず、薬局で買ってきた亜鉛のサプリメントの瓶を握りしめた。そして、何よりも重要だと知っていた第一歩を踏み出す。自らの指で、包皮をゆっくりと、根本のほうへと押し下げていくのだ。今まで陽の光にも触れたことのなかった、薄紅色の亀頭が、ゆっくりとその姿を現し始める。触れただけでピリッと走る、微弱な痛みと、異物感。それはしかし、生まれ変わるための、産道の痛みのようにも思えた。
「このまま、この皮は剥きっぱなしにするんだ……常に露出させて、下着に擦れさせて鍛える。鈍感なくらいで、ちょうどいい」
僕は自分に言い聞かせる。露出した亀頭の先端を、そっと指でなぞる。前世では考えられなかった、直接的な刺激に、背筋がゾクッと震えた。まだ未成熟なその感触は、触れるたびに未知の性感の扉を、かすかに叩くような危うさを孕んでいる。この敏感な先端部が、やがてずっしりとした重量感を伴って、彼女の中を満たす日を想像すると、それだけで身体の芯が、熱く疼くのを感じた。
それから僕は、毎日の日課にスクワットを加えた。大腿四頭筋が張り裂けそうなほど、限界まで自重をかけ、必死に汗を流した。筋肉を追い込むことで、体内の男性ホルモンが活性化し、ペニスの成長を促すことを知っていたからだ。オナニーの習慣も、すべて変えなければならなかった。前世で僕が行っていた、射精を我慢しては会陰を押さえ込む、あの倒錯的な処理の仕方は、ペニスの成長を阻害する悪癖だと確信していたからだ。
夜、風呂場で、石鹸の泡をたっぷりと股間に馴染ませる。剥き出しにされた亀頭は、もう空気に触れているだけでも、かすかにヒリつくような感覚が残っている。僕は、その根元をそっと握りしめた。そして、昔とはまったく違うやり方で、ゆっくりと、血管の一本一本を意識しながら、手を動かし始める。これは処理のための行為ではない。訓練であり、自らの手で造り変えていく、神聖な儀式のようなものだった。
窓の外はすっかり暗くなり、春の夜の、まだ冷たい空気が部屋を満たしている。僕は、ノートに書き込んだ銘柄を思い浮かべる。競馬、そして株。知識さえあれば、この時代では、金は簡単に増やせる。問題は、金ではない。彼女の心だ。
風呂から上がり、パジャマも着けずに立ったまま、鏡の中の自分をもう一度見つめる。鍛え始めたばかりの細い身体と、その中心で、常時露出され、微かに充血した亀頭。まだ小さく、頼りない。
だが、これが始まりだ。
僕は冷たい空気の中で、自分のその、まだ未熟な分身をそっと掌で包み込んだ。手のひらに伝わるのは、若い生命の、かすかな熱だ。僕はこの熱を、今度こそ、決して冷ましてはならない。彼女の、明石淳子という、黒目がちの美しい女のすべてを溶かし尽くすための、灼熱の臓器に育て上げなければならないのだ。
僕は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。ついさっきまで嗅いでいた石鹸の匂いの奥に、今夜もまた、あの早春の、青く尖った新緑の予感が、かすかに潜んでいる。それはまるで、まだ見ぬ未来の、彼女の唾液の味を、暗示しているかのようだった。
第2章 高校入学、教室で君の横顔を見つめて心が号泣した

第2章: 高校入学、教室で君の横顔を見つめて心が号泣した
高校受験など、僕にとっては呼吸をするよりも容易い作業だった。五十二年分の記憶と知識が、十五歳の若々しい脳髄の中でくっきりと像を結んでいる。試験問題を一目見れば、解答が向こうから飛び込んでくるような錯覚さえ覚えた。数学の証明問題も、英語の長文読解も、国語の記述式も——すべてが、かつて解いたことのあるパズルをなぞるだけの行為に過ぎなかったのだ。
合格発表の日、掲示板に張り出された受験番号の中に自分の番号を見つけた時、僕は特に感動もせず、ただ淡々と「計画通り」と心の中で呟いていた。隣で泣きながら喜んでいる同い年の受験生たちが、ひどく遠い存在に思えた。彼らには悪いが、僕はすでに人生の答え合わせを終えている。これから起こることの大半を知っている。競馬の勝ち馬も、株価の推移も、そして——明石淳子という一人の少女の心の動きも。
四月、桜が散り際の花びらを校門のあたりに敷き詰める中、僕は真新しい制服に身を包んで入学式に臨んだ。体育館に整列した新入生たちの中で、僕の名前が最初に呼ばれる。首席入学。壇上に上がり、校長先生から祝辞をいただく間も、僕の視線はただ一点——前列から三列目、左から四人目の席に座る華奢な後ろ姿に釘付けになっていた。
長い黒髪を後ろで一つに束ね、小さなリボンで結んでいる。セーラー服の襟元から覗くうなじが、四月の淡い光を受けてほのかに白く透き通っている。
(……淳子)
心の中で、その名を呼んだ瞬間、僕の胸の奥で何かが崩れた。いや、崩れたのは涙腺かもしれない。実際の目からは一滴も零れなかったが、僕の内面は激しく号泣していた。五十二年間、くすぶり続けていた後悔と未練が、十五歳の肉体の中で濁流となって溢れ出そうとしていた。
彼女——明石淳子は、僕の視線に気づくはずもなく、ただ真っ直ぐに壇上を見つめていた。大きな黒目がちの瞳が、きらきらと照明を反射している。あの瞳に、僕は前世、どれほど焦がれたことか。そして、あの瞳が最後に僕に向けた冷たい視線を、僕は生涯忘れることができなかった。
入学式のあと、教室に移動してからのホームルームで、担任が点呼を取る。
「明石淳子さん」
「はい」
彼女の声は、記憶よりも少しだけ高いように感じた。いや、五十二歳の耳で聞いていた前世の記憶と、十五歳の今の聴覚とでは、そもそも感じ方が違うのかもしれない。振り向いた彼女の横顔が、差し込む窓の光を浴びて浮かび上がる。小柄で、どちらかと言えば痩せ型。でも、セーラー服のスカートが程よく張るお尻のラインは前世と変わらず、ツンと上向きに小さくまとまっていて——。
僕は慌てて視線を窓の外に逃がした。こんなところで、じろじろと彼女の臀部ばかり見つめるわけにはいかない。まだ何も始まっていない。ここでの僕は、ついさっきまで別の女子に片思いをしていた、ただの気の弱い男子高校生なのだから。
吹奏楽部への入部は、前世と同じ流れで決まった。廊下でばったり出会った上川久美が、明るい声で僕を呼び止めたのだ。
「香坂くん! 久しぶり。高校でも吹奏楽部に入らない?」
上川久美は、同じ中学出身の女子で、僕が以前——つまり中学時代に——密かに思いを寄せていた相手だった。セミロングの茶色い髪が彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。優しげな茶色の瞳が、期待を込めて僕を見上げていた。
「……考えておくよ」
僕はそう答えた。口調はあくまで冷静に、しかし内心では別の計算が働いていた。吹奏楽部に入れば明石淳子と同じ部活になる。それは前世でもそうだった。ただし、僕が彼女を意識し始めるのは、入部してからしばらく経ってからのこと——この時点では、まだ上川久美への淡い恋心を引きずっている、というのが前世のシナリオだ。
だから僕は、そのシナリオをなぞる。部活は週に四日。楽器はホルンを選んだ。楽譜の読み方も指遣いも、前世で染み付いた身体の記憶が蘇ってきて、先輩たちが驚くほど上達が早かった。
そして、同じ教室で、吹奏楽部でも同じフロアで練習する明石淳子のことを、僕は毎日観察し続けた。
彼女はクラリネットを担当していた。楽器を組み立てる指先は細く、リードを湿らせるために唇をほんの少し窄める仕草が、妙に艶めかしく感じられた。練習中、真剣な表情で指揮者を見つめる彼女の横顔には、高校一年生とは思えない静かな意志が宿っている。黒目がちの大きな瞳が、わずかに細められ、まつげが影を落とす。
(ああ、やっぱり綺麗だな……)
心の中で呟く僕のペニスは、練習後の着替えの時間になると、しばしば硬くなってズボンを押し上げた。亜鉛のサプリメントを欠かさず、毎晩のスクワットと常時皮むきを続けてきた結果、僕の逸物はすでに常軌を逸した大きさになりつつあった。まだ誰にも見せたことも触れさせたこともない、この熱くて重い亀頭の塊を、淳子の膣に——いや、まだ焦ってはいけない。
放課後、吹奏楽部の練習が終わると、淳子はたいてい誰かと連れ立って校門を出て行った。時には天文部の掛け持ちのため、別の校舎へ向かうこともある。僕は知っている。彼女がこのあと天文部の先輩と親密になることを。おそらく、ファーストキスも、そして——初めての性体験も、僕ではない誰かに奪われることを。
それでいい。いや、それが必要なのだと、僕は自分に言い聞かせていた。彼女に一度、他の男の拙いセックスを経験させておくこと。そうすれば、僕が与える快楽の圧倒的な違いを、彼女の身体が本能で理解するはずだから。
一学期が終わる頃には、クラスの中での僕の立場はほぼ固まっていた。首席入学という肩書き、授業での的確な発言、そして何より——この歳になって初めて自覚したのだが——適度に引き締まった身体つきと落ち着いた物腰が、同級生の女子たちから好意的な視線を集めていたのだ。
「香坂くんって、なんか大人っぽいよね」
休み時間に、そんな囁き声が聞こえてきたこともある。無理もない。中身は五十二歳なのだから、十五歳の少女たちから見れば、そりゃあ「大人っぽい」を通り越して「落ち着きすぎ」の領域だろう。
でも、僕の狙いはただ一人——明石淳子だけだ。
ある日の放課後、図書室で借りた本を返そうと廊下を歩いていると、向こうから淳子が歩いてくるのが見えた。彼女は一人で、手には天体観測のガイドブックらしきものを抱えている。おそらく天文部の活動で使うのだろう。
すれ違う瞬間、僕はほんの少しだけ会釈をした。
「……明石さんも、図書室?」
声をかけるかどうか、ほんの一瞬迷った末に、僕は自然を装って口を開いた。
彼女は一瞬息を呑み、それから小さく頷いた。大きな瞳が、僕の顔をまっすぐに見上げる。
「うん。ちょっと調べもの」
その声には、まだ僕への特別な感情は感じられない。ただのクラスメイトとしての、ごく当たり前の応答だった。でも、彼女の視線が僕の顔にほんの半秒ほど長く留まったことに、僕は気づいていた。
(……おや?)
心の中で、小さな手応えが芽生える。前世では、こんなふうに余裕を持って彼女に接することはできなかった。いつも緊張して、変に意識して、つまらないことばかり口走っていた。それが今は違う。五十二年分の人生経験が、僕に「間」の取り方を教えてくれている。
「天文部も、これから星が見やすくなる季節だね」
「……香坂くん、星に詳しいの?」
ほんの少しだけ、彼女の声のトーンが上がった気がした。
「詳しいってほどじゃないけど。夏の大三角くらいなら」
僕はあくまで控えめに答えながら、彼女の指先がガイドブックの端をきゅっと握りしめるのを、視界の隅で捉えていた。
六月の終わり、梅雨の切れ間の晴れた日に、校舎裏のベンチで弁当を広げている淳子の姿を見かけた。一人で、なにやらノートにペンを走らせている。通りかかった僕は、一瞬立ち止まり、声をかけようかどうか迷った。
どうやら気配を察したらしい。淳子が顔を上げ、僕に気づいて少しだけ微笑んだ。
「あ……香坂くん」
「邪魔しちゃ悪いから。またあとで」
僕は片手を軽く挙げて、その場を立ち去った。
これでいい。少しずつ、彼女の中に僕という存在を染み込ませていく。欲張ってはいけない。前世での失敗は、まさに「急ぎすぎた」ことにあった。今度は、彼女の方が僕を意識し始めるのを、じっくりと待つのだ。
その夜、自室の布団の中で、僕は静かにペニスを握りしめていた。週に一度と決めているオナニーの日だった。亀頭はすでに勃起し、カリ首の縁がくっきりと隆起している。包皮を剥いたまま下着に擦れさせ続けてきたせいで、表面の感覚は若干鈍くなっているが、そのぶん内側の充満感は想像を絶するほどだった。
亀頭の先端を親指でそっとなぞりながら、僕は今日一日の淳子の姿を脳裏に思い浮かべた。セーラー服の襟元から覗いた白いうなじ。弁当を食べる時にわずかに開かれた唇。そして、スカート越しでもわかる、あの小さくて引き締まったお尻のライン——。
(淳子……君はまだ、何も知らないんだな)
カリ首のすぐ下の敏感な部分を、指の腹でゆっくりと擦る。亀頭の重さが掌にずっしりとのしかかり、熱が指先に伝わってくる。この熱を、いつか彼女の膣の奥に——いや、アナルのさらに深い場所に——注ぎ込む日を想像しながら、僕は射精の瞬間をじっくりと引き延ばした。
一学期の終業式の日、夏休みの予定を尋ね合うクラスメイトたちの喧騒の中で、淳子がふと僕の方を振り返った。
「……香坂くんは、夏休み、なにか予定あるの?」
この何気ない一言が、僕には大きな一歩に感じられた。なぜなら、前世では彼女の方から声をかけてくることなど、ほとんどなかったからだ。
「とくにないけど。部活と、あとは読書かな」
僕はあくまでさりげなく答えながら、彼女の黒目がちな瞳の奥に、ほんのわずかな好奇心の光が灯ったのを見逃さなかった。
(うん。やっぱり、いい兆候だ)
僕は心の中で、静かに笑った。まだ何も始まっていない。でも、確実に変わってきている。
ふと、ズボンのポケットに手を入れると、折り畳んだメモ用紙に指が触れた。そこには、来年の皐月賞の勝ち馬——サクラオーの名前と、その単勝倍率が書いてある。まだ先の話だが、この情報を使って僕は十六万円を二百万円以上に増やし、そしてその金を元手に株でさらに資産を膨らませるのだ。
競馬新聞のインクの匂いが、まだ手に染み付いていないこの時期から、僕はすでにその先の一手を打ち始めている。
夏が過ぎ、秋が来て、冬が巡り——そして来年の春、僕はかつてと同じように、彼女から映画のチケットを一枚だけ受け取ることになるだろう。その瞬間から、すべてが大きく動き出す。
でも、まだ焦らない。焦ってはいけないのだ。今はただ、彼女の横顔を静かに見つめながら、心の中で号泣するだけで十分だった。この涙がいつか、彼女の身体を貫く快楽の奔流に変わる日まで——僕はもう少しだけ、待つことができる。
第3章 「明石さんも一緒に」──映画のチケットからすべてが動き出す

第3章: 「明石さんも一緒に」──映画のチケットからすべてが動き出す
二月中旬、一年間の授業も残りわずかとなった放課後のことだった。
教室には冷え切った空気がまだ漂っていて、窓の外の部活へ急ぐ生徒たちの足音だけがやけに遠く聞こえる。
僕は机の上に広げたままの現代国語のノートを閉じ、帰り支度を始めようとしていた。その時、右肩のすぐ横から、凛とした声が降ってきた。
「香坂くん……」
ふり返ると、明石さんが少しだけうつむき加減で立っている。彼女の大きな瞳はまっすぐに僕を見ようとして、けれど途中で何かに阻まれたように逸らされ、結局その視線は僕の胸元あたりに落ち着いた。
白く細い指が、一枚の紙片を両手で包み込むように握りしめている。
今にも折れ曲がりそうなその紙片は、僕が記憶にあるものと同じ映画のチケットだった。
「あの……これ。誕生日のプレゼント、まだ渡してなかったから」
彼女はそう言って、まるで生まれたての小鳥を差し出すみたいに、そっとチケットを机の上に置いた。
その瞬間、僕の指先にまで彼女の緊張が伝わってくるようで、胸の奥で何かがきゅっと縮こまる。
「ありがとう、明石さん。……でも、これ一枚だけ?」
僕は前世の記憶の通り、わざと少しだけ首をかしげてみせる。
僕の問いかけに、彼女は一瞬だけ目を大きく見開き、それから慌てて言い繕うように言葉を継いだ。
「そう……なんです。先に予約しちゃって、その、もし迷惑じゃなければ、一緒に……」
最後の方は消え入りそうな声だった。言葉が空気に溶けてしまう前に、僕はすかさず応える。
「明石さんも一緒に観に行こうよ。そちらのチケットは僕が買うから」
僕の声は驚くほど落ち着いていて、自分でも少し怖くなるくらいだった。前世では、この「ネバーエンディング・ストーリー」のチケットを渡された時、心臓が飛び出しそうなほど舞い上がり、彼女に合わせるのに精一杯だった。
だが今は違う。いつか来るこの瞬間を、何度も何度も頭の中でシミュレートしてきた。だから、僕の返事には淀みも迷いもなかった。
彼女はぱっと顔を上げる。その拍子に、長い黒髪の束がさらりと肩からこぼれ落ちた。
「本当に? いいの?」
「もちろん。せっかくだし、三月の最初の日曜日なんてどうかな。部活も休みだし」
彼女はこくんと頷いた。その白いうなじに、窓から差し込む冬の陽が微かに反射して、眩しかった。
三月第一日曜日。街に出るにはまだ少し肌寒く、息が白く染まる朝だった。
駅前のロータリーで待ち合わせると、約束の五分前に彼女はもう来ていた。
白いコートの襟元に淡い桜色のストールを巻き、手には小さなハンドバッグを提げている。制服とはまるで違うその姿は、同じ高校生とは思えないほど大人びていて、胸の鼓動がひとつ、ふたつと跳ねるのを感じた。
「明石さん、おはよう。早いね」
「香坂くんこそ。……あの、映画、楽しみにしてたから」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ口元をほころばせる。緊張しているのは僕も同じだったが、それを顔に出すわけにはいかない。
なぜなら僕は、前世の映画デートで何度も沈黙が続いて気まずい思いをした経験を、骨の髄まで覚えているからだ。だから今日は、会話の糸が切れないように、常に彼女の表情や視線の先を探りながら歩いた。
映画館の薄暗いロビーに入ると、甘いポップコーンの香りが鼻をくすぐる。
大きなポスターには、ファルコンに乗ったアトレーユの勇ましい姿が描かれていた。
彼女はそのポスターをじっと見上げ、僕に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「この映画、ずっと観たかったんだ」
上映開始のブザーが鳴り、館内が完全に暗転する。
スクリーンに最初の映像が映し出されると、彼女は隣の席で背筋を伸ばし、食い入るように画面を見つめ始めた。
その横顔を、僕は映画そっちのけで盗み見る。
黒目がちの大きな瞳に光が反射して、まるで宝石のようだった。唇は無意識に結ばれ、瞬きひとつでさえも惜しむように、彼女は「ネバーエンディング・ストーリー」の世界に呑み込まれている。
僕は、彼女のそんな無垢な熱中ぶりが、どうしようもなく好きだった。
終盤、幼ごころの君がファンタージエンを再建するシーンで、彼女の呼吸が小さく乱れるのを感じた。
スクリーンの中では、少年の願いの力で闇が消え、無数の星が輝き出す。
彼女のまつ毛が、ほんの少しだけ濡れている。それを見た瞬間、僕の胸の奥で、前世の記憶がささくれ立つように疼いた。この映画のデートで、前世の僕は彼女の涙に気づきもせず、「すごい映画だったね」と月並みな感想を言っただけだった。
だが、今度は違う。
映画が終わり、館内が明るくなった時、彼女は慌てて目元を拭った。
僕は何も言わず、ただ彼女が完全に落ち着くのを待った。そして、彼女が立ち上がろうとした瞬間、僕は自分のハンカチを差し出す。
「大丈夫? 名作だったね」
彼女は一瞬驚いた顔をした後、今にも泣き出しそうな顔で微笑み、僕のハンカチを受け取った。
「……うん。夢みたいだった」
映画館を出ると、日はまだ高く、街は日曜日の賑わいを見せ始めていた。
僕たちは駅にほど近い小さなカフェに入る。
ウッディな内装で、BGMには当時流行りのユーミンが静かに流れていた。
彼女はホットココア、僕はブレンドコーヒーを注文し、湯気の立ち上るカップを挟んで向かい合う。
「ファルコン、格好良かったね」
「うん。でも僕は、岩を食べる大男が妙に気に入ったよ」
僕がそう言うと、彼女は想像したのか、声を出して笑った。その笑い声はカフェの柔らかなざわめきに溶けて、とても温かかった。
「香坂くんって、意外と変なところを見てるんだね」
「そうかな。自分では普通のつもりなんだけど」
コーヒーを一口含む。苦味が舌の上でじんわりと広がり、ミルで挽いた豆の香ばしい香りが鼻腔を抜けた。
会話が途切れるたび、彼女はカップを両手で包み込むようにして持ち、何かを考えるように俯いた。その仕草に、僕は前世の記憶とはまるで違う手応えを感じていた。
前世の彼女は、このデートの間、どこか上の空だった。まるで、僕との時間よりも、もっと先の何かを見ているかのように。だが今、僕の目の前にいる淳子の瞳には、はっきりと僕だけが映っている。
「あの……香坂くんは、どうして吹奏楽部に入ったの? 前に、バレー部だったって聞いたけど……」
彼女が不意に、そんな質問をしてきた。告白のような、核心に触れるような問いかけだった。
「上川さんに誘われたから、っていうのが最初の理由かな。でも、今は吹奏楽部に入って本当に良かったと思ってる」
僕は言葉を切り、カップを机の上に置いた。陶器が触れ合う小さな音が、静かに響く。
「入らなかったら、明石さんとこんな風に話すこともなかったかもしれないからね」
そう言うと、彼女ははっとして、みるみるうちに頬を染めた。湯気の向こうで、彼女の白い肌がぽっと火照り、大きな黒目がちの瞳が恥ずかしそうに潤む。
彼女は返事を探すように、何度か唇を開きかけては閉じた。
やがて、ココアのカップで口元を隠すようにしながら、小さな声で呟く。
「……わたしも、同じ気持ちだよ」
その日の別れ際、駅の改札口で彼女は僕の目をじっと見つめた。
「今日は本当にありがとう。映画も、カフェも、すごく楽しかった」
彼女のストールが、春を待つ風にふわりと揺れる。僕は、彼女のその言葉が社交辞令ではないと確信していた。
「うん、また学校でね。……春休みも、もし良かったら」
僕がそう言うと、彼女は大きく頷いた。
その瞬間、僕たちの間の空気は決定的に変わった。それは、クラスメイトから一歩踏み出した、恋人同士の始まりのような、甘くて曖昧な予感。
その帰り道、僕は駅のホームへと続く階段を上りながら、右手の平をじっと見つめた。
映画のエンドロールで、スクリーンの明かりが消えかけた一瞬の暗闇。彼女の左手の小指が、そっと僕の右手の小指に触れた。
それはほんの一瞬の、偶然とも取れる接触だった。けれど、彼女は指を引っ込めなかった。むしろ、そこに留まることを許したのだ。
前世の僕には決して気づけなかったサインが、今の僕にはあまりにもはっきりと感じ取れた。
春休みに入り、僕たちはさらに幾度か会う約束を取り付けた。
一度目は市内の大きな図書館で、それぞれ好きな本を読むだけの静かな午後。
二度目は河川敷をただ歩き、まだ芽吹かない桜並木の下で、他愛のない話をした。
その間、僕は彼女の一挙手一投足を観察し続けていた。彼女が天文部の先輩と過ごしているであろう時間には、あえて目をつぶった。前世の記憶をなぞるのならば、今の僕はまだ、彼女とその先輩の関係に介入する段階ではない。
そして、三度目の待ち合わせ。その日、彼女は白いワンピースを着て、少しだけ躊躇うように、しかし確かに、自分の意思で僕の左手に右手を絡めてきた。
彼女の手は、春のそよ風に触れた花びらみたいに、ほんの少しだけ震えていた。
「……こうしてみたかったの」
彼女が言った。
指と指を絡めると、僕の手のひらの中に、彼女の体温がじんわりと広がっていく。ツンとした小さなお尻を包むワンピースの布地が、彼女が一歩歩くたびにふわりと揺れた。
僕はその手を握り返しながら、前世の彼女の冷たい別れの言葉を思い出す。だが、今となってはそれも、僕をもっと強くするための古い記憶に過ぎなかった。
やがて訪れるであろう、初夏の公園でのファーストキス。その時、僕は彼女を完全に自分の世界に引き込む。
胸の中で、そんな確信が静かに、しかし強く脈打っていた。
第4章 初夏の公園、新緑の匂いと彼女の唾液の味

あの映画デートから、僕と淳子の間には少しずつ、しかし確かな変化が起きていた。学校では相変わらず「香坂くん」「明石さん」と呼び合う、ただのクラスメイトで部活仲間。だけど、誰も見ていない廊下の隅で、彼女の指がほんの一瞬、僕の手の甲に触れる。その感触が、まるで熱を帯びた羽根のように皮膚に残るのを感じながら、僕は彼女が何を期待しているのか、もう知っていた。
吹奏楽部の練習が終わった放課後、楽器を片付けながら、淳子がふと言った。
「……香坂くんって、日曜日、朝早く起きられるほう?」
彼女はクラリネットのケースの留め金をぱちんと閉めながら、僕の顔を見ないで尋ねた。黒い髪の一房が耳の後ろに落ちていて、項の産毛が廊下から差す夕日に透けてほのかに光って見えた。
僕はホルンのマウスピースを布で拭きながら、平静を装って答えた。
「もともと早起きのほうだよ。それに、最近は朝のジョギングも日課にしてるし」
淳子は少しだけ顔を上げ、僕の目をちらりと見ると、何かを決心したように、口を開いた。
「来週の日曜日、課外授業の前に、ちょっと……公園に寄ってから行かない? あの、池のある公園」
そこは高校のすぐ近くにある、小さな公園だった。前世で、僕たちが初めてキスをした、初夏の早朝の公園。
僕は心臓がひとつ、大きく跳ねるのを感じた。来たのだ。この瞬間が。前世と同じ流れ、同じ場所で、彼女は再び僕を選ぼうとしている。だが、今度の僕はあのときの僕ではない。
「いいよ。何時に待ち合わせようか」
僕は努めて落ち着いた声でそう答え、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。
――日曜日、午前六時半。まだ街が眠りから覚めきらない時刻に、僕はその公園の入り口に立っていた。空は青みを帯びた白で、木々の葉は昨夜の雨に濡れて、しっとりと重たそうに垂れている。空気はまだひんやりとしていたが、日の差す場所だけは初夏の気配を感じさせた。僕は深く息を吸い込んだ。あの頃と同じ新緑のにおい。切り取られた枝葉の青い血のにおいと、濡れた土のむせかえるような芳香。だけど、あの頃よりはるかに濃く、はっきりと感じ取れた。五十二歳の記憶を持つ僕の鼻腔は、十六歳の頃よりずっと敏感になっているのかもしれない。
淳子は約束の五分前に現れた。白いブラウスに淡い水色のプリーツスカート。いつものセーラー服ではなく、休日の私服だった。そのことだけで、今日が特別な日なのだと、彼女の方から告げているように思えた。
「おはよう、香坂くん。……早いんだね」
「明石さんこそ。まだ誰もいないよ」
並んで歩き出す。公園の入り口から、池へと続く遊歩道。楓や欅の若葉が頭上で風に揺れ、光の斑点がふたりの足元でちらちらと踊っている。彼女のスカートの裾が歩くたびにふわりと揺れて、露わになる脹脛の線が、白くなめらかで、僕は一瞬息を詰めた。
池のほとりの、ひときわ大きな欅の木の下に来たとき、淳子が立ち止まった。水面を渡る風が、彼女の髪をそっと持ち上げる。彼女は両手でスカートの前を押さえながら、僕を見上げた。黒目がちな大きな瞳の奥に、期待と、ほんの少しの怯えが揺れている。
「……あのね、香坂くん」
風が一際強く吹いて、欅の葉がざわざわと鳴った。彼女の声はその葉音に半ばかき消されそうになりながら、それでも確かに、僕の耳に届いた。
「わたし、香坂くんに、話したいことがあって……」
ここだ。僕は心の中で呟いた。前世ではここで、僕は何もできずに、ただ彼女の言葉を待った。そしてぎこちなく、唇だけを触れ合わせた。だが今度は違う。
僕は何も言わずに、右手をそっと彼女の頬に添えた。淳子の身体が、小さくびくんと震える。その震えが手のひらを通して伝わってきて、僕は彼女の命の熱さを感じた。
「……香坂、くん……」
淳子の声がかすれた。彼女の唇が、言葉を探してわなないている。そのかたちの良い唇に、僕はゆっくりと顔を近づけた。
最初はただそっと触れるだけだった。彼女の唇は驚くほど柔らかく、わずかに湿っていた。朝の空気に冷やされた皮膚とは対照的に、内側からほんのりと熱を帯びている。僕は目を閉じた。新緑の香りが風に乗ってふたりを包み込んだ。
彼女の吐息が、鼻の先にかかる。生温かくて、ほんの少し甘いような匂いがした。唾液のヌメリが、口元でかすかに触れ合う。ぬるりとした感覚が、僕の脳髄を直接くすぐるようだった。前世の拙いキスでは感じ取れなかった、微細な湿り気の感触。これが、彼女の内側の味なのだ。
淳子の唇が、ほんのわずかに開いた。僕はその隙間を逃さず、舌の先をそっと差し入れた。
「……んっ」
彼女の喉の奥で、小鳥のさえずりのような短い声が鳴った。歯列に舌が触れる。なめらかで硬いエナメル質。その奥で、彼女の舌が、怖々と僕の舌を迎え入れるように、ぴくりと動いた。ぬるぬるとした暖かい肉が、僕の舌先と触れ合う。絡めると、じゅぷりと小さな水音が、口の中でだけ聞こえた。前世で経験したどんなキスよりも、深く、扇情的だった。僕は彼女の唾液の味をじっくりと吟味するように、舌をゆっくりと動かした。ほのかな塩気と、言葉にできない甘さ。それは彼女の体液の味であり、彼女の存在そのものの味だった。
唇を離すと、細い唾液の糸がふたりの間に架かり、朝日にきらめいてからぷつりと切れた。淳子は目を閉じたまま、うっとりとした表情で僕のシャツの胸元をぎゅっと掴んでいた。長い睫毛がかすかに震え、白い頬は紅潮して、まるで熱を出したかのように火照っている。
「和也くん……」
彼女の唇から、初めて下の名前がこぼれた。前世で何度も聞いた呼び名。でも、今度はまったく違う響きで、僕の胸の奥に染み込んでくる。それは憧れと信頼と、そしてほのかな欲望の入り混じった声だった。
淳子はまだ何か言いたそうに口を開けたが、言葉にならなかった。僕はもう一度、今度はもっと強く彼女を抱き寄せた。片手を彼女の背中に回し、もう一方の手で後ろ髪をそっと支える。彼女の身体は小柄で、すっぽりと僕の腕の中に収まった。ブラウス越しに、彼女の背中の線が手のひらに浮かび上がる。かすかな筋肉の動きと、その内側で早鐘を打つ心臓の鼓動が伝わってきた。
ふたたび唇を重ねる。今度は彼女の方から、おずおずと舌を差し出してきた。さっき僕が教えたことを、すぐに覚えて実践する彼女の賢さが、いじらしくてならない。僕はその舌を受け入れ、自分の舌でくるみ、そっと吸った。口蓋をくすぐり、舌の裏側をなぞる。彼女の呼吸が荒くなる。肩が小刻みに震え、ブラウスの下で胸が上下する。キスをしながら、僕はそっと目を開けて彼女を見た。目を固く閉じて、ただ快感に身を委ねている顔。その無防備な表情は、前世ではついぞ見せてくれなかったものだった。
どのくらいそうしていただろうか。遠くで小鳥が鳴き、池の水がちゃぷんと音を立てた。ようやく唇を離すと、淳子は何かから逃れるように、僕の胸に顔をうずめた。彼女の黒い髪から、やわらかなシャンプーの匂いが立ちのぼる。
「大丈夫?」
僕が耳元で囁くと、彼女は腕の中でこくんと頷いた。その耳たぶが、熟れた葡萄の実のように赤く染まっている。
「……嬉しいの」
くぐもった声が、僕の胸に響いた。
「わたし、ずっと、こうしてみたかったの……」
その言葉は、前世では彼女が言わなかった言葉だった。僕は言い知れぬ優越感に胸を震わせながら、彼女の髪をそっと撫でた。大丈夫、今回はすべて違う。僕は彼女の知らない未来を知っていて、彼女の知らない僕自身を知っている。彼女がこれから感じるすべての快感は、僕が与えるものになるのだ。
それから、僕たちは手を繋いで公園をあとにした。学校へ向かう道すがら、ふたりとも無言だった。ただ、時折、顔を見合わせては、照れくさそうに笑う。そのたびに、彼女の唇が先ほどの感触を思い出すかのように、かすかに緩むのを、僕は見逃さなかった。繋いだ手のひらは汗ばんでいて、指の一本一本が、彼女の熱を僕に伝え続けている。その熱が、これから始まる長い戦いの、最初の勝利の火のように思えた。
第5章 競馬新聞のインクとラブホテル、そして初めての挿入

第5章: 競馬新聞のインクとラブホテル、そして初めての挿入
あの皐月賞から数ヶ月が経った十一月の土曜日、僕の指先にはまだ競馬新聞のインクの匂いが染みついているような錯覚があった。実際にはもう何度も手を洗っているし、場外馬券売り場の熱気も、単勝14.6倍を確認した時の心臓の高鳴りも、とっくに過去のものだ。だけど十六万円が二百三十万円以上に膨れ上がったあの瞬間の、紙の上で踊る数字の残像と、インクの苦いような甘いような刺激臭だけは、皮膚の下に棲みついて離れなかった。
部活の朝練が終わったあと、僕は淳子に「午後、ちょっと出かけないか」と声をかけた。彼女はクラリネットをケースにしまいながら、大きな黒目をぱちぱちと瞬かせて、それから小さくうなずいた。セーラー服の襟元から覗く鎖骨のあたりが、ほんのり紅潮しているのがわかった。彼女とて、何も察していないわけではないのだろう。ファーストキスから数ヶ月、キスを重ねるたびに彼女の舌は積極的に僕の口の中を探るようになっていたし、ブラウスの上からそっと背中をなぞるだけで、彼女の吐息は甘く湿り気を帯びるようになっていた。
街の中心部から少し外れた場所にあるそのホテルは、外観だけならビジネスホテルと見分けがつかないくらいに落ち着いていた。むしろ派手なラブホテルより、こういう場所のほうが淳子にはいい。彼女の羞恥心を一気に煽るのではなく、少しずつ、丁寧に、溶かしていくために。
フロントでボタンを押し、壁に並んだ写真パネルから部屋を選ぶ。空室のランプが点っている中から、落ち着いた色調の洋室を選んだ。無人のカウンター越しに鍵が差し出され、僕はそれを取って淳子の手を引いた。彼女は俯いたまま、されるがままにエレベーターへと歩いたけれど、繋いだ指先がかすかに震えているのを、僕は感じ取っていた。
「緊張してる?」
エレベーターの中で、僕が囁くように訊ねると、淳子は顔を上げずにかぶりを振った。けれど、次の瞬間には、自分でもその嘘に気づいたように、こくんと小さくうなずいた。彼女らしい不器用な正直さだった。
「怖くはないよ」
そう言って僕は、彼女の指をぎゅっと握り返した。淳子の手のひらはしっとりと汗ばんでいて、それがかえって、彼女のなかの期待と不安がせめぎ合っている様子を生々しく伝えてきた。
部屋に入ると、まず窓際のカーテンを閉めた。昼下がりの陽射しが遮断され、室内はほの暗い琥珀色の照明に包まれる。壁際に置かれたダブルベッドのシーツは真っ白で、その清潔さがかえって、これから起きることを神聖な儀式のように思わせた。淳子は扉のそばで立ち尽くしていて、制服のスカートをぎゅっと両手で握りしめている。黒いハイソックスとスカートの裾のあいだに見える膝頭が、かすかに内側に向いて震えていた。
「こっちにおいで」
僕がベッドに腰掛けて手を差し伸べると、淳子はまるで水の中を歩くみたいにゆっくりと近づいてきて、僕の隣に腰を下ろした。スプリングがきしむ音が、やけに大きく響いた。
僕はまず、彼女の頬に手を当てた。ひんやりとした感触のあとに、じんわりと熱が伝わってくる。前世では、この瞬間さえも拙かった。どこをどう触ればいいのか、彼女が何を望んでいるのか、何ひとつわからずに、ただ本能のままに身体を重ねただけだった。だから彼女は、あんなに冷たい目で僕を見たのかもしれない。でも今回は違う。五十二年分の経験が、僕の指先に宿っている。
「淳」
名前を呼んで、そっと唇を重ねた。角度は浅く、まるで小鳥の嘴が触れ合うみたいに。彼女の唇は乾いていて、少しだけ荒れていた。緊張で舐めるのを忘れているのだろう。僕は自分の舌で、そっと彼女の下唇を濡らした。淳子の肩がびくっと跳ねる。
「んっ……」
小さな声が漏れて、彼女の口がわずかに開く。その隙間に舌を差し入れると、淳子の舌は驚いたように縮こまったけれど、すぐにおずおずと絡み返してきた。唾液が混ざり合い、ぬるりとした温かさが口の中に広がる。僕は彼女の肩を抱き寄せながら、ゆっくりとキスを深めていった。淳子の鼻にかかった吐息が、僕の頬をくすぐる。セーラー服の胸元から、ほんのりと汗ばんだ肌の匂いが立ちのぼった。それは新緑の匂いでも、花の匂いでもない、ただただ淳子という一個の生きた女の匂いだった。
唇を離すと、淳子の目はとろんと潤んでいた。黒目がちな大きな瞳は焦点が合わず、白い頬にはほのかに朱が差している。
「和也くん……」
彼女の声は掠れていて、そのかすかな響きが僕の中の何かを激しく揺さぶった。牡の情動と呼ぶには少しだけ切なくて、独占欲と呼ぶにはあまりにも甘やかな衝動。僕は彼女のセーラー服のリボンに手をかけた。
「脱がせるよ」
淳子は何も答えず、ただぎゅっと目を閉じた。それが同意のしるしだと受け取って、僕はゆっくりとリボンをほどき、ボタンを外していく。ひとつ、またひとつとブラウスが開かれていくたびに、彼女の白い肌が少しずつ露わになっていった。鎖骨のあいだのくぼみ、かすかに浮き出た胸骨、そしてレースのついた白いブラジャー。淳子は両手を膝の上に置いたまま、されるがままに身を任せていたが、その指先はスカートの布地をぎゅうっと握りしめている。
ブラウスを脱がせ終えると、今度はスカートに手をかけた。ホックを外し、ファスナーを下ろす。ジーッという音がやけに大きく響いて、淳子の身体がまたびくっと跳ねた。スカートが滑り落ちると、ブラジャーとお揃いの白い下着が姿を見せる。小柄な彼女の腰骨のラインは華奢で、その下に続く太腿はほっそりとしているのに、臀だけはきゅっと引き締まって小さく盛り上がっていた。
「綺麗だよ」
僕がそう言うと、淳子はぎゅっと目をつぶったまま、かすかに首を振った。
「見ないで……恥ずかしい……」
「見るよ。淳の全部を、ちゃんと見たい」
僕は立ち上がって自分の服も脱ぎ始めた。ブレザーを脱ぎ捨て、シャツのボタンを外し、ズボンを下ろす。淳子は最初こそ目をぎゅっとつぶっていたけれど、衣擦れの音につられるように、そっと瞼を開いた。そして僕がトランクスに手をかけた瞬間、彼女ははっと息を呑んだ。
トランクスを下ろすと、なかから僕のペニスがのそりと姿を現した。まだ完全には勃起していないのに、その存在感はすでに圧倒的だった。中学二年からの鍛錬の賜物だ。常時皮を剥いて亀頭を下着に擦らせ続けた結果、亀頭はつやつやと黒ずみ、重量感のあるカリがはっきりと形を主張している。ズボンのなかでは窮屈そうに折り畳まれていた竿も、解放されるや否や、むくむくと頭をもたげ始めた。淳子の視線が僕の股間に釘付けになっているのがわかった。
「おっきい……」
彼女の唇が、ほとんど無意識にそう動いた。声にはならなかったけれど、そのかたちははっきりと読み取れた。僕は何も言わず、ただ彼女の前に立っていた。見せつけるためではない。彼女に、これから自分が受け入れるものをしっかりと認識してほしかったのだ。天文部の先輩と、あるいは今後出会うかもしれない他の誰かと、僕とでは根本的に違うのだということを、彼女の身体に刻み込むために。
淳子の下着にも手をかけた。ブラジャーのホックを外すと、ふわりと解放された乳房がこぼれ出る。ささやかな膨らみの頂点には、ほんのりと桜色に染まった蕾がふたつ。僕が指の腹でそっとそれをなぞると、蕾はあっという間にぷっくりと硬くなった。
「んっ……はぁっ……」
彼女の口から熱い吐息が漏れる。僕は彼女の身体をそっとベッドに横たえ、最後の一枚になった白い下着に手をかけた。ぐっしょりと湿っているのが、触れる前からわかる。布地越しにもはっきりと伝わる熱と湿り気。僕が慎重に下着をずり下ろすと、彼女の秘部からはすでに透明な糸が一筋、シーツに向かって垂れていた。
露わになったばかりの秘部は、薄い陰毛におおわれて、その奥の襞はほんのりと紅く充血している。恥ずかしさのあまり、淳子は両手で顔を覆っていたが、その手のあいだから覗く目は、僕の一挙手一投足を追っていた。
「風呂、入ろうか」
僕が言うと、彼女はこくんとうなずいた。
バスルームに二人で入り、シャワーを浴びる。狭い浴槽のなかで向かい合うと、淳子は終始うつむいていたけれど、時折息を呑むようにして、僕の股間を盗み見ていた。湯気のなかで、互いの裸身がしっとりと濡れていく。僕はボディソープを泡立てて、彼女の背中を洗ってやった。肩甲骨の窪み、背骨のライン、そして腰のカーブにそって手を滑らせると、淳子は気持ちよさそうに目を細めた。そのまま脇腹から前に手を回し、そっと乳房を包み込む。泡のぬめりに包まれた柔らかな肉の感触。指のあいだから、硬くなった乳首がこりこりと擦れる。
「あっ……ぁ……」
彼女の口から嬌声が漏れ始める。僕は泡を洗い流すと、今度は湯をかけながら、彼女の全身に口づけた。首筋、鎖骨、乳房のふくらみ、そして臍のまわりを舌でなぞる。淳子はくすぐったそうに身をよじったが、やがて僕の髪に指を絡めて、そっと引き寄せた。
「ベッド……行こ?」
彼女の方からそう言った。その声はまだ震えていたけれど、さっきまでの緊張とは違う種類の震えだった。
浴室を出て、バスタオルで互いの身体を拭き合う。淳子は丹念に、そしてどこか恭しく僕の全身を拭ってくれた。彼女の指がうっかり僕のペニスに触れた瞬間、びくっと手を引っ込めたけれど、すぐに恐る恐るもう一度触れて、丁寧に拭いてくれた。その真面目な仕草がいじらしくて、思わず笑みがこぼれた。
ベッドに戻り、僕は淳子の全身に愛撫を施した。もう先ほどまでの緊張は彼女から消えていた。キスの雨を降らせながら、右手はゆっくりと彼女の秘部へと這わせる。指の腹で陰毛をかき分け、襞のあいだにそっと触れると、そこはもうヌラヌラとした蜜であふれかえっていた。指を奥へと進めると、熱くうごめく肉襞が指に絡みついてくる。
「ひゃっ……あっ……」
淳子の腰が浮き上がり、シーツにぎゅっと皺が寄る。僕は慎重に、彼女の膣内をほぐすように指を動かした。一本目の指が奥まで入り込み、二本目を加える。彼女のなかは驚くほど狭くて、そして驚くほど熱かった。前世では、こんなふうに彼女を濡らすことさえできなかった。ただ自分の欲望だけをぶつけて、彼女の痛みにさえ気づかなかったのだ。
そのことを思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。それは後悔とも罪悪感ともつかない、もっと深い場所から湧き上がる感情だった。前の人生で、淳子はどれだけ我慢をしていたのだろう。どれだけ僕の拙さに耐えていたのだろう。あの冬の冷たい目は、きっと彼女なりの精一杯のサインだったのかもしれない。
でも、今回は違う。
「淳、もういい?」
僕が尋ねると、彼女は涙で濡れたまつげを震わせながら、こくんとうなずいた。その目は、ありったけの信頼と期待と、そしてほんの少しの不安で揺れていた。
僕は、コンドームをつけたペニスを彼女の膣口にあてがった。濡れそぼった襞のあいだに、亀頭の先端がめり込む。彼女の全身が緊張で硬くなる。僕は彼女の目をじっと見つめながら、腰をゆっくりと前に進めた。
「あっ……! うっ……!」
淳子の顔が苦痛に歪み、背中に回された両手の爪が、僕の肩甲骨のあたりに食い込んだ。彼女の膣はぎゅうぎゅうと締まり、僕の亀頭を拒むかのように抵抗する。それでも、ほぐされた襞は少しずつ、ゆるゆるとペニスを受け入れ始めていた。亀頭のもっとも太い部分が膣口を通過した瞬間、淳子は短く悲鳴をあげた。
「痛い……?」
「……ちょっと、だけ……でも、大丈夫……だいじょうぶ、だから……」
彼女は痛みをこらえながら、それでも自分から腰をわずかに動かして、もっと深く受け入れようとした。その健気さが愛おしくて、僕は涙が出そうになった。僕は彼女の唇にキスをして、舌を絡めながら、ゆっくりとペニスを奥へと進めていった。
彼女の膣は、前世では感じたことのないほど深く、そして複雑だった。
入り口は狭く締め付けが強いのに、奥に行くほどに柔らかくうねり、亀頭を包み込むように蠢いている。しかも、浅い部分と深い部分ではまったく感触が違った。入口近くではぎゅうぎゅうと締め付けられる圧迫感が強く、奥のポルチオの手前では、ぬめるような吸いつきがあった。僕の亀頭は普通よりずっと大きく重く発達しているから、その二つの感触を同時に味わうことができた。浅い場所では肉襞がきゅうきゅうと亀頭のカリに絡みつき、奥に進めば進んだで、子宮口のまわりの柔らかな襞が、亀頭の先端をぴったりと覆ってくる。
「あっ、あっ……和也くん……なんか、おく、あたってる……おっきい……」
淳子はうわごとのようにそう繰り返した。彼女の中では、膣の奥の奥までペニスが届いているのがわかるのだろう。ゆっくりと腰を動かすたびに、彼女のなかはぎゅっと締まり、そして弛緩する。そのリズムに合わせて、彼女の顔からは苦痛の色が薄れ、代わりに何か別の感情が浮かび始めた。
「あっ、あっ……あ、あ、あ……!」
僕がピストンを少し速めると、淳子の声のトーンが変わった。痛がっているのではない。彼女は生まれて初めての膣の快楽に、自分でも戸惑っているようだった。膣の入り口近くでは、僕の亀頭のカリが肉襞を擦るたびにきゅうきゅうと音が鳴り、奥を突くたびに淳子の口からはひときわ高い声が漏れる。僕はその声に導かれるように、何度も何度も、浅い場所と深い場所を交互に攻めた。
「あっ……なにか、くる、あっ……なにこれ、あっ、うっ、うっ……!」
淳子の膣が、今までにない強さでぎゅうっと収縮した。その締め付けは尋常ではなく、まるでペニス全体を根元から搾り取ろうとするかのようだった。彼女の全身がぶるぶると震え、膣の奥から熱い蜜がどっと溢れ出して、僕のペニスをさらにぬめるものに変えた。
「あっ……! あ、あ、あああっ……!」
淳子のなかで、何かが決壊したのがわかった。
ミミズ千匹が這い回るみたいに、膣中がめちゃくちゃに蠢いて、僕のペニスに絡みついてくる。熱い蜜が洪水のように溢れ出し、シーツに染みを作っていく。淳子の目は焦点を失い、口はだらしなく開いて、その口元からは唾液が一筋こぼれ落ちていた。彼女は、生まれて初めての膣イキを迎えていたのだ。
十数秒にわたって続いた痙攣がおさまると、彼女の身体から力が抜けた。淳子はぼうっとした表情で天井を見上げながら、小さく何度もうなずいている。僕のペニスが彼女の膣を完全に征服した証だった。僕はそっとペニスを引き抜かずに、彼女のなかに留めたまま、その温かさを噛みしめた。
「好きだよ……淳子」
僕が耳元でそう囁くと、淳子はゆっくりと首を巡らせて、僕の目をまっすぐに見つめた。その黒目がちな大きな瞳は、まだ潤んでいたけれど、たしかな熱を宿していた。
「わたしも……和也くんのことが、大好き……」
その言葉を聞いたとき、僕は前世の記憶が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。惨めだった自分。彼女に振られた冬の日。あの冷たい目。それらすべてが、いまこの瞬間の淳子の笑顔によって上書きされていく。五十二年分の孤独と悔恨が、たったいま、彼女のなかの一番深い場所で溶かされていくような気がした。
そのあとも、僕たちは何度か身体を重ねた。二度目は彼女が上になる体位を試し、三度目は後ろから抱きしめる形で。そのたびに淳子は新しい快感を覚えたようで、あられもない声をあげて絶頂を繰り返した。夕方になってホテルを出るとき、彼女の足元はまだおぼつかなくて、階段を降りるときに僕の腕にしがみついてきた。
「もう、立てないかも……」
淳子は耳まで真っ赤にしてそう言った。僕は彼女の肩を抱き寄せ、髪に口づける。競馬新聞のインクの匂いはもうとっくに消えていたけれど、かわりに彼女の髪からはさっきのシャンプーの匂いがして、それが妙に幸福に感じられた。
「また来ような」
僕が言うと、淳子は何のためらいもなく、こくんとうなずいた。僕はその横顔を見つめながら、二度目の人生は間違っていないと、心の底から確信したのだった。
第6章 僕のペニスの形に膣が覚えていく、週末の図書館と二時間のホテル

第6章: 僕のペニスの形に膣が覚えていく、週末の図書館と二時間のホテル
初めてのセックスから数週間が経ったある土曜日の午後、僕と淳子は、図書館の静寂の中で向かい合って座っていた。淳子は看護学校の受験に向けて、開いた参考書に真剣な目を落としている。彼女の長い黒髪は今日も後ろで一つに束ねられ、白いブラウスの襟から覗くうなじが、館内の蛍光灯の下で淡く浮かび上がっていた。
「ここの微分、何度やってもグラフがイメージできなくて……」
淳子が顔を上げ、眉をひそめて呟く。僕は彼女の隣に席を移り、ノートにシャープペンシルを走らせた。
「関数を分解して考えるといいよ。全体を見るより、まず変化率だけを追いかけるんだ」
図書館の空気は本のインクと紙の匂いで満ちていて、彼女の髪からかすかに香るシャンプーの匂いが、僕の記憶をかき乱す。前世では、こんな風に淳子の勉強を見てやる余裕などなかった。自分のことで精一杯で、彼女の未来に手を貸す発想すらなかったのだ。しかし今は違う。僕は淳子の受験を支えながら、自分自身もこの先の国立大学合格に向けて、前世では手の届かなかった目標に着実に近づいていた。
二時間ほど集中して問題を解いたあと、淳子が小さく伸びをした。ブラウスの胸元がわずかに持ち上がり、布地の下に隠れた柔らかなふくらみが強調される。僕がさりげなく視線を送ったことに気づいた彼女は、すぐに腕を下ろして顔を赤らめた。
「……もう、見てたでしょ」
「見てないよ」
「うそ。和也くん、そういうところだけは鋭いんだから」
そう言いながらも淳子の目は、ほんの少しだけ潤みを帯びていた。ここ数週間で、僕は彼女のそういう微細な変化を読み取れるようになっていた。図書館の机の下で、淳子の膝が僕の足にふと触れた。触れた膝を、彼女は離そうとしない。むしろ、ほんの少しだけ押し付けてくるような、そんな動きが伝わってくる。
「……そろそろ出ようか」
僕がノートを閉じると、淳子はうなずいた。彼女の手が、机の上で一瞬だけ僕の指先に触れ、それから慌てて離れる。その仕草が愛おしかった。この後の展開を、淳子もまた予感しているのだろう。
図書館を出ると、十一月の冷たい風が頬を刺した。彼女はコートの襟を寄せ、僕の半歩後ろを歩く。土曜の午後の商店街は人通りが多く、僕たちは自然と人目を避けるように、歓楽街の裏通りへと足を向けた。ラブホテルのネオンサインが午後の薄暗い空に滲んで見える頃、淳子の歩調はわずかに遅くなった。
「今日は……ちょっと短めになるけど、いい?」
入り口の前で立ち止まり、僕がそう尋ねると、彼女は下を向いたまま、こくりと頷いた。あの初めてのホテルでの経験以来、淳子がこうした誘いを断ったことは一度もなかった。むしろ、週末の勉強帰りに、彼女の方から「この前のところ、空いてるかな」と小さな声で言うことさえあったのだ。
部屋に入ると、淳子はすぐに窓際へ歩いていき、カーテンを閉めた。薄暗くなった室内で、彼女の手がぎこちなくコートのボタンを外し始める。僕はその後ろ姿を数秒だけ眺めてから、背後から彼女の肩に手を置いた。
「慌てなくていいよ。まずはあったまろう」
備え付けのヒーターのスイッチを入れると、すぐに温風が吹き出し始める。淳子はコートを椅子に掛け、セーラー服のままベッドの端に腰掛けた。スカートから伸びた膝が、かすかに震えているように見えた。初めての時もそうだったが、この瞬間だけは毎回、彼女の緊張がはっきりと伝わってくる。
僕は隣に座ると、彼女の肩をそっと抱き寄せ、耳の後ろに口づけた。淳子の肩がびくんと跳ね、小さな声が漏れる。
「あ……くすぐったい……」
そう言いながらも彼女は、僕の腕の中で徐々に力を抜いていった。僕は片手で彼女の髪をとかしながら、もう一方の手を制服の上からそっと腰に添える。厚手の生地越しでも伝わる彼女の体温が、掌の中でじんわりと広がっていく。唇を耳から首筋に移し、鎖骨のあたりに舌を這わせると、淳子は目を閉じて、かすかに身をよじった。
「セーラー服、脱がせてもいい?」
僕の問いに、彼女は何も言わず、ただ両腕を少し上げてみせた。それが答えだった。スカーフを解き、前のボタンを一つひとつ外していく。布地が左右に開かれ、下に着たシンプルな白の下着が露わになる。前世の記憶の中の彼女よりも、今の淳子の方がずっと細やかに反応を返してくる。肩紐がずり落ちるたびに、彼女の呼吸が少しずつ深くなっていった。
スカートのホックに手をかけた瞬間、淳子が僕の手首を握った。
「……電気、消さないでいいの?」
「今日はつけたままにしよう。淳の顔、ちゃんと見たいから」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ、唇を噛みしめながら、ゆっくりとスカートのホックに添えられた僕の手から、自分の指を離した。黒いストッキングを脱がせると、彼女の太腿の内側が、ほんのりと汗ばんでいるのが見てとれた。白い肌の上に、淡い桜色の血行が浮き上がっている。視線を下にずらすと、下着の中心部に、わずかな湿りが滲み始めていた。
「もう、そんなになってる」
「……言わないで」
淳子が両手で顔を隠す。耳の先まで赤くなった彼女のその姿に、胸の奥で何かが熱く疼いた。僕は彼女の手をそっと顔から外させ、そのまま深く口づけた。初めてのキスの時と同じように、舌を差し入れると、淳子もまたおずおずと舌を絡ませてくる。彼女の口の中は温かく、唾液の甘みがじんわりと広がっていく。キスを続けながら、僕は片手で彼女の下着の上から割れ目をなぞった。布越しでもわかるほどに、そこはもうとろりと濡れそぼっていた。
淳子が唇を離し、熱い息を漏らす。
「……ベッド、横になろう」
僕は彼女の下着をゆっくりと脱がせ、裸になった彼女をベッドの中央へ横たえた。シーツの白さに、彼女の裸体がくっきりと浮かび上がる。黒目がちの大きな瞳は潤み、形の良い小さな乳房の頂点で、桜色の蕾が硬く尖っていた。前回よりもさらに彼女の反応が早くなっていることを、僕は冷静に観察していた。セックスの回数をあえて抑え、その分一度ごとの密度を高くした成果が、確実に彼女の身体に刻まれ始めているのだ。
今日はまず、前回とは違う角度から攻めることにした。指先でゆっくりと大陰唇を広げ、露わになった淡紅色の襞にそっと息を吹きかける。淳子の腰が浮き上がり、彼女の口から短い悲鳴が漏れた。
「やっ……そんなとこ……」
「気持ちよくない?」
「ちが……ちがうけど……なんか、変な感じ……」
羞恥と快感の狭間で揺れる彼女の声には、しかし拒絶の響きはなかった。僕は指先に愛液を絡め、クリトリスを包むように小さく円を描いた。ぬるついた感触が指を伝い、くちゅくちゅと湿った音が室内に響く。この音だけで、淳子はさらに恥ずかしそうに顔を背けるのだが、同時に彼女の膣口はひくひくと小さく痙攣し、新たな蜜がとろりと溢れ出していた。
十分にほぐれたと判断したところで、僕は自分の服を脱ぎ捨てた。この数ヶ月の鍛錬でさらに重さを増した亀頭が、勃起したペニスの先端でてらてらと光っている。以前にも増して、亀頭全体が熱を帯び、脈打つたびにずっしりとした存在感を主張していた。
淳子が横たわったまま、僕の股間を横目で見て息を呑む。
「……前より、また大きく……なってない?」
「そんなことないよ」
嘘だった。ペニスは確実に成長を続けている。海外から取り寄せたテストステロンクリームを陰嚢に塗り込み、毎朝のスクワットで下半身の血流を促し続けた結果、勃起時の長さはもう二十センチ近くに達していた。そして何より、亀頭の張りが以前とは比較にならないほど増していたのだ。
僕は彼女の両膝をゆっくりと開かせ、膣口に亀頭を押し当てた。まだ挿入していないのに、熱く濡れた粘膜が亀頭の先端に吸い付いてくるような感覚がある。淳子は両手でシーツを握りしめ、固く目を閉じていた。彼女の膣口は、あの初めての時よりも明らかに柔らかく、そして何かを期待するかのようにひくついていた。
「入れるよ」
亀頭がぬるりと彼女の中に沈み込む。その瞬間、淳子の喉から絞り出すような声が上がった。
「あっ……ぁ……!」
まだ半分も入っていないのに、彼女の膣壁はもうきゅうきゅうと締まり、侵入者を拒むかのように収縮を繰り返す。しかしその抵抗は、以前よりもずっと短い時間でほどけ始めた。僕は焦らず、ゆっくりと腰を進めた。亀頭が膣の浅い部分を通過するたび、淳子の身体が小さく跳ねる。
「ここ、前よりも感じるようになった?」
僕が意図的に亀頭の縁で、膣の入り口から指二本分ほど奥にあるざらついた部分を擦り上げると、淳子は急に背中を反らせて声を上げた。
「ひゃっ……! そこ、だめ……あ、あ、あ……!」
Gスポットと呼ばれるその場所を、僕は慎重に攻め続けた。亀頭の先端ではなく、大きく張り出した亀頭の冠状部で、その凹凸を何度も、何度もこすり上げる。淳子の声が徐々に高くなり、彼女の膣内がこれまでにないほど激しく痙攣し始めた。
「あ、あ、なんか……なにか、でちゃ……!」
その言葉が終わる前に、僕のペニスを包む膣壁がぎゅうっと強く収縮し、同時に生温かい液体が亀頭に吹きかけられた。潮だった。前回までは膣奥を刺激してようやく達していた彼女が、Gスポットへの刺激だけで、あっけなく吹き出したのだ。
「……やだ……ごめんなさ……」
淳子が涙声で謝る。彼女の太腿やシーツにまで飛び散った透明な液体が、薄明かりの中でてらてらと光っていた。淳子は羞恥で顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆っている。
「謝ることなんてないよ。気持ちよかった証拠だろ?」
「でも……汚いし……それに、こんなの……わたし、変になっちゃったみたいで……」
「淳は何も変じゃない。むしろ、もっと気持ちよくなれる身体になってるんだよ」
僕はまだ硬さを保ったままのペニスを、今度はさらに奥へと進めた。膣の一番深い場所、子宮の入り口にあたるポルチオに亀頭が触れると、淳子はさっきまでとはまったく質の異なる声を漏らした。
「うっ……! ふか……おく、あたっ……!」
「痛い?」
「いたく……ない、けど、なんか……おなかの奥が、じんじんする……」
僕は腰をゆっくりと回しながら、ポルチオを亀頭でぐりぐりと圧迫し続けた。膣奥のその場所は、Gスポットとは比べ物にならないほど深い快感を女性にもたらす。ただし、その感覚に順応するまでには、ある程度の経験と開発が必要だ。しかし淳子は、僕の動きに合わせて自分から腰を押し付けてきていた。もう、無意識のうちに快楽を追い求めているのだ。
「あ……あ……また……さっきの、くる……!」
「きていいよ。今度はゆっくり味わってごらん」
僕がそう声をかけると、淳子は首を振って何かを訴えようとしたが、言葉になる前に全身を大きく震わせた。膣内が先ほどよりもさらに強く、長く収縮し、彼女の喉からは声にならない嗚咽が漏れる。二度目の潮は、さっきよりも少なく、しかし濃い粘性を帯びて、僕の陰毛をぐっしょりと濡らした。絶頂の余韻の中で、淳子の膣は僕のペニスをくわえ込みながら、まるで別の生き物のようにひくひくと痙攣を続けていた。
僕はゆっくりとペニスを引き抜くと、彼女の隣に横たわり、肩を抱き寄せた。淳子はまだ放心したような表情で、ぼんやりと天井を見つめている。小刻みに震える彼女の肩を撫でながら、僕はこの二度目の絶頂が、彼女の身体に確実に新しい何かを刻み込んだことを確信していた。
前世では、十二月の期末試験が近づくにつれて、僕たちの関係は悪化の一途をたどっていた。セックスは回数だけが増え、僕の早漏と未熟なテクニックは改善されず、淳子がイクことは一度もなかった。今思えば、彼女は僕と別れる準備を、もうあの頃から始めていたのだ。けれど今は違う。淳子の身体は、僕のペニスの形を覚え始めている。まるで鍵と鍵穴のように、彼女の膣は僕の亀頭の大きさや角度にぴたりと馴染むように変化しつつあった。
「……和也くん」
淳子が、ようやく口を開く。その声はまだかすかに掠れていた。
「なに?」
「わたし……また、来週も……ここ、来たい……」
僕は彼女の髪を撫でながら、静かに笑みを浮かべた。図書館で真面目に勉強したあと、ホテルで二時間汗を流す。そのルーティンが、淳子の生理的欲求と感情の両方を、確実に僕へと結びつけていた。彼女はもう、僕のペニスを求めることを自分でも当然のことだと思い始めている。
「うん、来よう。でもその前に、数学の問題集、あと三章分は進めておかないとね」
「もうっ……わかってるよ」
そう言って口を尖らせる彼女の表情に、前世の記憶にある冷たい瞳の面影は、もう微塵もなかった。僕はベッドから起き上がり、備え付けのシャワーを浴びるために彼女の手を引いた。湯気の立ちこめる浴室の中で、互いの身体を洗い合いながら、来週の約束を改めて交わす。淳子が僕の背中をスポンジで擦る手つきは、もう恋人としての慣れた親密さを帯びていた。
次の週末。そのまた次の週末も。図書館とホテルを往復する日常が、淡々と、しかし濃密に続いていく。僕は淳子の膣の敏感な場所を、一つひとつ丹念に覚えさせていった。Gスポットに亀頭の縁をひっかけて潮を吹かせ、ポルチオを亀頭の先端で圧迫して深い絶頂を引き出す。その反復の中で、彼女が達するまでの時間は徐々に短くなり、絶頂の強さは逆に増していった。ある時などは、挿入してから五分も経たないうちに彼女が三度も連続で潮を吹き、シーツをぐっしょりと濡らしてしまったこともあった。
「もう……毎回シーツが大変なことになるね……」
ホテルの部屋で、濡れたシーツを見つめながら淳子が苦笑する。彼女の口調は、最初の頃のような激しい羞恥よりも、どこか諦めと、それ以上の充足感を含んだものに変わっていた。
「次はアナル、試してみる?」僕が何気なくそう言うと、淳子は目を見開いて一瞬息を呑み、それから耳まで真っ赤にして俯いた。まだ返事はもらえなかったが、僕は彼女がいつか、自らその開発を望む日が来ることを知っていた。それは前世の記憶にある彼女の変遷とはまったく異なる、僕だけの淳子の姿だった。
ベッドの上で横たわる淳子の裸を眺めながら、僕は心の中で静かにほくそ笑む。競馬で得た資金、学業での成功、そしてこの圧倒的な性的支配。前世の惨めな自分から、僕は確実に遠くへ来ていた。淳子の膣はもう、僕のペニスの形を覚え始めている。このままいけば、彼女は僕以外の男では決して満足できない身体へと変わっていくだろう。そしてそれは、単なる性的な依存ではなく、彼女自身が心から望んでいることなのだ。
窓の外では、十一月の冷たい風が吹いていた。来年の春、僕たちはそれぞれ別の学校へ進む。その時が来るまでに、彼女の身体と心をどこまで深く僕のものにできるか。それがこれからの最大の課題だった。
第7章 アナルに這わせた舌と羞恥──「わたしの、アナルの穴を見てください」

第7章: アナルに這わせた舌と羞恥──「わたしの、アナルの穴を見てください」
高校三年の冬、センター試験まであと二ヶ月ほどに迫った頃だった。外は粉雪がちらつき始めていて、吐く息が白く濁るような寒さの土曜日、僕は淳子をいつものラブホテルに誘った。週末の図書館帰り、受験勉強の合間の二時間休憩という名目はとうに形骸化していて、今では互いに「勉強のあとのご褒美」と口にすることもなくなっている。彼女の膣はもう、僕のペニスの形を完璧に記憶していた。入り口に亀頭をあてがうだけで、蜜がとろりと溢れてきて、奥までずるりと呑み込まれる。その事実に満足しながらも、僕の胸のどこかには、まだ足りないものがあるという渇きが燻っていた。
ホテルの部屋に入ると、備え付けの暖房がかすかに灯油の燃える匂いを漂わせていた。淳子はコートを脱ぐと、いつものように恥ずかしそうに俯いて、ベッドの端にちょこんと腰掛ける。黒いセーラー服の襟元から覗くうなじが、寒さでほんのり赤らんでいた。僕はカバンの中から、あらかじめ準備しておいた品を取り出す。濃紺のアイマスク。アダルトショップのビニール袋を開けるとき、淳子の目がわずかに見開かれた。
「今日は、これをしてもらうよ」
僕はアイマスクを彼女の眼前にかざしながら、できるだけ穏やかな声で言った。
「目隠し……?」
淳子が小首をかしげる。黒目がちな大きな瞳が不安げに揺れていた。
「淳の恥ずかしいところ、もっとよく見たいからね」
彼女は一瞬息をのんで、それから観念したようにコクリと頷いた。
「……わかった」
アイマスクをしてほしいと言ったとき、淳子は少し迷っていたけれど、最終的には素直に目を閉じてくれた。後ろでマジックテープをとめると、彼女の視界は完全に遮断され、長い睫毛が濃紺の布の上でかすかに震えているのが見える。部屋の明かりはつけたままだった。僕だけがすべてを見ることができる非対称な状況が、淳子の羞恥を一段と深くするだろうと計算していた。
服を一枚ずつ脱がせるあいだ、彼女の呼吸は少しずつ浅く、早くなっていった。ブラウスのボタンを外すたび、スカートのファスナーを下ろすたび、指先がかすかに皮膚に触れるだけで、彼女の肩がピクリと跳ねる。視覚を奪われたぶん、触覚が過敏になっているのが手にとるようにわかった。やがて下着だけになった淳子の身体は、部屋の間接照明を受けて白く浮かび上がり、鎖骨のくぼみや、くびれた腰のラインが陰影を帯びていた。
「今日はね、淳自身の口で言ってもらいたいことがあるんだ」
僕は彼女の耳元に顔を寄せて囁いた。息がかかるたびに、彼女の肩が小さく震える。
「な、にを……?」
「自分の身体の、一番恥ずかしいところ。どこをどうしてほしいか、この口で教えてほしい」
淳子はぎゅっと唇を噛んだ。目隠しの下で、頬がみるみる赤く染まっていくのが見える。
「で、でも……わたし……」
「大丈夫。ここには淳と僕しかいないよ。恥ずかしがることなんて、なにもない」
しばらくの逡巡のあと、彼女は下着を脱ぐように促され、思いきったように腰を浮かせた。白い綿のショーツが太腿を伝っていくと、そこにはもう、透明な糸が幾筋も光っている。彼女の秘めやかな場所はじゅうぶんに潤んでいて、かすかに甘酸っぱいような、潮のような匂いが立ちのぼっていた。
「じゃあ、ベッドの上で、自分で見せてみて」
僕がそう促すと、淳子はゆっくりと仰向けになった。それから恐る恐る膝を立て、ゆっくりと左右に開いていく。彼女の細い指が、おずおずと茂みの奥へ伸びていった。人差し指と中指で大陰唇をそっと押し広げると、内側の桜色の粘膜が露わになる。愛液に濡れたその場所は照明を受けて、まるで貝殻の内側みたいに、ぬめりと輝いていた。
「……こう、ですか……?」
淳子の声は震えていた。目隠しの下の頬は真紅に染まり、開かれた腿の内側がかすかに痙攣している。
「そう。綺麗だよ、淳のここ。でも今日、僕が一番見たいのは、もっと別の場所だ」
僕はベッドサイドに膝をつき、彼女の股座を間近で覗き込む姿勢になった。吐息が直接、彼女の敏感な場所にかかる距離だ。
「恥ずかしい場所を、ちゃんと見せるんだ。言葉にしてごらん」
淳子の喉が、こくんと鳴った。彼女はしばらくためらい、それからほとんど消え入りそうな声で呟いた。
「わたしの……アナルの……」
「アナルの?」
「わたしの、アナルの穴を……見て、ください……」
言い終えた瞬間、淳子のそこがきゅっ、と小さく窄まるのがはっきりと見えた。そのすぐ上にある花びらからは、とろりと蜜が溢れて、肛門の皺へと筋を作って垂れていく。僕は思わず唾を飲み込んだ。
「よく言えたね、淳」
僕は彼女の膝をさらに開かせて、肛門のすぐ横に親指を這わせた。初めて外気に触れたその場所は、触れただけでぴくぴくと小さく震え、まるで花の蕾のような、不規則な皺が放射状に集まっている。
「ここの、皺の一本一本まで、ちゃんと見せてくれてありがとう」
「や……言わないで……もう……」
淳子は両手で顔を覆おうとしたけれど、アイマスクのせいでうまくいかず、その仕草だけが余計に彼女の羞恥をあらわにしていた。僕は彼女の肛門に、そっと人差し指の腹を押し当てる。ローションも何もつけていないのに、上から垂れてきた愛液のせいで、そこはしっとりと濡れて柔らかくなっていた。
「あ……、あっ……」
軽く円を描くように撫でると、淳子は腰を浮かせて逃げようとする。でも同時に、彼女の内腿がかすかに開くのも見逃さなかった。
「淳はここ、触られるの、どう思う? 正直に言って」
「わかんな……わかんない……へん、な感じ……」
「嫌じゃない?」
「……わかんな、い……」
それが僕には「嫌じゃない」としか聞こえなかった。僕は彼女の膝裏に手をかけ、腰を少しだけ浮かせると、肛門に顔を近づけていった。
「あ、あ……? なに、して……?」
「舐めてあげる」
「え……?!」
淳子の全身がビクンと跳ねた。僕は彼女の太腿を両手でしっかりと押さえ、肛門のすぐ手前で息を吐く。暖かい呼気に、そこがまたひくひくと窄む。皺がより深くなり、中の薄い桃色がちらりと垣間見えた。
「や、やめて……! やめて、和也くん……! そんなとこ、汚い、よ……!」
「汚くなんかないよ。シャワーも浴びたばかりだしね」
「そういうことじゃなくて……! っ、あ……!」
僕の舌が、彼女の肛門に触れた。まずは舌先だけで、一番外側の皺をなぞるように動かす。菊の花びらのような襞を一枚一枚確かめるみたいに、ゆっくりと。そのたびに淳子は全身を硬直させ、シーツをぎゅっと握りしめる音が聞こえた。
「ひゃ……っ、あ……あ……」
「どう? 気持ち悪い?」
「わかん……ない……でも、なんか、からだが……勝手に……」
「勝手に、どうなるの」
「あ、あっ……うごい、ちゃう……」
淳子の腰が、僕の舌の動きに合わせて小さく揺れ始めていた。逃げるような、それでいて何かを追いかけるような、あいまいな動き。僕は舌に少し力を入れて、肛門の中心めがけてじゅっ、と押し込んだ。唾液と彼女の愛液が混ざり合い、くぐもった水音が立つ。
「んっ……ああ……!」
淳子が背中を反らせた。彼女の膣口から、新たな透明の液体がぶわりと溢れて、僕の顎を濡らす。僕はわざと音を立てながら、舌全体で肛門を大きく舐め上げた。じゅるる……という卑猥な音が部屋に響くと、彼女は両手で耳をふさごうとして、でもやっぱりうまくいかず、そのまま細い指が虚空を掻いた。
「じゅん、気持ちいだろう……アナル、舐められるの」
僕は顔を上げて、彼女の反応を見ながら言った。淳子は首を横に振ろうとして、でも途中で止まった。息が荒く、胸が上下に波打っている。
「ちが……ちがうもん……」
「ちがわないよ。ここ、さっきよりずっと柔らかくてグジュグジュになってる。すごく感じてる証拠だ」
「だめぇ……もう、へんに……なりそう……」
淳子の声は半ば涙声だった。でもその涙は、決して悲しみや苦痛からくるものではないことを、僕はよく知っていた。彼女の膣はまるで決壊したみたいに愛液を溢れさせ、肛門のまわりは僕の唾液でぬめりと輝いている。
「へんになっていいんだよ。淳が気持ちいいなら、それでいいんだ」
僕はもう一度、彼女の肛門に舌を這わせた。今度は尖らせた舌先を、窄まりの中心にぐっと押し込み、小さく出し入れする。舌に伝わるのは、今まで触れたことのない種類の柔らかさと熱さだった。膣とはまったく違う、もっと強い締め付け。舌先が少し入るだけで、括約筋がきゅうきゅうと反応して、僕の舌を締め上げてくる。
「あ、あ、あ……! なか……舌、なかに……!」
「入ってるよ。淳のアナルの中に、僕の舌がね」
「や……あ……ことば、にしない……で……!」
淳子はシーツを握りしめ、太腿をがくがくと震わせていた。彼女の中指が、無意識に自分のクリトリスへと伸びていく。でも僕はそれに気づかないふりをして、彼女の肛門を執拗に舐めつづけた。
そのうち、淳子の口から漏れる声が少しずつ変わっていった。最初は拒否と困惑の声だったのに、次第に切なげな響きが混ざりはじめ、やがて明らかな快楽の色を帯びてくる。彼女の腰が、僕の舌の動きに合わせて前後に小さく揺れ、陰部全体がうっすらと汗ばんで、甘いような、それでいて少し獣じみた匂いを放っていた。
「きもち……いい……のかも……」
淳子がほとんど息だけで呟いた。その言葉を聞いた瞬間、僕は自分の股間が痛いくらいに張り詰めるのを感じた。
「よかった。やっと正直になったね」
僕は顔を上げ、彼女のアイマスクのすぐ横、こめかみのあたりにそっとキスをした。淳子は抵抗せず、むしろそのキスを受け入れるように、わずかに顔を傾けてくる。
「もっと……してほしい……?」
しばらくの沈黙のあと、淳子は本当に小さな声で言った。
「……うん」
「どこを?」
「……アナル」
「アナルを、どうしてほしい?」
彼女は数秒ためらって、それからまるで自分に言い聞かせるように、はっきりとした声で言った。
「わたしの、アナルの穴を……もっと、舌で……いじめて、ほしい」
僕は微笑んだ。そして、もう一度彼女の股座に顔を埋め、今度はもっと大胆に、舌全体で肛門を覆うようにして舐め回した。じゅるっ、じゅぷり、と唾液と愛液が混ざった水音が部屋に満ちる。淳子はもう顔を覆おうとせず、両手をシーツの上に投げ出して、ただ小さく、激しく喘いでいた。
長く続けた愛撫のあと、僕は彼女の中にゆっくりとペニスを沈めていった。いつもの膣性交だったけれど、その日の淳子は明らかに違っていた。僕の亀頭が中で動くたびに、彼女の肛門がひくひくと痙攣して、それがまるで「こっちも」と言っているように見えた。僕は腰を動かしながら、親指の腹で彼女の肛門のまわりをやわやわと圧迫し、時折ぬるりと中に押し込んだりしてみせる。
「あ……! あ……! それ、やっ……!」
「や? それとも、もっと?」
「わかんな……い……! わかんないけど……へんになる……!」
その一言で、彼女は軽く絶頂へと導かれた。体を痙攣させ、膣の奥がきゅうきゅうとペニスを締め付けながら、長く震えるようなイキ方をした。
行為が終わったあと、淳子はシーツにくるまって、しばらく放心したように天井を見上げていた。アイマスクは外してあったけれど、彼女はまだ何かを見ているような、そんな目つきだった。白い喉がこくんと動き、汗で額に張りついた前髪がかすかに揺れる。
「……和也くん」
「なに?」
「わたし……おかしく、なっちゃったのかな」
「どうして?」
「だって……あんな、ところ……舐められて……なのに、すごく……気持ち、よくて……」
「おかしくなんかないよ。淳の身体が、もっと気持ちいいことを覚えただけだ」
僕は彼女の髪を撫でながら、落ち着いた声で言った。前世の僕なら決して言えなかった言葉。今の僕は、彼女を本当の意味で理解している。
その日から、僕は淳子のアナル開発を本格的に始めた。
次の週末、僕はアダルトショップで買っておいたローションと、細めのアナルバイブをカバンに忍ばせてホテルに向かった。淳子はもう、何が待っているかを察しているようで、部屋に入る前からずっと緊張した面持ちだったけれど、決して嫌とは言わなかった。むしろ、僕がカバンを開けるのを、その大きな黒い瞳でじっと見つめてくる。
「今日はね、指だけじゃなくて、これも使ってみる」
僕が取り出したバイブは、長さ十センチほどの極細タイプで、表面はつるりとした医療用シリコンでできていた。淳子はしばらくそれを眺めて、それからこくんと小さく頷いた。
「痛かったら、すぐに言うんだよ」
「……うん。でも、和也くんがするなら……大丈夫、だと思う」
彼女のそんな信頼にも似た言葉に、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
入浴のあと、淳子をベッドに四つん這いにさせて、ローションをたっぷりと肛門に塗り込む。指先で少しずつほぐしながら、彼女の呼吸に合わせて、ゆっくりとバイブの先端をあてがった。
「力を抜いて。お腹の奥に、ふーって息を吐く感じで」
「ん……っ」
淳子は言われたとおりに息を吐き、瞬間、バイブの先端がずるりと中へ吸い込まれていった。彼女が息を呑む。でも痛がっている様子はない。むしろ、異物感に戸惑いながらも、それが彼女の内部をゆっくりと押し広げていく感覚に、背中を弓なりに反らせていた。
「入ったよ、淳。アナルの中に、バイブが入ってる」
「あっ……あ……、なんか……変、だけど……あったか、い……」
そのあと、肛門からバイブを垂らしたまま、僕は彼女の膣にペニスを挿入した。膣と直腸を隔てる薄い壁越しに、バイブと亀頭が互いを押し合う感覚が、僕にもありありと伝わってくる。淳子は今までにないほどの激しさで感じ、普段の二倍はあろうかという量の潮を吹いて、何度も何度も絶頂した。
アナルバイブを使ったセックスを繰り返すうちに、淳子の肛門は少しずつ柔らかく、そして敏感になっていった。週を重ねるごとにバイブの太さを少しずつ上げていき、一ヶ月ほど経つ頃には、彼女の肛門は僕の指を二本、難なく受け入れるようになっていた。その頃にはもう、淳子のほうから「今日はアナルもしてくれる……?」と小さくねだるようになっていて、僕がわざと気づかないふりをすると、彼女は耳まで真っ赤にしながら、もじもじと腿をすり合わせて待つ。その姿がたまらなく愛おしかった。
やがて、僕のペニスを彼女の肛門に挿入できる日が来る。亀頭が窄まりを押し広げ、ずるりと呑み込まれていく瞬間の、あの抗いがたい締め付けと熱は、膣とはまったく別種の快楽だった。淳子はというと、肛門にペニスが入るたびに目の焦点が合わなくなり、「あ……ああ……」と、ほとんど言葉にならない声で鳴きつづける。
その翌週、僕たちがまたラブホテルに来たときだった。淳子は自分から服を脱ぐと、ベッドに横になりながら、恥ずかしそうに僕を見上げて言った。
「きょうは……アナルに、和也くんの、いっぱい……入れてほしい」
その言葉に、僕は返事をする代わりに、深くキスをして応えた。彼女の舌が、すぐに僕の舌を求めて絡んでくる。唾液の温かさ、歯列の硬さ、唇の柔らかさ。そのすべてが、前世では決して手に入らなかったものだった。
これでいい。これでやっと、彼女は僕のものになった。
僕は心の中でそう呟きながら、淳子の肛門にゆっくりと亀頭を押し当てた。彼女の背中に、僕の爪の痕がくっきりと残るほどの力で、彼女は僕にしがみついてきた。それが痛みからなのか、快楽からなのかは、もう僕にも彼女にも、区別がつかなくなっていた。
第8章 合格発表とバブルの足音、すれ違う距離をあえて作る

第8章: 合格発表とバブルの足音、すれ違う距離をあえて作る
三月の風はまだ芯のところで冷たかったが、日差しだけは嘘みたいに明るくて、僕は国立大学の正門前に張り出された合格者番号の前に立っていた。掲示板の表面を覆うビニールシートが風ではためくたび、受験生たちの歓声やため息が周囲で小さく弾ける。僕の目はすでに自分の番号を捉えていたけれど、五十二年分の記憶を持つ身としては、合格の喜びよりも先に別の計算が頭をもたげる。これで淳子と同じ都市に拠点を構えられる。彼女の看護学校から僕の大学までは地下鉄で二駅。前世では叶わなかった距離だ。
「和也くん」
背中から聞こえた声に振り返ると、淳子が黒いコートの襟を立てて立っていた。風で乱れた前髪を細い指で耳にかける仕草に、高校時代よりいくぶん大人びた気配が混ざっている。彼女の看護学校の合格発表は一週間前に終わっていて、今日は僕の番号を見に来てくれたらしい。
「あった?」
「うん、大丈夫だったよ」
合格を確認したときの胸の内を話す彼女の声は弾んでいたけれど、僕はその声を聞きながら、駅前の証券会社の電光掲示板を思い出していた。先週、場外で買い足したNTT株と都銀株の含み益が、すでに預金残高とは別の次元で膨らみ続けている。バブル経済という熱病が街全体を包み込む中、五千万という数字は高校生から大学生に変わる節目の僕にとって、すでに単なる通過点に過ぎなかった。
それからの数週間、入学準備の慌ただしさに紛れながら、僕はあえて学生寮を選んだ。資金的には大学近くのワンルームマンションを借りて淳子との時間をもっと自由に確保することもできたが、それは前世の条件を忠実に再現するためには避けるべき選択だった。当時、親の経済力が乏しかった僕は学生寮に入る以外の選択肢を持てず、その物理的な制約が彼女とのすれ違いを加速させた。今回はその条件を意図的に維持することで、同じ土俵で検証をする必要がある。
淳子は淳子で、実家からの通学を続けていた。看護学校は朝から夕方まで実習が詰まっていて、サークル活動に割ける時間も限られている。僕は彼女に、大学の敷地を越えて他校の学生たちが集まるインカレの合唱サークルを勧めた。
「看護の勉強だけだと視野が狭くなるよ。違う分野の人と知り合うのは大事だと思う」
電話越しにそう伝えると、淳子は少しだけ間を置いてから「そうだね」と答えた。その声色には、新しい世界への期待と、僕に対するわずかな遠慮が混ざっていたように思う。僕はそれ以上は勧めず、彼女の判断に任せた。ただ、前世で彼女を奪った男がそのサークルにいることを知っている身としては、これは賭けでもあった。淳子がもう一度その男に惹かれるのか、それとも僕という存在が前世とは違う結末を引き寄せるのか。
大学の授業が始まって一ヶ月も経つと、キャンパスの空気はバブル景気の熱量に染まっていた。ディスコのフライヤーが掲示板に何枚も貼られ、昼休みの購買前ではテニスサークルや飲みサークルの勧誘が路上を占拠している。ボディコンに身を包んだ女子学生たちが笑い声をまき散らしながら歩く光景は、前世の記憶とぴったり重なって、懐かしさと奇妙な居心地の悪さを同時に感じさせる。
僕はいくつか声をかけられた中から、無難な飲みサークルを一つ選んで参加した。激しい運動系でもなく、かといって学術系でもない、いわゆる「なんでもサークル」で、週に二回ほどの飲み会と、月に一度のダンスパーティが主な活動だった。ユーロビートが爆音で流れる薄暗いホールで、見知らぬ女子大生の腰に手を回しながら、僕はいつも心の片隅で淳子のことを考えていた。
サークルに顔を出すようになってすぐ、僕は一人の先輩女性と関係を持った。大学二回生で、肩までのセミロングの黒髪が印象的な、どこか大人びた目元の女性だった。羽振りの良い周囲の男たちにチヤホヤされることに慣れているらしく、恋愛というよりは快楽の交換といった距離感で近づいてきたから、こちらとしても気楽だった。何度か身体を重ねたが、彼女が僕のペニスを見て一瞬息を呑み、それから必死に嬌声を押し殺す様子には少し胸がすく思いがした。
ただ、それだけだった。行為のあと、彼女が眠りに落ちた隣で、僕は汗ばんだ亀頭を軽くタオルで拭いながら、ふと淳子の膣の感触を思い出してしまう。ポルチオを亀頭で押し上げたときの、あの内側から縋りつくような締め付け。アナルに挿入した瞬間の、熱い粘膜が亀頭の先端をきゅうきゅうと包み込む感覚。それらと比べてしまうと、他の女性との行為はどうしても味気なく感じられた。
週末、淳子と会う時間だけが、僕にとって張り合いだった。金曜の夕方、看護学校の実習を終えた彼女と待ち合わせ、街の外れにある居酒屋で酎ハイを飲みながら一週間の話をする。淳子はサークルで「エコー」というあだ名をつけられたらしく、同じ看護学生の友人と一緒に入ったと言って少し照れたように笑った。
「看護学校の子はみんな真面目でね。でも、サークルの人たちは全然違うタイプで、なんだか新鮮」
彼女の口調はまだ柔らかく、僕に向ける視線にも疑いの色はなかった。けれど、前世の経験から言えば、この「新鮮」という感覚がやがて別の男への興味に変わる。僕はビールを一口含んでから、何気なく切り出した。
「淳、学生生活で後悔しないように、いろんな経験をしたほうがいいよ。サークルの飲み会とか、先輩との付き合いとか、学生のうちしかできないことも多いしね」
淳子は一瞬だけ箸を止め、黒目がちな大きな瞳で僕を見つめた。何かを探るような、あるいは僕の本心を読み取ろうとするような目つきだったが、やがて小さくうなずく。
「……和也くんも、そうしてるの?」
「まあ、それなりにね」
僕が正直に答えると、彼女はほんの少しだけ口元を引き結んだ。嫉妬というよりは、自分も同じように振る舞うことへの許しを得ようとしているように見えた。その反応を確認できただけで、今は十分だった。
季節が初夏に移ろう頃、淳子からの電話の声に微妙な変化が現れ始めた。学生寮の廊下に置かれた共用電話で話す彼女の声は、以前より少しだけ早口で、内容もサークルの行事や先輩の話が増えている。合宿の準備が大変だとか、幹事の先輩が頼りにならないとか、そんな他愛ない話題の中に、特定の相手を意識している気配が混ざっていた。
前世と違うのは、彼女がまだその気配を僕から隠そうとしている点だった。それはつまり、僕という存在を失いたくないという意思の表れでもある。少なくとも現時点では。
七月に入り、バブル経済の熱狂は街からさらに一段と空気を膨らませていた。証券会社の店頭には日経平均の最高値を示す数字が掲げられ、すれ違うスーツ姿の男たちの顔には根拠のない自信が張りついている。僕は寮の自室で株価ボードの切り抜きを眺めながら、そろそろ売り抜けのタイミングを計算し始めていた。来年末には暴落が始まる。それまでに五千万をさらに増やし、暴落前にすべてを手仕舞いして、今度は不動産と金に資産を移す。未来を知る人間にとって、バブルとは儲け放題のゲームでしかなかった。
缶コーヒーを片手に、僕はベッドに腰掛けて窓の外を見た。遠くの駅前の灯りが湿度を含んだ空気に滲んでいる。淳子は今夜もサークルの飲み会だと言っていた。あの先輩も来ているのだろう。胸の奥で前世の記憶がチリチリと燻る。冷たい目で僕を見下ろした大学二年の冬の淳子。必死に縋った僕を振り切るようにして去っていった彼女の後ろ姿。
僕はコーヒーを一口飲み、その苦さに眉をひそめた。
まだだ。まだ手を出す時じゃない。
彼女が迷い、別の男と比較し、それでも結局僕のところへ戻ってくる。その過程を経なければ、本当の意味で彼女を手に入れたことにはならない。今回も、あえて距離を保つ。亀頭をずっと露出させて鍛え続けた年月と同じだ。皮をかぶせて守るのではなく、むき出しのまま世界と接触し、擦れて硬くなっていく。そうやってしか、本当の強さは手に入らない。
自分に言い聞かせるように一口またコーヒーを飲むと、冷めた液が喉を通る感覚だけがやけに鮮明だった。夏の夜の湿った空気の中で、僕は彼女が別の男に近づいていく気配を、ただ静かに感じ取っていた。
第9章 居酒屋でノーパンを命じる──「アナルに入れて欲しい」と隣客に聞こえる声で

第9章: 居酒屋でノーパンを命じる──「アナルに入れて欲しい」と隣客に聞こえる声で
大学二年の五月、街路樹の若葉が夜風にそよいでいた金曜の夕刻だった。学生寮の共用電話ボックスに百円玉を落とし込み、僕は淳子の実家の番号をダイヤルした。コールが三度鳴り、受話器の向こうで彼女の声が弾む。
「もしもし、明石です」
「淳、明日の夕方、いつもの居酒屋で六時に」
僕は前置きを省いてそう告げた。彼女が「うん、いいよ」と返すまでのあいだに、息を吸って、声のトーンを一段落とす。
「それからね、淳……明日は、ノーパンで来て」
受話器の向こうで、淳子の呼吸が一瞬息を止めたのがわかった。かすかな衣擦れのあと、彼女の声が、まるでどこか遠くの部屋から響いてくるように静かになる。
「……はい」
そのひと言には、困惑も抗議もなかった。ただ、僕の言葉を受け入れることだけに焦点を絞ったような、澄んだ従順さがあった。僕は「じゃあ、明日」とだけ言って受話器を置いた。手のひらに百円玉の冷たい感触が残っていた。
翌日の夕暮れ、僕は約束の居酒屋へ先に入っていた。大通りから一本入った路地にあるその店は、焼き鳥の煙とタレの焦げる匂いが空気に溶けていて、壁には手書きの品書きが貼ってある。奥のテーブル席に腰を下ろし、生ビールを一口含んだとき、入口の暖簾をくぐって淳子が現れた。
彼女は白いブラウスに、膝上十センチほどの紺色のフレアスカートをはいていた。髪は後ろで一つに束ねている。店内の薄暗い照明の下で、その首筋がほの白く浮かび上がっていた。淳子は僕を見つけると、小さく会釈して歩いてくる。その歩き方が、どこかぎこちなかった。太腿を必要以上にすり合わせるように、一歩一歩を慎重に運んでいる。スカートの布地が、彼女の腰から腿にかけての曲線をなぞるたび、その下に何も履いていないという事実が、僕の喉の奥に熱い塊を落とし込んだ。
彼女が対面の席に腰を下ろした瞬間、ほんの少しだけ眉をひそめて、お尻の位置を直した。木の座面が直接肌に触れる感触に、慣れていないのだろう。
「ほんとにノーパンで来たんだ……淳はエッチだね」
僕がそうささやくと、彼女は口をとがらせて俯いた。
「もうっ……和也くんが言ったからでしょ」
その声には怒りよりも、むしろ照れくささと、どこか甘えるような響きが滲んでいた。僕は店員を呼んで、彼女のぶんの酎ハイを注文する。グレープフルーツの果肉が浮かんだ、甘ったるいカクテルだ。彼女はストローに口をつけ、一口、二口と飲んだ。喉が小さく動くのを、僕は正面からじっと眺めていた。
やがて二杯目の酎ハイが運ばれてきて、彼女の頬がほんのりと朱に染まり始めた頃、僕はテーブルの下で足を伸ばし、彼女の膝のあいだにそっと差し入れた。
淳子がはっと顔を上げる。彼女は反射的に両腿をぎゅっと閉じようとしたが、僕の足がすでに割って入っている。素足の腿の内側が、僕のジーンズ越しにひやりと冷たく感じられた。
「淳子のアソコ、もうぐちゅぐちゅだろ」
僕が低い声で問うと、彼女は顔を真っ赤にして俯き、かすかにうなずいた。ストローを指で弄りながら、蚊の鳴くような声で言う。
「……うん」
そのとき、隣のテーブルで飲んでいた男性三人組の会話が、ふと途切れた。彼らはスーツ姿で、おそらく週末の仕事帰りに一杯ひっかけているのだろう。こちらの気配を察したのか、それとも偶然か、彼らのうち一人が横目で淳子を見た。
僕は、その視線を感じながら、あえて声のボリュームを落とさなかった。
「今日は何して欲しい? ホテルで」
淳子は一瞬息をのみ、それから慌てて周囲を見回した。
「だめっ……声、大きいよ……」
「答えなかったら、してあげない」
僕が言い放つと、彼女は視線をテーブルの木目に落としたまま、唇を噛んだ。隣の男性たちが、いまや完全に沈黙しているのがわかった。焼き鳥の油が炭に落ちてじゅっと鳴る音さえ、やけにはっきりと耳に届く。
僕はテーブルの下で足をさらに進め、彼女の膝をじわじわと押し開こうとした。淳子は必死に腿を閉じようとする。ノーパンの彼女の秘部が、もし開かれてしまえば、薄暗い照明の下でもはっきりと露わになる。その危機感が、彼女の動きを硬くしていた。
「ほら、答えないと、広げちゃうよ」
僕がそう言った瞬間、淳子は観念したように小さく息を吐いた。
「……アナル」
その言葉は、まるで独り言のように小さかった。しかし、隣のテーブルからは、誰かが息をのむ気配が聞こえた。
「アナルがどうしたの? ちゃんと言って」
僕は追い討ちをかける。淳子はぎゅっと目を閉じて、それから意を決したように顔を上げた。彼女の黒目がちな大きな瞳は、うっすらと涙の膜を張っている。羞恥と、それからそれとは別の、もっと深いところから込み上げてくる感情に揺れながら、彼女は言った。
「カズのを……アナルに、いっぱい入れて欲しい」
その声は、さっきよりもずっと通っていた。隣の男性客のうち一人が、おもわずといったふうにビールジョッキを置く。カチンと氷の鳴る音が、妙に大きく響いた。
淳子は言い終えると同時に、ぶるりと小さく震えた。彼女の腿の内側が、僕の足に触れているあたりから、しっとりと湿った熱が伝わってくるような気がした。羞恥で、彼女の膣はさらに濡れているに違いなかった。
「よく言えたね、淳」
僕は仕返しとばかりに足を引いた。
「でも、隣のお客さん、淳が言ったこと、聞こえちゃったみたいだよ」
淳子ははっとしたように隣のテーブルを横目で見た。男性三人組のうち、若いほうの二人が慌てて視線をそらし、年嵩の一人だけが、無表情を装いながらも目だけで淳子をちらりと見た。彼女は小さく悲鳴を上げるようにしてうつむき、耳まで真っ赤に染まった。
「もうっ、ばか……和也くんの、ばか……」
彼女は消え入りそうな声でつぶやき、両手で顔を覆った。その指の隙間から覗く耳たぶが、熱に浮かされたように赤い。僕はその姿を、愛おしいと思った。同時に、前世では決して見ることができなかった彼女のこんな顔を、いま僕だけが独占しているという事実に、背筋がぞくりと震えるような満足感を覚えた。
会計を済ませて店を出るとき、淳子は僕の腕にしがみつくようにして歩いた。夜風が彼女の髪を揺らし、ブラウスの襟元からは、ほのかに彼女の汗と香水の混じった匂いが立ちのぼる。その匂いが、僕の鼻腔をくすぐり、ズボンの前を窮屈にさせていた。
ホテルまでは歩いて十分ほどの距離だった。歓楽街のネオンが点滅する中を、淳子はずっと俯いたまま、ときおり僕の腕をつねるようにして「もう、ほんとにばか」と繰り返した。
部屋に入ると、僕はすぐに彼女を壁際に追い詰め、キスをした。淳子の唇はさっきの酎ハイの甘さがまだ残っていて、舌を差し入れると、彼女の舌が待ちかねたように絡みついてくる。口づけの合間に、彼女が熱い息を吐いた。
「わたし……あんなこと、言わされて……でも、途中で、なんだか……変に、なって……」
「変に?」
僕が耳元でささやくと、彼女は首を振った。
「わかんない……けど、隣の人に聞かれてるって思ったら……ここが、きゅんって……なって……」
僕は彼女のスカートの上から、お尻の膨らみをゆっくりと撫であげた。布越しにもわかるほど、彼女のそこは熱を持っている。
「恥ずかしいのに、感じちゃったんだね、淳のアソコは」
「ちが……ちがうもん……」
「ちがわない。見せてごらん」
僕はベッドの端に彼女を座らせ、その前に膝をついた。スカートの裾をゆっくりとまくり上げていく。太腿が露わになり、腿のつけ根の細く白い部分が、薄暗い間接照明の下に晒されていった。
そして、彼女の秘部が現れる。
茂みはしっとりと濡れそぼり、大陰唇のあいだからは透き通った蜜が筋を引いて太腿の内側へと垂れていた。襞の奥では、肉の蕾が充血して頭をもたげているのが、はっきりと見て取れた。
「こんなに濡らして……淳のいやらしい」
僕がそう言うと、彼女は両手で顔を覆ったまま、かすかに腰を震わせた。
「や……見ないで…………」
「ノーパンで居酒屋に来て、隣の男の人たちに聞こえる声でアナルにおねだりしちゃうような淳のこと、もっと見せて」
僕は彼女の腿をさらに開かせ、膣口にそっと指を這わせた。ぬるりとした粘液が指先を包み、かすかに貝類を思わせる、潮の香りにも似た匂いが立ちのぼる。僕はその指を彼女の肛門へと滑らせた。窄まりは、ひくひくと小さく痙攣していて、触れただけで彼女の全身が跳ね上がる。
「あっ……!」
「ここが、欲しいんだろ?」
「……うん」
「自分で、ちゃんと言って」
僕は指で窄まりの周囲をくるくると円を描きながら、彼女の言葉を待った。淳子はしばらく唇を噛んでいたが、やがて観念したように、潤んだ瞳で僕を見つめて言った。
「カズの……おっきいの……わたしのアナルに……入れて」
僕は彼女を強く抱きしめ、耳元でささやいた。
「いい子だ、淳。じゃあ、今日はたっぷりかわいがってあげる」
シャワーを浴びたあと、僕たちはベッドの上で向かい合った。淳子は裸のまま、枕にうつ伏せになり、お尻をわずかに持ち上げている。形の良い小さな臀が、部屋の淡い光を受けてなめらかな曲線を描いていた。その割れ目の奥に、窄まりがひっそりと息をひそめている。
僕はローションを手に取り、掌であたためてから、彼女のアナルにたっぷりと塗りつけた。冷たい感触に、淳子が短く息をのむ。
「ひゃっ……」
「大丈夫、ゆっくりするから」
僕は人差し指の腹で、皺の一本一本をなぞるように窄まりをほぐしていく。彼女のアナルは、高校時代から開発を続けてきたせいで、以前よりずっと柔らかく、それでいて締めつける力は失っていなかった。指の第一関節を沈み込ませると、内側の肉が熱を帯びてきゅうきゅうと絡みついてくる。
「あ……ああ……」
淳子はシーツに顔を埋めて、くぐもった声をあげた。僕はゆっくりと指を出し入れしながら、もう一方の手で彼女のクリトリスを同時に弄る。膣の方からも蜜が溢れてきて、それが肛門へと伝い落ち、ぬめりを増していった。
「入れるよ」
僕は彼女の背中に覆いかぶさるようにして、亀頭を窄まりに押し当てた。コンドームを付けていない素の亀頭は、ローションのぬるつきと彼女の体温が混ざり合った熱を、じかに感じ取っている。ぐっと腰を入れると、亀頭の先端が窄まりを押し開き、ずぶりとめり込んでいった。
「う、ああっ……!」
淳子の背中が弓なりに反る。彼女のアナルは、僕の亀頭の形を覚えきっているかのように、いったん受け入れると、あとはずるずると深くまで招き入れていった。直腸の内壁が、ペニス全体を万遍なく圧迫し、その圧力が脈拍に合わせて小刻みに変動する。僕は腰を止め、彼女が慣れるのを待った。
「淳……全部、入ってるよ」
「ん……あつい……カズのが、奥まで……」
彼女は振り返り、涙でにじんだ目で僕を見つめた。その表情には苦痛よりも、むしろ満たされた安堵が色濃く浮かんでいた。僕は彼女の腰を両手で掴み、ゆっくりとピストンを始める。
ぐちゅ、ぐちゅという粘着質な水音が、静かな部屋に響いた。引き抜くときには窄まりがペニスに吸い付いて離れまいとし、押し込むときには奥の肉が亀頭を包み込んで、さらに深くへと誘う。そのリズムが次第に速まるにつれて、淳子の嬌声も大きくなっていった。
「あっ、あっ、それ、すご……っ、おく、あたって……!」
「淳のアナル、すごく締まるよ……気持ちいい?」
「きもち……いいっ……! わたし、アナル、されてるのに……きもち、よくて……」
「されてるのに、じゃなくて、されてるから、気持ちいいんだよ。淳はアナルでイくようになったんだ」
「あ……あ……っ」
僕がそう言った瞬間、淳子の内壁がぎゅうっと痙攣し、彼女は小さく悲鳴をあげた。膣の方から透明な潮がほとばしり、シーツに染みを作っていく。アナルだけの刺激で、彼女はイってしまったのだ。
「イったの?」
「うん……いま、いっちゃった……」
「まだだよ、淳。もっと奥まで入れてあげる」
僕は彼女の腰をさらに高く抱え上げ、体重をかけて亀頭を直腸の最奥まで押し込んだ。淳子は喉をのけぞらせ、声にならない声をあげる。僕はそのまま腰を回すようにして、奥の肉をぐりぐりと亀頭で圧迫した。
「ひ、あ……! あ、ああ……!」
彼女が二度目の絶頂に震えるのを感じながら、僕は前世の自分が決して与えられなかったこの感覚を、全身で噛みしめていた。ペニスの先端から、彼女の体温が流れ込んでくる。亀頭の裏筋が、直腸の襞を一枚一枚つぶしながら擦り上げる感触。淳子の内部は、僕の形に完璧に馴染んでいた。
「もう、ばか……和也くんの……ばかぁ……」
淳子はシーツに顔をうずめ、泣き声混じりにそう繰り返した。その背中はまだ小さく震えていて、下半身は僕の腰の動きに合わせて無意識に揺れている。
「ばかでいいよ。淳をこんなに気持ちよくできるなら」
僕は彼女の髪をかきあげ、うなじに唇を寄せた。淳子の肌からは、汗と、彼女特有の甘い匂いが立ちのぼっている。その匂いが、居酒屋での羞恥と、ここでの快楽とを結びつけて、僕の脳裡でひとつの絵を描き出す。彼女はもう、他の誰にも見せられない顔を、僕にだけ見せるのだ。
その夜、淳子は三度イった。最後は声も出なくなり、ただ細かく痙攣するだけの絶頂を迎えて、僕の胸にぐったりともたれかかった。彼女のアナルはまだひくひくと動いていて、そこからローションと彼女自身の分泌液が白く濁って滲み出していた。
「淳……大丈夫?」
僕が尋ねると、彼女は目を閉じたまま、かすかにうなずいた。
「……うん。なんか……頭、真っ白になっちゃった」
「気持ちよかった?」
「……ばか。そんなこと、聞かないで」
そう言いながらも、彼女の口元には、うっすらと微笑みが浮かんでいた。それは、前世で僕が見たどんな彼女の笑顔よりも、深いところから滲み出ているように思えた。
窓の外では、夜が更けていく。遠くの通りを走る車のヘッドライトが、カーテンの隙間から一瞬差し込んで、部屋の天井を白く横切った。僕は隣で寝息を立て始めた淳子の髪を撫でながら、この先彼女がどんな男と出会おうとも、もう彼女の身体は僕を手放せないという確信を、噛みしめていたのだった。
第10章 缶コーヒーの苦さと消えた明かり──彼女が他の男の部屋に入る夜

第10章: 缶コーヒーの苦さと消えた明かり──彼女が他の男の部屋に入る夜
大学二年の十月、街路を埋める銀杏の葉が黄色く色づき始めた頃だった。僕はその夜、飲みサークルで知り合った短大卒のOLと、大通りから少し外れた居酒屋の暖簾をくぐっていた。彼女は肩までの黒髪をゆるく巻いて、濃紺のタイトなワンピースを着ている。ピンヒールが店の木の床を叩く音が、やけに耳についた。
席に着き、瓶ビールを二人分注文する。ジョッキに注がれた黄金色の液体が、白い泡を細かく弾けさせていた。彼女が仕事の愚痴を語るのに適当に相槌を打ちながら、僕は目の前の焼き鳥の盛り合わせに箸を伸ばす。
そのとき、店の奥まった座敷の方から、聞き覚えのある声が届いた。
心臓が一瞬、止まったかと思った。
声の主を確認するまでもなかった。それでも、身体は勝手に動いていた。トイレに立つふりをして、座敷の傍を通り過ぎる。六人掛けの掘りごたつの席に、淳子が座っていた。向かいには、茶髪を肩まで伸ばした瘦せ型の男が一人。Vネックのざっくりしたニットを着て、白い歯を見せて笑っている。僕はすぐに思い出した。前世で淳子を奪った男だ。顔までは覚えていなかったが、その軽薄そうな笑みと、彼女を見つめる視線の質が、すべてを物語っていた。
淳子は黒のタートルネックに、濃いボルドーのフレアスカートという装いだった。耳の下で揺れる小ぶりのピアスが、店の照明を受けて時折きらめいている。彼女の横顔は、わずかに紅潮していた。手元の酎ハイグラスを両手で包み込みながら、男の話に耳を傾けている。
胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられるような痛みに襲われた。前世の記憶が、まるで堰を切ったように溢れ出してくる。大学二年の冬、同じように他の男に心を奪われ、冷たい目で僕を見下ろした淳子の表情が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。あのとき僕は泣いてすがった。惨めだった。男として、人間として、完全に否定された瞬間だった。
席に戻ると、OLの先輩が怪訝そうに僕を見た。
「どうかした? 顔色、悪いよ」
僕は無理に笑みを作り、ジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。
「すみません。大学のレポートの締め切り、完全に忘れてて。今夜中に仕上げないとまずいんです。埋め合わせは必ずしますから」
OLの先輩は、あからさまに落胆した表情を見せたが、学生の本分を盾にされると強くは引き留められない。彼女はため息をつき、バッグを手に取った。
「わかった。今度、ちゃんと埋め合わせしてよ」
「もちろんです」
店の外で彼女と別れ、僕はすぐさま路地の物陰に身を潜めた。心臓が早鐘のように打っている。指先が冷たく、かすかに震えているのが自分でもわかった。これは嫉妬だ。五十二年の人生経験を積んでも、なお抗えない、原始的な牡の情動が、腹の底でぐつぐつと煮えくり返っている。
十分ほど待つと、淳子と男が連れ立って店を出てきた。男が彼女の肩に手を置き、耳元で何かを囁く。淳子は下を向いたまま、かすかにうなずいた。その仕草は、僕が彼女に見せたときと同じ、羞恥と承諾が混ざり合ったそれだった。
僕は舌の根に苦いものが広がるのを感じながら、二人の後を追った。
二人は地下鉄の駅へと向かい、三駅先の、大学に程近い住宅街で降りた。夜の九時を回った通りは人影もまばらで、街灯の白い光がアスファルトに冷たく落ちている。僕は彼らから三十メートルほどの距離を保ち、電柱や駐車車両の陰に身を隠しながら歩いた。尾行という行為に心当たりがあるわけではなかったが、五十二年分の人生経験は、こういう場面でも妙な落ち着きを僕に与えていた。
二人は途中、最近できたばかりのコンビニエンスストアに立ち寄った。ガラス越しに、男が缶酎ハイとスナック菓子を籠に入れるのが見える。淳子は彼の隣で、所在なげに商品棚を眺めていた。その横顔は、緊張と期待が奇妙に入り混じった、僕の知らない表情だった。
コンビニを出た二人は、大学裏手の学生アパートが密集するエリアへと足を踏み入れた。築十年ほどの二階建てアパートが、狭い道路を挟んで両側に並んでいる。そのうちの一棟の前で、男が立ち止まった。外階段を上がり、二階の角部屋のドアを開ける。淳子は一瞬、ためらうように背後を振り返ったが、結局、男の後について中へと消えた。
角部屋の窓に、オレンジ色の明かりが灯った。
僕はアパートの向かいにある月極駐車場の片隅に身を寄せ、自動販売機で缶コーヒーを買った。百二十円を投入し、ガコンと落ちてきた細長い缶を手に取る。プルタブを引き上げると、微かにコーヒーの湯気が立ちのぼり、インスタント特有の焦げたような苦い香りが鼻腔をついた。口に含むと、砂糖の甘さの裏に、安物の豆の苦味が舌の奥に張り付く。
窓からは、ときおり二人の話し声や、淳子のものらしい控えめな笑い声が漏れてくる。夜風が街路樹の銀杏を揺らし、乾いた葉擦れの音が、鈴虫の鳴き声に混じって聞こえた。
缶コーヒーを一口含むたび、冷たい金属の感触と、生ぬるい液体の苦さが交互に訪れる。そのたびに、前世で淳子に振られた夜の記憶が、より鮮明に蘇ってきた。大学二年の冬、彼女の実家の前で、寒さに震えながら何時間も立ち尽くしたこと。ようやく出てきた彼女が、見たこともない冷たい目で僕を見下ろし、「もう、終わりにしよう」と言ったこと。僕はその場に泣き崩れ、彼女の足にすがった。淳子はそんな僕を、まるで道端の汚れた雪でも見るような目で見つめていた。
あのときの無力感と屈辱が、いま、缶コーヒーの苦味と一緒に喉の奥へと流れ落ちていく。
それから一時間ほど経っただろうか。笑い声が途絶え、窓から漏れる話し声も聞こえなくなった。そして、突然、角部屋の明かりが消えた。
僕の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
暗くなった窓を見上げながら、僕は自分の心臓が、普段よりもずっと速く、ずっと大きく脈打っているのを感じていた。耳の奥で、血液の流れる音がごうごうと響いている。指先は缶コーヒーの冷たさで感覚が麻痺していたが、掌だけはじっとりと汗ばんでいた。
淳子はいま、あの男に抱かれている。
その事実が、僕の胸の裡で、熱い塊となって渦を巻く。想像が、勝手に頭の中のスクリーンに映像を映し出す。男の手が彼女のタートルネックの裾から入り込む。ブラウスの下の白い肌が露わになる。男の唇が彼女の首筋を這い、淳子が小さく息をのむ。
そこまで想像したとき、僕は気づいた。嫉妬と同時に、ペニスがズボンの前を窮屈にさせていることに。こんな状況で、なぜ、と思う。しかし、身体は正直だった。淳子が他人の腕の中でどう反応しているのか、それを想像することが、ある種の倒錯した興奮を僕にもたらしていた。
窓からは、かすかにくぐもった声が聞こえる。淳子のものか、男のものか。それすら判別できない程度の音量だったが、そこに性行為の気配を感じ取るには十分だった。
小一時間ほどして、パッと部屋の明かりが再び灯った。
それから間もなく、ドアの開く音がし、階段を下りる足音が静かな夜道に響いた。僕は駐車場の陰から身を乗り出し、息を潜めて様子を窺う。
淳子が、一人でアパートを出てきた。
彼女の髪は、先ほどよりも少し乱れていた。後ろで束ねていた髪留めが緩み、何本かの黒髪が頬にかかっている。タートルネックの首元も、わずかにずれていた。二階の窓から、男の声が追いかけるようにして聞こえてくる。
「泊まっていったら」
少し掠れた、余韻の残る声だった。
「ううん、終電に間に合うから……」
淳子は振り返らずにそう答え、足早に歩き出した。スカートの裾が、夜風にふわりと揺れる。
男はそれ以上追ってこなかった。
淳子は自分の髪を手櫛でさっと直しながら、地下鉄の駅へと向かう道を一人で歩いていく。その後ろ姿は、どこか憑き物が落ちたかのように、足取りが軽かった。僕は彼女が見えなくなるまで、その背中を見つめ続けた。
彼女が姿を消してから、ようやく僕は壁に凭れかかっていた身体を起こした。手の中の缶コーヒーは、すっかり冷え切っていたが、まだ半分ほど残っている。僕はそれを一息に飲み干した。ぬるくなった液体は、さっきよりもさらに苦く、舌の奥にえぐみだけを残した。
淳子はあの男と身体を重ねたのだろう。まず間違いない。しかし、彼女は泊まらなかった。引き留める声を振り切り、夜の街へと一人で帰っていった。
僕は空き缶を自販機横のゴミ箱に放り込み、暗がりの中で口元をほころばせた。それは笑みと呼ぶにはあまりにも歪で、自分でも薄気味悪いと思える表情だったが、止められなかった。
淳子は、比べたのだ。あの男と、僕を。
そして、あの男は僕に及ばなかった。少なくとも、彼女の身体が満足する水準には達しなかった。なぜなら、僕のペニスは十八センチを超え、亀頭は鍛錬の末に大きく重く張り出し、彼女の膣の奥も、アナルの窄まりも、僕の形に馴染みきっているからだ。あの男の、おそらくは十代そこそこの未熟な性器では、淳子が僕で知ってしまった快楽の閾値を越えられなかったのだろう。
僕は彼女に、他の男を試す余地をわざと残していた。今生では学生寮を選び、アパートを借りず、週一回の逢瀬を守り続けた。それは前世と同じ条件を作るためだった。だから彼女は、誘惑の網にかかった。かかったうえで、彼女は自分自身の身体と感覚で、どちらの男が優れているかを検証したのだ。
その結果が、先ほどの帰り際の足取りだ。
僕は駐車場を出て、夜の街を寮へと歩きながら、前世の惨めな自分に語りかけた。なあ、見ているか、前世の僕。おまえが泣いてすがっても振り向かなかった彼女が、いま、自分から僕のところへ戻ろうとしている。他の男では満たされない身体になって。そう思うと、胸の裡でくすぶっていた嫉妬の炎が、するりと勝利の甘い熱に姿を変えていくのを感じた。
夜空には、半月がかかっていた。雲が早足で流れ、月明かりを時折遮る。街路樹の銀杏の葉が、風に舞い散り、アスファルトの上で乾いた音を立てた。
缶コーヒーの苦味はまだ舌に残っていたが、それはもはや、前世の記憶に付随する苦さとは違っていた。この苦さは、勝利の味だ。他の男に抱かれた彼女を見張り、それでも最後には彼女が僕のもとに戻ってくることを確信する。その歪んだ甘美さを、苦味が引き立てている。
明日、あるいは明後日、淳子から電話があるだろう。前世では夏休み明けに別れ話を切り出してきた彼女が、今度は違う言葉を紡ぐはずだ。僕はそれを、寮の電話の前で、落ち着き払った顔で待つつもりだった。だがその前に、今週末の逢瀬で、どのように彼女を恥辱で責め立てようか、その想像だけでペニスが芯を持ち始めている自分がいた。
第11章 翌日の電話──「和也に早く逢いたいよ」と切なく懇願する声

第11章: 翌日の電話──「和也に早く逢いたいよ」と切なく懇願する声
あの夜から一日が過ぎ、十月の日曜日は朝からどんよりとした雲が低く垂れ込めていた。学生寮の窓から見える街路樹の銀杏は、昨夜の風でだいぶ葉を落とし、歩道に黄色い絨毯を敷き詰めている。僕は午前中を部屋で過ごし、ベッドに寝転がって天井の木目をぼんやりと眺めていた。昨夜の光景──淳子がサークルの先輩のアパートの明かりが消えた瞬間、そして一時間ほどして彼女が一人で帰っていく後ろ姿──が、瞼の裏にこびりついて離れない。
あのとき味わった嫉妬の痛みは、今も胸の奥でチリチリと燻っている。それは前世で淳子に振られたときの無力感とそっくり同じ種類の痛みだった。しかし、違うのはその結末だ。前世の僕は泣いてすがり、彼女の冷たい視線に切り捨てられた。だが今回は、彼女が自らあの男のもとを去った。たとえ身体を許したとしても、心までは渡さなかった──いや、身体すらも満足させられなかったのだろう。
その事実を反芻するたびに、胸の痛みは少しずつ、別の感情へと姿を変えていった。それは勝利の甘さだ。前世で味わった苦い屈辱を、今回は自分の手で塗り替えているという確かな手応え。
昼過ぎになって、僕は共用の洗面所で顔を洗い、部屋に戻って株価のチェックをしていた。机の上には競馬新聞と、手書きの投資ノートが広げてある。バブルはまだ続いているが、ピークは近い。そろそろ仕手株を手放す時期を考えねばならない。電卓を叩きながら、頭の片隅で淳子からの電話を待っている自分に気づいた。
そして、午後三時を回った頃だった。
寮内放送のスピーカーが、耳障りなハウリングのあとに、当番の学生の間延びした声を吐き出した。
「二〇三号室の香坂さん、お電話です」
「お」がついた。女性からの電話だ。
僕は電卓を置き、ゆっくりと立ち上がった。心臓が、鼓動を一段階上げる。階段を下りる足音が、やけに大きく響く。寮の入口脇にある共用電話の受話器は、机の上に置かれたままだった。僕はそれを手に取り、耳に当てる前に一度だけ小さく息を吐いた。
「もしもし、香坂です」
受話器の向こうから、かすかな衣擦れの音が聞こえた。それから、一拍の沈黙。
「……和也くん」
淳子の声だった。それは、僕の記憶にあるどの彼女の声とも少し違っていた。普段の柔らかく落ち着いた声音でもなければ、プレイ中に見せる従順なささやきでもない。もっと切実で、まるで喉の奥から絞り出すような響きがあった。
「淳子」
僕が名前を呼ぶと、受話器の向こうで彼女が小さく息をのむ気配があった。ほんの一瞬の沈黙のあと、彼女は少し早口で、言葉を繋ぎ始めた。
「あのね、急に電話してごめんね。昨日ね、サークルの集まりがあって……それで、なんていうか、その……」
淳子はそこで言葉を詰まらせた。僕は黙って続きを待つ。受話器を握る手に、じわりと汗が滲んだ。彼女が何を言おうとしているのか、僕にはもうわかっていた。昨夜の出来事を、彼女なりに言葉にしようとしているのだ。でも、それをそのまま口にすることはできない。だから、別の言葉を探している。
「和也くんの……声が、聞きたくなっちゃって」
そのひと言が、思いのほかストレートに僕の胸に刺さった。彼女の声は少し掠れていて、まるで泣いたあとのようにかすかに震えている。
「何かあった?」
僕はあえて、何も知らないふりで尋ねた。受話器の向こうで、淳子が息を整える気配が伝わってくる。
「ううん、別に何かあったわけじゃないの。ただ……なんだろう、急に、和也くんの声が聞きたくなって」
彼女はそう言って、少しだけ声のトーンを上げた。普段の明るさを取り繕おうとしているのが、かえって痛々しい。
「それだけなの。変だよね、日曜の昼間から急に電話したりして」
「変じゃないよ」
僕はなるべく穏やかな声で応じた。寮の廊下を、誰かがスリッパを引きずって歩いていく音が遠くに聞こえる。夕方のチャイムまで、まだ二時間ほどあった。
「それでね……来週の週末、和也くん、空いてる?」
淳子の声が、少しだけ弾んだ。だがその裏に、なにかを必死に押し隠しているような緊張が感じられる。
「たぶん空いてると思うよ」
「じゃあさ……お泊まり、できないかな。私、親にちゃんと言っておくから」
「お泊まり?」
僕は少しだけ驚いたふりをして聞き返した。本当は、この電話がかかってくる前から、彼女がそんな提案をしてくるだろうことは予想していた。彼女は昨日、別の男に抱かれた。そして、満たされなかった。その空白を埋めるために、僕を欲しているのだ。
「うん。金曜の夜から、土曜にかけて。この前みたいに、居酒屋でごはん食べて、それから……」
淳子はそこで言葉を切った。「それから」の先を口にするのをためらっている。そのためらいが、電話越しにもはっきりと伝わってきた。
「淳子、どうしたの? なんか、声が変だよ」
僕は少しだけ踏み込んでみることにした。受話器の向こうで、淳子が小さく息を吐く。何かを言おうとして、やめる。その繰り返しのあと、ようやく彼女は口を開いた。
「和也くんに、早く逢いたいよ」
その声は、さっきまでの明るさを取り繕ったものとは全然違っていた。もっと本音に近い、剥き出しの響き。まるで何十年ぶりかに再会した恋人のように、切なく、そしてどこか懇願するような色を帯びている。
僕は胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。これだ。この声が聞きたかった。前世で僕が決して引き出せなかった、彼女の心からの渇望。この一瞬のために、僕はもう一度人生をやり直してきたのかもしれないとさえ思えた。
「逢いたいよ、和也くん。すごく、すごく逢いたいの」
淳子はもう、取り繕うのをやめていた。声はまだ小さいが、その一語一語がはっきりと僕の耳に届く。彼女の声の震えが、受話器を通して僕の手のひらにまで伝わってくるようだった。
「何かあったんだね、淳子」
僕は静かにそう言った。追及する口調ではない。ただ、彼女の言葉を受け止めるための、柔らかな問いかけだった。
受話器の向こうで、淳子が息を呑む。しばらくの沈黙。寮の外では、軽トラックが古いエンジン音を響かせて通り過ぎていった。
「……和也くんは、なんでもわかっちゃうんだね」
彼女はそう言って、かすかに笑った。それは自嘲にも似た、か細い笑い声だった。
「昨日ね、サークルの集まりがあって……それで、そのあと、ちょっと先輩と二人で話してて」
淳子は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。僕は黙って耳を傾ける。
「そしたらね、なんか、すごく和也くんの声が聞きたくなって。それで今日、電話しちゃった」
彼女は「先輩と二人で話してて」のあとに何があったかまでは言わなかった。でも、その言葉の隙間に、昨夜の出来事の輪郭が浮かび上がる。彼女は僕に嘘をついているわけではなかった。ただ、すべてを話すことができないだけだ。
「よかった」
僕は短くそう言った。
「え?」
「淳子が、僕の声を聞きたくなってくれて。すごく嬉しいよ」
それは本心だった。ただし、淳子が想像するような意味とは少し違う。僕を選んだことで間違いなかったと確信した喜び。彼女の身体が他の男では満たされず、僕を求めて戻ってきたという事実を、この電話の向こうの声から確かに感じ取った満足感。それを「嬉しい」という一語に込めたのだった。
「和也くん……」
淳子の声が、ふっと和らいだ。彼女は少しだけ鼻声になっている。
「来週の週末、絶対に空けておいてね。金曜の夕方、いつものところで待ち合わせしよう」
「わかった」
「それでね……」
淳子はそこでまた言葉を切った。受話器の向こうで、彼女が衣擦れの音を立てる。なにかを言おうか、どうしようか迷っている気配が、ありありと伝わってきた。
「私ね……和也くんのこと、ほんとに、大好きだよ」
その言葉は、これまで彼女が口にしてきたどんな愛の言葉よりも、真っ直ぐで裸だった。照れや恥じらいの膜を剥ぎ取った、剥き出しの本音。僕はそれにすぐに返す言葉が見つからず、ほんの一瞬だけ間を空けた。
「僕もだよ、淳。来週を楽しみにしてる」
「うん。じゃあ、またね……和也くん」
「またね」
受話器を置くと、掌が汗でしっとりと濡れていた。僕はその場に立ち尽くし、壁にもたれかかる。廊下の蛍光灯が、低いハム音を立てて点滅している。誰もいない寮の入口には、日曜の午後の気だるい静けさが満ちていた。
淳子は僕を選んだ。
その事実が、じわじわと胸の奥に染み渡っていく。それは、前世の僕が決して手に入れられなかったものだ。あのときの僕は、彼女が他の男に心を奪われていくのをただ呆然と見ていることしかできなかった。泣いてすがり、惨めに振られ、男としての自信も尊厳もずたずたにされた。それからの数十年、僕はその傷を抱えたまま、ただ生き延びてきただけのサラリーマンだった。
しかし、今生は違う。
僕は成績優秀でクラスのまとめ役、身体を鍛え上げ、ペニスは二十センチを超え、亀頭は大きく重く張り出している。競馬と株で五千万の資産を築き、将来の起業プランもある。何より、淳子の身体を、膣もアナルも、自分の形に馴染ませてきた。彼女はあの先輩のセックスでは満たされなかった。それは、昨夜の彼女の足取りが雄弁に物語っていた。
僕は自分の部屋に戻り、机の前に座った。窓の外では、厚い雲の切れ間から、かすかな夕日が差し込み始めている。机の上に広げたままの競馬新聞が、オレンジ色の光を受けて、紙面のインクの匂いをほのかに立ちのぼらせていた。あのインクの匂いが、高校二年の秋、初めて競馬場の場外馬券売り場に足を運んだ日の昂揚を思い出させる。十六万円を握りしめ、サクラオーの単勝に賭けたあの瞬間。十四・六倍のオッズが的中し、二百三十万円以上になったときの、頭の芯が痺れるような高揚感。あの感覚と、今、淳子を勝ち取ったという実感は、不思議とよく似ていた。
僕は週末、彼女とどう過ごすかを考え始めた。ただ優しく抱くだけでは足りない。彼女は一度、他の男のもとへ行ったのだ。そのことを、言葉ではなく身体でわからせてやる必要がある。彼女が僕から離れることが、どれほど愚かなことかを、彼女自身の肌と粘膜に刻み込むための夜にするべきだ。
たとえば、浴槽でたっぷりと時間をかけて愛撫し、彼女がどうしても欲しくなるまで焦らす。ベッドでは、まずアナルをねだらせるように仕向け、彼女が羞恥に耐えながら自分から「入れて」と懇願するまで待つ。そして、亀頭を窄まりに押し当て、彼女がどんな男のペニスよりも僕のもののほうが優れていることを、一突きごとに思い知らせる。
そんな想像をしているうちに、ズボンの前が窮屈になってきた。僕はベルトを緩め、ペニスを取り出す。まだ完全には勃起していないが、それでも亀頭は十分に重く、掌にずっしりとした存在感を伝えてくる。カリの張り出しを指でなぞりながら、来週末の逢瀬で彼女をどう啼かせてやろうかと、僕はしばらくのあいだ、その昂ぶりを静かに味わっていた。
寮の外では、日曜の夕暮れが静かに更けていく。どこかの部屋から、ラジオの歌謡曲がかすかに漏れ聞こえていた。バブルはもうすぐ弾ける。それを知っているのは自分だけだ。そして、淳子がもう僕の手から逃れられない身体になったことも、いまはまだ僕だけが知っている真実だった。
第12章 明かりが消えたあとで──わたしが和也を選び直すまで

第12章: 明かりが消えたあとで──わたしが和也を選び直すまで
あの夜のことを、わたしはきっと一生忘れない。何かを確かめたいような、それでいて最初から答えを知っていたような、そんな矛盾した渇きが、胸の奥で静かに燻っていたのだと思う。
十月も半ばを過ぎた金曜日、サークルの練習が終わったあとのことだった。体育館の蛍光灯がパチパチと音を立てて消えていく中、先輩がふと振り返って、わたしだけを見て言ったのだ。「ちょっと二人で飲まない?」その声は、やわらかなのに、どこか有無を言わせない響きを持っていた。
先輩は合唱サークルの三年生で、いつも輪の中心で笑っている人だった。茶髪をゆるく後ろで束ねていて、Vネックのニットが肩の線をきれいに見せている。話し方も柔らかく、わたしが何か口を開くたびに、目を細めて笑ってくれる。和也が決して見せないような、ちょっとした気遣いや、大人びた仕草のひとつひとつが、そのときのわたしには妙にまぶしく映った。
和也以外の男性と、こんなふうに二人きりになるのは初めてだった。
親には「今日、友達の家に泊まるかもしれないから」と、まるで自分自身に言い訳をするみたいに、さりげなく告げておく。スマホの画面を閉じた指先が、ほんの少しだけ震えていた。胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。それはたぶん、和也を裏切ることへの、小さな棘だったのだと思う。でも、その痛みはすぐに、自分でもよくわからない高揚感にかき消されてしまった。和也より優れた人がいるかもしれない──そんな淡い期待が、まるで毒を含んだ羽根のように、心のすみっこでふわりと舞い上がっていた。
居酒屋は、街中の若者が多い繁華街近くの、赤ちょうちんが並ぶ路地の奥にあった。磨りガラスの向こうから、楽しげなどよめきが漏れてきている。先輩が手際よくメニューを指さしながら、サークル内での私の呼び名で「エコーは何が好き?」と訊ねた。その声は落ち着いていて、店員を呼ぶ仕草もどこか洗練されていた。まるで、ずっと前からこういう場所に通っているみたいに、自然で無駄がない。そんな先輩の大人っぽさが、和也とは違う空気を纏っていて、わたしの胸をほんの少しだけどきどきさせた。
梅酒のソーダ割りを頼むと、氷のからん、という音が心地よく耳に届く。先輩の話はどんどん面白くなっていった。サークルの裏話、変わり者の教授の奇妙な癖、来年の合宿で計画しているサプライズ。わたしが相槌を打つたびに、先輩は嬉しそうに目を細め、もっと話し込もうとする。その視線には、和也が見せるような包み込むあたたかさとは別の、探るような、それでいてどこか期待を含んだ光があった。
そして三杯目の酎ハイが運ばれてきたとき、先輩がふと席を立った。戻ってきた先輩は、なぜかわたしの隣に腰を下ろす。さっきまでは向かい合っていたのに、急に距離が縮まったことで、私の心臓がとくん、と跳ねた。お酒のせいだけじゃない、肌のすぐ近くにある他人の体温に、身体が勝手に反応してしまう。
先輩の肘が、さりげなくわたしの腕に触れた。その触れ方は、偶然を装うにはあまりにも計算されていて、けれど不思議と嫌悪感は湧かなかった。和也とのセックスに慣れてしまった身体が、もしかしたら、他の男性でも同じように気持ちよくなれるのかもしれない──そんな好奇心が、アルコールで緩んだ思考の隙間から、ひょっくりと顔を出す。先輩の体温は和也より少し低くて、それがかえって新鮮だった。和也の熱は、触れた瞬間にじわりと溶け込んでくるような熱だけど、先輩の熱は、表面をかるくなぞるような、醒めた温度。
「エコーってさ、話しやすいよね」
耳元に近づけられた声が、くすぐったくて、頭の奥がぼうっとしてくる。まるで子守唄を聴いているみたいに、思考の輪郭が溶けていくようだった。わたしは、いつの間にか先輩の目をじっと見つめ返していたのだと思う。先輩の瞳の奥で、かすかに何かが揺れた。
そのとき、先輩の指が、そっとわたしの手の甲に重なった。
びくっとして手を引っ込めようとしたのに、なぜか力が入らなかった。それどころか、わたしの指は、まるで自分の意思を持っているみたいに、ゆっくりと先輩の指を握り返していた。和也の手は、もっと大きくて、節くれだっていて、握られるたびに安心感で満たされる。でも、先輩の手は、細くて、少しだけ湿っていて、握り返すことでかえって不安になるような感触だった。それなのに、わたしは手を離せなかった。
胸がずきんと痛んだ。でも、その痛みの正体を考える余裕もないまま、先輩がわたしの耳元に顔を近づける。吐息がかかる距離で、声が、ゆっくりと鼓膜をなぞる。
「ねえ、このあと……僕の部屋で飲み直さない?」
お酒の匂いと、ほんの少し煙草の匂いが混ざった息が、首筋をくすぐる。その瞬間、頭の奥で和也の顔がちらりと浮かんだ。けれど、浮かんだそばから、好奇心という名の甘い毒が塗り潰していく。
わたしは、ただ黙って俯いて、小さく、こくんと頷いた。
居酒屋を出たあとの景色は、今思い返しても、どこか夢の中のできごとみたいにぼんやりとしている。地下鉄で三駅。車内の蛍光灯がやけに白くて、吊り革ががたんごとんと揺れるたびに、わたしの心も一緒に揺さぶられているみたいだった。先輩は隣に座って、何か楽しそうに話していたけど、内容はほとんど耳に入ってこない。ただ、さっき手を握られた感触だけが、手のひらの上にまだ残っていた。
駅を出て、大学近くのコンビニに寄る。自動ドアが開くたびに、冷たい秋風がスカートの裾をふわりと持ち上げて、タイツ越しにひやりとした空気が忍び込む。先輩は迷わず缶酎ハイと、ツマミのチーズを手に取った。その仕草は手慣れていて、こういう誘いを何度もしてきたんだろうな、と、どこか他人事のように思った。星が、やけに綺麗な夜だった。
先輩のアパートは、築十年くらいの二階建てで、外階段を上がった角部屋だった。階段の鉄板が、一歩踏みしめるたびにカン、カン、と夜の静けさに響く。その音が、まるで自分の心臓の鼓動みたいに聞こえて、わたしは無意識に胸のあたりをぎゅっと押さえていた。
ドアを開けると、ほんの少し埃っぽい匂いが鼻についた。六畳ほどのワンルームは、学生専用らしく、思ったより綺麗に片付いている。ベッドはシングルで、グレーのカバーがきちんとかかっていた。小さなテーブルと、それからテレビとラジカセ。壁には合唱の楽譜が何枚も貼られていて、窓際にはギターが無造作に立てかけてある。窓からは外の街灯の光が、オレンジ色の薄膜みたいに差し込んでいた。
「散らかってるけど、まあ座ってよ」
先輩はそう言って、ベッドの端をぽんぽんと叩いた。わたしはスカートの裾を気にしながら、シングルベッドの縁に腰を下ろす。スプリングがぎしりと軋んで、その音に、これから起こることの予感が混ざる。先輩は机の椅子に座って、缶酎ハイのプルタブを開けた。しゅわっ、と炭酸の音が、やけに大きく部屋に響く。
サークルの噂話を、先輩は面白おかしく話してくれた。誰と誰が付き合っているとか、顧問の先生の変な口癖とか。わたしは笑いながら相槌を打っていたけれど、さっきから、心のどこかがふわふわと浮いているような感覚が抜けない。お酒のせいだけじゃない。これから何かが起きる、という期待と不安が、まるで水と油みたいに分離したまま、胸の中で揺れている。
ふと、先輩の声のトーンが変わった。
「エコーは、彼氏がいるんだよね?」
その瞬間、空気が、ぴん、と張りつめた。先輩の目は笑っていない。試すような、それでいて確信めいた光をたたえている。
「今日、僕の部屋に来ても良かったの?」
その言葉は、まるで鍵のかかった扉を、内側からゆっくりと開けるみたいに、わたしの奥深くに触れた。ずるい聞き方だと思った。だって、答えはもう、ここに来たこと自体が示しているのに。
「先輩、いじわるなこと聞きますね……」
そう言って、わたしは少しだけ笑ってみせた。でも、声は掠れていて、語尾がかすかに震えていたと思う。
その会話が、合図だった。
先輩が、ゆっくりと椅子から立ち上がり、わたしの隣に腰を下ろした。スプリングがぎしりと軋んで、二人分の体重を受け止める。先輩の体温が、肩越しにじわりと伝わってくる。さっきまでは机を挟んでいた距離が、一気に数センチに縮まって、息遣いさえ聞こえそうな近さだった。
そして、先輩の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
わたしは、目を閉じた。睫毛の先がかすかに震えているのが、自分でもわかった。唇に、柔らかいものが重なる。先輩の唇は少しだけ乾いていて、さっき食べたチーズの塩気がかすかにした。すぐに、先輩の舌がわたしの唇をこじ開けるように入ってくる。
和也のキスは、もっとずっと優しかった。
そんな考えが、ぽん、と頭の片隅に浮かんだ。先輩の舌は、わたしの口の中でくねくねと動き回っている。それなのに、和也が舌を絡めてくるときの、あのぞくぞくするような快感が、どうしても思い出せなかった。和也の唾液は、もっととろりと熱くて、混ざり合うだけで身体の芯が溶けそうになったのに。先輩の唾液はただ生温くて、息の匂いも、和也とは違う。違うからこそ、かえって和也のことが、鮮明に頭の中に蘇ってくる。まるで、誰かのキスを、ガラス越しに眺めているみたいな、変な気持ち。
でも、それでも、違う男の人に触れられているという事実だけで、身体の奥がきゅうっと疼いた。和也以外の手が、和也以外の唇が、わたしの肌に触れている。その背徳感が、麻薬みたいに脳を痺れさせる。
先輩の手が、わたしの胸に伸びてきた。ブラウスの上から、遠慮がちにふくらみをなぞる。和也の手つきとはまるで違う、探り探りの動き。和也は、もっと確信を持って、でも焦らすように、周りからじわじわと攻めてくるのに。
わたしは、思わず口を開いた。
「先輩……明かり、消してもらえますか……?」
自分の声が、ひどくか細く聞こえた。恥ずかしさと、それから、これから自分がしようとしていることを、真っ暗な闇に隠してしまいたいという祈りにも似た感情だった。
「わかった」
先輩が立ち上がり、壁のスイッチに手を伸ばす。かちり、という音と同時に、部屋が闇に包まれた。でも、完全な暗闇ではなかった。窓の外の街灯の光が、薄いオレンジ色のヴェールみたいに部屋の中を満たしている。その光が、先輩の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていて、それがかえって現実感を希薄にしていた。
先輩が、再びわたしの隣に腰を下ろす。そして、今度はためらいなく、わたしの身体をベッドに押し倒した。スプリングがぎしりと大きく軋んで、背中にシーツの冷たさが伝わってくる。先輩の手が、ブラウスの裾から入り込み、布地をたくし上げた。夜気に晒されたお腹の肌が、ひやりと縮こまる。
そして、先輩の指が、ブラジャーの下から直に乳房をまさぐってきた。
「あっ……」
思わず声が漏れた。和也とは違う手。和也より少し細くて、指の腹が頼りない感触で、ふくらみの丸みを確かめるみたいに動いている。和也の手は、もっと大きくて、熱くて、触れられただけで乳房全体が包まれているような安心感があったのに。なのに、今、まったく違う手に触れられているというその事実だけで、乳首がきゅっと硬くなっていくのが自分でもわかった。
ブラジャーが、ぐいっとたくし上げられる。冷たい空気が、むき出しになった乳首に触れて、ぴりっとした刺激が走る。そして、先輩がわたしの胸に顔を埋めてきた。湿った吐息が乳房にかかり、次の瞬間、乳首がふくよかな唇に包み込まれる。
ちゅっ……くちゅ……
舌先で転がされ、軽く吸い上げられる感覚。気持ちいい。それは間違いなく気持ちいいのだけど、和也の愛撫の気持ちよさとは、決定的に違っていた。和也が乳首を吸うときは、もっとずっと強くて、それでいて優しくて、吸われるたびに子宮がきゅんきゅんと反応するような、身体の奥と直結した快感があった。今のは、ただ表面をなぞられているだけの、薄い気持ちよさ。
それでも、知らない男に触られているという状況そのものが、わたしの身体を確実に濡らしていった。和也とのセックスで、男性というものに慣れてしまった身体が、相手が誰であれ、与えられる刺激に素直に反応してしまう。まるで、条件反射のように。
先輩の手が、徐々に下へと移動していく。お腹をなぞり、腰骨のあたりをくるくると撫でてから、太腿の内側をゆっくりと這い上がってくる。その動きは、わたしが感じていることを確かめるみたいに、慎重で、どこかぎこちなかった。
そして、先輩の指が、わたしの秘所に届いた。
ショーツの上からでもはっきりとわかるほど、もうそこは濡れていた。布地が湿り気を帯びて、割れ目の形にぴったりと張り付いている。先輩の指が、その湿った布地の上から、ゆっくりと線をなぞる。何度も、何度も。まるで、そこに何があるのかを確かめるみたいに。
(もう……わかってるのに……)
もどかしかった。和也なら、とっくに布地をずらして、直接、一番感じる場所を探してくれているのに。わたしは唇を噛みしめて、自分から腰を動かしそうになる衝動を必死に抑え込んだ。
ようやく、先輩の指がショーツを横にずらした。布地が食い込んで、かえって恥ずかしい。露わになった秘所に、夜の空気がひやりと触れる。そして、先輩の指が、迷うことなく濡れた襞のあいだをなぞり、陰核の先端に触れた。
「ひっ……」
びくん、と腰が跳ねた。先輩の指が、小さな蕾をくりくりとこすり始める。気持ちいい。でも、和也の指みたいに、もっと深い場所から這い上がってくるような快感じゃない。ただ、表面の神経が刺激されているだけの、浅い気持ちよさ。
「エコーちゃん……感じてる?」
先輩の掠れた声が、闇の中で妙に大きく響いた。
「彼氏より、気持ちいい?」
そう言いながら、先輩の指が、ぬるりと膣の中に押し込まれた。
「ダメっ……そんなの……言えない……」
わたしは首を振った。でも、本当は、言えない理由が違った。気持ちよくないから言えないんじゃない。和也の方が、圧倒的に、比べ物にならないくらい気持ちいいから、それを口にするのが怖かったのだ。
先輩の指は、ただまっすぐに出し入れを繰り返すだけだった。和也の指は、もっと長くて、節のひとつひとつがわたしの内側をなぞりながら、一番感じる場所を探し当て、そこをぐりぐりと押し潰してくれるのに。今、わたしの中に入っている指は、ただ異物として存在しているだけで、快感を生み出すためのものではない気がした。
(和也なら……)
まただ。何度も何度も、わたしの頭の中は和也でいっぱいになっていく。和也の指の太さ、長さ、節の形。和也の指が内側の襞を擦り上げるたびに、目の前が真っ白になるような快感が走ったこと。そして、何よりあの熱さ。指先だけで、わたしの全身を火照らせてしまうような、あの熱。
先輩が、いったん指を抜いた。ぬちゃり、という湿った音が、やけに生々しく耳に届く。暗がりの中で、先輩が自分の服を脱ぐ気配がした。布擦れの音、ベルトの金具がかちんと鳴る音。
「エコーちゃん、下着とスカート、脱ごうか」
先輩の手が、わたしの腰に伸びてくる。その手つきが、あまりにも手慣れていなくて、かえって焦ったさを感じた。わたしは、自分でスカートのホックを外した。そして腰を浮かせて、先輩が脱がせやすいようにサポートする。そんな自分が、ひどく滑稽に思えた。これからしようとしていることへの、せめてもの主体的な関与。あるいは、ただ早く終わらせたいという無意識の表れだったのかもしれない。
上着も自分で脱いで、全裸になった。肌に直接、シーツの冷たさが伝わってくる。窓からの街灯の光が、わたしの裸体をぼんやりと照らし出しているのがわかった。
同じタイミングで、服をすべて脱いだ先輩が、わたしの上に覆い被さってきた。男の人の体重。和也より少し軽い。和也の重みは、のしかかられることでかえって安心するような包容力があったけど、先輩の重みはただの重圧だった。
「エコーちゃん、彼氏より気持ちよくさせてあげるからね」
先輩が、耳元でそう囁いた。そして、わたしの太腿をゆっくりと開かせる。露わになった入り口に、熱い塊が押し当てられる感覚。ゴムの薄い膜越しでもわかる、男性器の熱。先輩の腰が、ゆっくりと前に進められた。
ぬるり、と異物が入ってくる感覚。
「あ……なに……」
思わず、声が漏れた。先輩のペニスは、間違いなくわたしの中に挿入された。ぬるついた感触が膣壁をこすり、確かにそれはセックスだった。
でも、気持ちいいと思うのに、なにかが決定的に違う。
圧迫感がない。
和也のときのように、膣の入り口が無理やり押し広げられるような、あの圧倒的な満たされ感がないのだ。和也のペニスが入ってくるとき、わたしはいつも「おっきい……」と息が止まるような感覚に襲われた。内側の襞のひとつひとつが押し広げられ、奥まで届かれるたびに、子宮の入り口をぐりっとノックされるような衝撃があった。それがない。ただ、異物が入ってきて、それがゆっくりと動いているだけだった。
「エコーちゃん、どう?感じてる?気持ちいい?」
先輩が、息を弾ませながら聞いてくる。その声には、自分が気持ちよくさせているという確信めいたものが滲んでいた。
「あっ……あっ……先輩、気持ちいいです……」
わたしは、わざとらしく喘ぎ声を上げた。口から出る声が、自分のものとは思えないほど演技じみている。でも、そうしないと、この場のもたなさに押し潰されてしまいそうだった。
(和也は……そんなこと、聞かなくても……)
和也は、わたしが気持ちいいかどうかなんて、わざわざ聞いたりしない。わたしの身体の反応、呼吸の乱れ、膣の締め付け、そのすべてを感じ取って、絶対的な確信を持ってわたしを絶頂へ導いてくれる。和也のピストンは、大きく、ゆっくり、深く。そして、急に角度を変えて、わたしの一番敏感な場所をぐりぐりと押し潰す。まるで、わたしの身体の中に設計図があるみたいに、正確に、計算され尽くした動き。
先輩の腰の動きは、ただ規則正しいだけだった。まるで、ひとりでに揺れる振り子みたいに、一定のリズムで出し入れを繰り返す。時々、思い出したように深く突き入れられるけど、角度がずれているのか、本当に気持ちいい場所には当たらない。
「ねっねっ、気持ちいいでしょ。彼氏のちんぽより、気持ちいいって言ってごらん?」
先輩が、再び耳元で囁いた。その言葉に、わたしの中の何かが、ぷつん、と切れた。
(うざっ……)
心の中で、はっきりとそう思った。こんなに気持ちよくないのに、なぜこの人は、自分が気持ちよくさせていると思い込んでいるんだろう。
(なに、そんなに気持ちよくないんですけど。何を酔ってるの……)
挿入されている途中から、わたしは一気に冷めていった。まるで、冷めたフライパンに油が残っているみたいに、体温だけがそこにあって、でももう温まることはなくて、ただ濁った液体が揺れているだけ。さっきまで感じていたはずの、かすかな快感さえも、急速に引いていく。
天井の木目を、ぼんやりと眺めていた。街灯の光が作る影が、ゆらゆらと揺れている。鈴虫の声が、窓の外から聞こえていた。秋の夜風がカーテンを揺らすたびに、オレンジ色の光の筋が、部屋の中をふわりと横切る。
私は、適当に喘ぎ声を上げながら、先輩に早くイって終わってもらおうと、膣に力を入れた。和也が気持ちいいと言ってくれた動作──内壁をきゅっと締め付ける、その動きを再現する。
「あっ、僕、イキそうだよ……エコーちゃんもイッていいよ……」
先輩の声が上ずっている。よかった、これで終わる、と心の中でほっとした。
「はい……イク、イク、イク……」
棒読みだった。自分でもわかるくらい、感情のこもっていない声。でも、先輩はそれに気づかない。先輩は、自分の腰の動きだけに夢中で、わたしの反応なんてもう見えていないのだろう。
びくん、と先輩の腰が震え、そのままぐったりと動かなくなった。あっけなく果てた、という印象だった。和也は、もっと長く、深く、わたしが何度も絶頂を迎えるまで決して終わらなかったのに。
わたしの中から、しなだれたペニスが抜けていく。一緒に抜けてきたコンドームの先端には、白濁した精液がたまっていて、それが街灯の光を受けててらてらと光っていた。そのとき初めて、わたしは先輩のペニスをきちんと見た。暗がりでもはっきりとわかるほど、それは小さかった。和也の、せめて三分の二もない大きさ。長さも、太さも、亀頭の張り出しも、何もかもが違う。
(男性のペニスって……みんな和也みたいな大きさじゃないんだ……)
そんな当たり前のことを、今さらながらに実感した。今までわたしは、和也のペニスが基準だと思っていた。セックスとは、あの圧倒的な質量に満たされ、子宮の入り口をぐりぐりと押し潰されることだと思っていた。でも、違ったのだ。
先輩は、自分のペニスを処理しながら、妙に得意げな口調で言った。
「ほら、エコーちゃんが気持ち良がっていたのが、これだよ」
そう言って、先輩は、コンドームにくるまれた自分のペニスを見せつける。さも、自分のペニスは立派だろうと言いたげな、その仕草。わたしは、その光景を冷めた目で見つめていた。心の中は、呆れと、それから急激に込み上げてくる後悔でいっぱいだった。
(何をやってたんだろう、わたし……)
ベッドの上で、裸のまま横たわっている自分が、急にひどく惨めに思えた。和也に悪い。和也に申し訳ない。和也に、抱かれたい。和也のあの大きな手で、ぎゅっと抱きしめられたい。和也のペニスで、奥まで満たされたい。和也じゃないと、もうダメなんだ。身体も、心も、全部が和也を求めている。
わたしは、さっと起き上がった。
「終電に間に合わなくなるから……」
それだけ言って、先輩の返事も待たずに、そそくさと服を着始める。ブラウスのボタンを留める指が、かすかに震えていた。スカートのホックを留め、乱れた髪を手櫛で直す。先輩が何か言っているけど、耳に入ってこない。もう二度と来ないだろう、この部屋。わたしは、振り返りもせずに、ドアを開けた。
外階段を駆け下りると、冷たい夜気が、火照った頬に心地よかった。見上げた空には、星がまだ綺麗に瞬いている。でも、さっき見たときのような美しさは感じなかった。ただ、遠くて、冷たくて、手の届かないものみたいに思えた。
髪はぐちゃぐちゃに乱れていて、スカートの裾にも皺が寄っている。誰かに見られているような気がして、何度も振り返ったけど、街灯の下には誰もいなかった。自分の足音だけが、コンクリートの上で、カツカツと寂しく響いている。
第13章 冷めたフライパンの油と地下鉄の缶コーヒー

第13章: 冷めたフライパンの油と地下鉄の缶コーヒー
地下鉄の座席に腰を下ろすと、ようやく脚の震えが止まった。窓の外では、見慣れた街灯の明かりが流れ去っていく。車内にはまばらな人影があるだけで、みんな疲れきった顔で吊り革に掴まっているか、うつむいて眠っているかだった。
あたしの隣には誰も座っていない。
それが、今はありがたかった。
膝の上で握りしめた缶コーヒーの熱さが、ひどく遠いものに感じられた。アルミ缶を包み込む指先が、じんわりとぬくもっていくのに、その熱が胸の奥まで届かない。まるで自分だけが、この車両の中でぽっかりと切り離されてしまったみたいだ。
先輩のアパートを飛び出してから、涙は一滴も出ていなかった。泣きたい気持ちはあるのに、なぜか涙腺がカラカラに干からびている。そのくせ、胸の奥にはどんよりと濁った油が溜まっていて、それが冷えきったまま、ゆらゆらと揺れているだけだ。
あの瞬間のことを、もう一度だけ思い返してみる。
先輩の指が、あたしの肌に触れたときの、あの違和感。和也くんの手はもっと大きくて、もっと骨ばっていて、触れられただけで身体の芯からほぐれていくような安心感があったのに、先輩の指はただ細くて、やわらかくて、まるで自分の一部じゃないものを撫でられているみたいな──そんな、よそよそしい感触だけが肌に残った。
あれは、なんだったんだろう。
先輩が悪い人だったわけじゃない。むしろ、優しかったと思う。キスだって、あたしが嫌がらないように気をつけながら、そっと唇を重ねてくれた。それなのに、あたしの身体は、まるで最初から鍵をかけていたみたいに、先輩のすべてを拒んでいた。
和也くんのキスは、違った。
あのひとの舌が、あたしの唇をこじ開けるときの、あのかすかな強引さ。息ができなくなるほど深く口づけられて、それでももっと欲しくなってしまう、あのどうしようもない渇き。歯列の裏側をなぞられて、舌のつけ根を吸われて、それだけで膝ががくがく震えてしまう──あの感覚を、先輩のキスはほんのひとかけらも思い出させてはくれなかった。
缶コーヒーを口に運ぶ。ブラックの苦さが舌の上で広がって、喉の奥をじわりと焼いた。
和也くんは、この苦さが好きだと言っていた。前に二人でラブホテルで過ごした朝、自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた横顔を思い出す。あのひとはいつも、何かを考えているようで、でもその中身をあたしには全部は見せなくて、それがちょっとだけ寂しくて、でも、だからこそずっと目が離せなかった。
「なんとなく落ち着くんだよ」
缶を両手で包み込みながら、和也くんはそう言った。あのときは、苦いだけのコーヒーのどこが落ち着くんだろうと不思議に思ったけれど、今ならその気持ちが少しだけわかる。甘ったるいものだけじゃ、どうにもならない夜がある。苦さが必要な夜が。
窓ガラスに映るあたしの顔は、ひどくやつれて見えた。アイラインが少し滲んでいて、髪は手櫛で直しただけだからまとまりがなくて、スカートの裾にはまだあの部屋の畳の跡がついているかもしれない。
あの部屋で、あたしは何をしていたんだろう。
先輩のペニスが入ってきた瞬間のことを思い出そうとして、でもやっぱり、あたしの記憶はそこでぷつりと切れてしまう。覚えているのは、天井の木目と、窓の外から聞こえる鈴虫の声だけ。あとは全部、まるで霧の向こう側に隠れてしまったみたいにぼやけている。
でも、それでいいのかもしれない。
あたしの身体は、ちゃんと覚えていてくれたんだ。和也くん以外のものを受け入れることを、はじめから拒んでくれていた。それが、今夜のたったひとつの救いだった。
地下鉄がトンネルを抜ける。車内に蛍光灯の白い光が蘇り、窓ガラスの向こうに住宅街の夜が広がった。見慣れた最寄り駅まで、あと二駅。
缶コーヒーを飲み干して、空き缶を手の中で弄ぶ。アルミの冷たさが、じんわりと掌を冷やしていく。あたしは今から、この冷たさと同じだけの冷たさを、和也くんに向けてしまうのかもしれない。正直に話せば、和也くんはどんな顔をするだろう。怒るだろうか。呆れるだろうか。それとも──なにも言わずに、ただ静かにあたしを見つめるだけだろうか。
想像しただけで、胸がぎゅうっと窄まった。
いちばん怖いのは、和也くんがなにも言わずに、あたしから離れていくことだ。怒ってくれればいい。罵ってくれればいい。でも、ただ静かに背を向けられて、それで終わってしまったら──あたしは、もう二度とあのひとの手の温かさを思い出せなくなる。
それは、死ぬよりも怖かった。
駅に到着するアナウンスが流れる。あたしは空き缶をゴミ箱に捨てて、座席から立ち上がった。タイツ越しに、太腿の内側がかすかに濡れている感触がして、心臓がぎゅっと縮む。それは先輩に触られたせいじゃない。あの部屋から逃げ出して、地下鉄に飛び乗って、缶コーヒーを飲みながらずっと和也くんのことだけを考えていた──そのせいだ。
あたしの身体は、もう和也くんを求めて濡れるようにできている。
他の誰にも反応しなくても、和也くんのことを考えただけで、こんなにもわかるくらいに濡れてしまう。それが嬉しいのか哀しいのか、自分でもよくわからないけれど、少なくとも今夜は、この身体の正直さがたまらなく愛しかった。
駅の階段を上がり、改札を抜ける。夜風が頬に触れて、ようやく身体の火照りが静まっていく。駅前のロータリーには誰もいなくて、街灯の光だけがアスファルトを白く照らしていた。
自宅までの道を歩きながら、あたしは空を見上げた。雲の切れ間から、月がのぞいている。和也くんは今夜、なにをしているだろう。学生寮の自分の部屋で、机に向かってなにかを書いているかもしれない。あるいは、もう布団に潜り込んで、夢の中にいるかもしれない。
どちらにしても、あたしの知らない今夜の和也くんが、ちゃんと息をして生きている。そのことが、不思議なくらいあたしの胸をあたためた。
家に着くと、玄関の明かりはもう消えていた。両親はとっくに眠っている。あたしは音を立てないように二階の自室へ上がり、部屋着に着替えると、そのままベッドに倒れ込んだ。
枕に頬を押し付けながら、あたしは小さくつぶやく。
「ごめんなさい、和也くん」
声に出したとたん、涙がようやく込み上げてきた。それは悲しい涙ではなくて、ただただ、自分がどれほど馬鹿だったかを思い知らされた悔しさで、喉の奥が熱くなった。
あたしは──きっと、試したんだと思う。和也くんのことを。和也くんよりも優れた男がいるかどうかを、自分の身体で確かめようとした。上昇志向だとか、好奇心だとか、そんなきれいな言葉で自分を誤魔化してきたけれど、結局あたしがしたことは、和也くんの愛情を疑うことだった。
それなのに。
あたしの身体は、最初から答えを出していた。先輩に触られても、キスされても、挿入されても、一滴の快感も感じられなかった。むしろ、和也くん以外のものを受け入れることへの拒否感で、全身が凍りついてしまった。
あれほどはっきりと、和也くんだけが特別だと知らされたのに、それでもまだ、あたしはこの事実を和也くんに伝えなければならない。伝えて、許してもらわなければならない。それがこれから先、どれほど苦しいことになるとしても──逃げるわけにはいかない。
天井を見つめながら、あたしは明日、和也くんに電話をしようと心に決めた。
あのひとの声を聞きたい。あのひとの声で、あたしの名前を呼んでほしい。「淳子」と、あの少し低くて、耳の奥に染み込んでくるような声で。そうしてもらえれば、今夜の冷たさも、この胸の奥に溜まった濁った油の感触も、全部溶かしてもらえるような気がした。
「逢いたいよ……」
布団の中で、あたしはもう一度だけつぶやいた。
その声は誰にも届かず、ただ夜の静けさに吸い込まれていった。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、机の上の教科書をほのかに照らしている。和也くんに教えてもらった数学のノートが、本棚の隅にまだ残っていた。
翌日の夕方、あたしは実家の電話機の前に立っていた。
受話器を手に取るまでに、何度も深呼吸を繰り返した。指先が震えているのは、緊張のせいなのか、それともこれから和也くんの声を聞けるという期待のせいなのか。プッシュボタンを押す指が、ダイヤルを回すたびに、かすかに汗ばんでいた。
呼び出し音が、耳の奥でコールする。一度、二度、三度。学生寮の電話当番が出るまで、あたしは唇を噛みしめて待った。
「もしもし、香坂です」
受話器の向こうから聞こえてきた声は、あたしが想像していたよりもずっと落ち着いていて、穏やかだった。その声を耳にした瞬間、胸の奥で冷たく固まっていたなにかが、音を立ててほどけていくのを感じた。
「……和也くん」
名前を呼ぶだけで、声が震えた。昨夜、あれほど泣くまいと思っていたのに、涙腺がゆるんで、鼻の奥がつんと熱くなる。
「淳子」
和也くんは、なにも問いたださなかった。なにも追及しなかった。ただ、あたしの名前をそっと呼んで、そのあとの言葉を待っていてくれた。その優しさが、かえって胸に刺さる。
「あのね、急に電話してごめんね」
あたしはなんとか声を絞り出す。昨夜からずっと考えてきた言葉は、いざ話し始めると、まるで役に立たなかった。伝えたいことは山ほどあるのに、どれも喉の奥でつっかえてしまって、声にならない。
「和也くんの……声が、聞きたくなっちゃって」
それが、今のあたしに言える精一杯の本音だった。
第14章 もう戻れない身体──「僕しか君を満たせない」

第14章: もう戻れない身体──「僕しか君を満たせない」
金曜日の夕方、約束の時刻より十五分ほど早く駅前の噴水広場に着くと、淳子はもうベンチに座っていた。膝の上に小さなバッグを置き、俯き加減にスマートフォンもない時代の待ち時間を、ただじっと耐えている。十月も終わりに近づき、日が沈むと風はもう冷たかった。彼女は紺のトレンチコートの襟を立て、マフラーに顎を埋めている。
僕が近づく足音に気づいたのか、淳子が顔を上げた。黒目がちな大きな瞳が、うるんだように揺れている。
「……和也くん」
立ち上がりかけた彼女の身体は、なぜかその場で小さく縮こまった。まるで飼い主に叱られるのを待つ犬のように、肩をすぼめて僕を見上げている。
「待った?」
「ううん、いま来たとこ」
淳子はかすかに首を振り、それから思い切ったように僕のコートの裾を指先でつまんだ。普段の彼女なら人前でこんな仕草はしない。今夜は違う。その指先には、縋りつきたい衝動と、自分から触れることへの罪悪感が、せめぎ合うように震えていた。
「なんか、ちょっと痩せた?」
僕がそう尋ねると、淳子ははっと目を見開き、それから自嘲するように口元をほころばせた。
「……わかる?」
「わかるよ。あまり無理してない?」
「してない。大丈夫」
声はいつもの淳子のトーンを取り繕っているのに、それを裏切るように、僕のコートを掴む指がぎゅっと力を込めた。大丈夫じゃないと、その指が語っている。
「予約してあるから、行こうか」
僕はそれ以上は追及せず、彼女の指をそっと自分の手のひらで包み込んだ。淳子の指先は冷たく、かすかに汗ばんでいた。
いつもの居酒屋ではなく、今日は直接ホテルへ向かう。淳子は何も言わず、ただ僕の手を握り返してきた。横断歩道を渡り、ネオンがちらつく歓楽街の路地を抜けるあいだ、僕たちはほとんど口をきかなかった。彼女が時折ちらりと僕の横顔を盗み見ている気配を、僕は気づかないふりで受け止めていた。
ホテルの部屋に入ると、淳子はバッグをサイドテーブルに置き、しばらく窓辺に立って外の夜景を眺めていた。七階の窓から見下ろす街の灯りは、バブル末期の猥雑な熱気を帯びて、遠くの幹線道路まで切れ目なく続いている。カーテンを閉めると、淳子はゆっくりとコートを脱いだ。
「和也くん……」
「うん」
「あのね……」
淳子は言葉を探すように、しばらく俯いていた。それから意を決した表情で顔を上げる。彼女の大きな瞳が、潤みを増していくのを僕は黙って見つめていた。
「わたしね……この前、サークルの先輩と、二人で会ったの」
声は震えていなかった。むしろ、覚悟を決めた静けさがあった。
「それでね……その人の部屋にも、行った」
「そうだったんだ」
僕はなるべく平坦なトーンでそう返した。彼女の告白を急かさないように、でも逃げ道も与えないように。淳子は僕の目を見つめたまま、さらに言葉を続けた。
「怒らないの……?」
「怒らないよ。淳子が自分から話してくれたんだから」
実際、僕は怒ってなどいなかった。この告白は予想の範囲内であり、むしろ彼女がこうして打ち明けることで、僕たちの関係は次の段階に進む。
淳子は唇を噛みしめ、しばらく黙っていた。それから、ぽつりぽつりと話し始める。
「わたしね……自分でも、なんであんなことしたのか、よくわからないの。ただ……なんていうか、和也くん以外の人と、ちょっと話してみたくなって」
それは彼女の本音だろう。上昇志向のつよい淳子は、常により良い選択肢を探している。それが彼女という女の性だ。
「それでね……その人の部屋で、なんていうか……そういう雰囲気になって」
声が少しだけ詰まり、淳子は俯いた。肩が震え出しそうになるのを、両腕を組んでこらえている。僕は彼女の言葉を遮らずに待った。
「でもね……わたし、なんにも感じなかったの」
この言葉だけが、ひどくはっきりと部屋に響いた。
「何をされても……なんだか、ぼんやりしてて。気持ちいいとか、そういうの、全然なくて。それどころか……和也くんのことばかり、考えてた」
彼女の声は、次第に震えを帯びていく。涙が一筋、右の頬を伝って落ちた。
「和也くんなら、ここをもっとこうしてくれるのにとか……和也くんの指はもっと優しいのにとか……そんなことばかり、頭に浮かんで」
僕は黙って彼女の言葉を受け止めていた。胸の奥で、熱いものと冷たいものが同時に渦を巻く。嫉妬はなかった。あったのは、前世で決して得られなかった勝利の確信だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい、和也くん……」
淳子はついに両手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。肩が上下に震え、嗚咽が漏れる。僕は一歩近づき、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「淳……正直に話してくれて、ありがとう」
僕は彼女の耳元で、静かにそう囁いた。左手で背中をゆっくりと撫でながら、右手で彼女の髪を梳く。新緑の匂いを思い出させる、あの頃と変わらないさらさらとした黒髪が、指のあいだをすり抜けていく。
「わたしね……すごく怖くなったの。和也くん以外の人と、もうダメなのかもしれないって。和也くんに、嫌われちゃったら、わたし……どうしたらいいか」
「嫌ったりしないよ。僕は淳子が大事だから」
淳子は泣きじゃくりながら、しがみつくように僕の胸に顔を埋めた。コート越しに彼女の涙の熱がじんわりと伝わってくる。僕は彼女の身体をぎゅっと抱きしめ、それから少しだけ身体を離して彼女の顔を見つめた。
「ごめん……いきなり、泣いたりして」
「いいんだよ。さあ、ごはん食べよう。お腹すいてるだろ」
ルームサービスで頼んでおいた軽食が、いつのまにかドアの外に届けられていた。ワゴンを部屋に入れ、僕たちは窓辺の小さなテーブルに向かい合って座った。淳子はまだときどき鼻をすすりながらも、サンドイッチを少しだけ口にする。食事のあいだは他愛のない話をした。大学の授業のこと、看護実習で大変だったこと、共通の友人の近況。まだお互いに、これから始まる夜の本題に触れるタイミングを計っているようだった。
食事が終わり、僕がワゴンを廊下に出して戻ると、淳子はベッドの端に腰掛けて待っていた。彼女はこちらを見上げると、泣きはらした目を細めて、かすかに微笑んだ。
「和也くん……」
「うん?」
「今日はね……わたしから、お願いしてもいい?」
「何をお願いするの?」
淳子は一瞬俯き、それから思い切ったように顔を上げた。頬が、さっと紅潮する。
「カズの……お尻に入れて欲しい」
声はかすれていたが、迷いはなかった。彼女の瞳の奥に、何かを決定的に求める色が揺らめいている。
「あの人のこと……忘れさせて欲しいの。和也くんで、いっぱいにして欲しい」
「いいよ。淳が望むなら、いくらでも」
僕は彼女の隣に座り、ゆっくりと肩を抱き寄せた。淳子の身体からは、いつもの彼女の匂いがした。ほんのり甘いシャンプーの香りと、その下に潜む、女の肌が発するかすかな発酵臭にも似た匂い。僕はその匂いに顔を埋め、耳のうしろにそっと唇を落とした。
淳子が小さく息をのむ。僕は彼女のトレンチコートを脱がせ、ブラウスのボタンをひとつずつ外していく。指先が時折彼女の肌に触れるたび、淳子の身体がびくんと小さく跳ねた。
「綺麗だよ、淳」
「そんなこと……言わないで」
「本当のことだから」
スカートを脱がせ、ストッキングをゆっくりと下ろしていく。腿の内側が露わになるにつれて、淳子の呼吸が浅く速くなっていく。僕は彼女の身体をベッドに横たえ、下着に手をかけた。布地はすでにぐっしょりと濡れそぼっていて、指でなぞるだけでぬるりとした感触が伝わる。
「もう……こんなに濡れてる」
「だって……待ってるあいだ、ずっと、想像してたから」
「何を想像してたの?」
「カズが……わたしの、お尻に、入れてくれるの……想像してた」
恥ずかしそうに顔を背けながら、それでも淳子ははっきりとそう言った。僕は彼女の下着を脱がせ、脚をゆっくりと開かせる。茂みの奥で、熟れた果実のように充血した肉びらが、灯りの下でてらてらと光を反射していた。
僕はバッグからローションの小瓶を取り出し、手のひらで温めてから、たっぷりと指に絡めた。そして淳子の身体をうつ伏せにし、枕を腰の下に差し入れて、彼女の小さな尻を持ち上げさせる。
「力抜いてね」
「うん……でも、ちょっと怖いかも」
「大丈夫。ゆっくりするからね」
僕はまず、彼女の窄まりの周囲を指の腹で優しくマッサージした。皺のひとつひとつをほぐすように、円を描くように。淳子の肛門は、僕が最初に触れた高校時代からはずいぶんと柔軟になり、今ではこうしてローションを塗り込むだけでひくひくと期待するように蠢く。
「ひゃっ……」
指先が窄まりの中心に触れた瞬間、淳子が小さく息を漏らした。僕は焦らずに、まずは人差し指の第一関節までをゆっくりと沈めていく。彼女の内部は熱く、粘膜がとろりと指を包み込んだ。
「力抜けてるよ……いい子だ」
耳元でそう囁くと、淳子の項がうっすらと紅潮した。僕は指をゆっくりと前後させながら、彼女の腟にもう一本の指を差し入れる。二つの穴を同時に愛撫され、淳子の腰がくねり始めた。
「あ……ああ……」
彼女のアナルが、次第に僕の指に馴染んでいく感触。粘膜がきゅうきゅうと締まり、そのたびに彼女の腟の奥から新たな愛液が溢れ出て、僕の手のひらをじっとりと濡らした。
十分に解れたのを確認して、僕は指を抜き、かわりに自分のペニスにローションを塗り込めた。すでに限界まで勃起したそれは、根本から亀頭にかけて血管が浮き出し、ずっしりと重く熱を持っている。亀頭は鍛錬の賜物で、カリの張り出しがはっきりとくびれを作り、先端は怒張してわずかに上を向いていた。
僕は淳子の腰をしっかりと掴み、亀頭を窄まりにあてがった。
「淳……自分で入れて」
淳子は振り返り、潤んだ瞳で僕を見上げた。それから右手を伸ばし、震える指で僕のペニスの根元に触れる。
「あつい……これ、カズの……おっきい……やっぱり、すごく熱い」
彼女の指が、僕の亀頭の形をなぞるようにゆっくりと動く。カリの張り出し、亀頭冠のくびれ、先端のぬめる感触を、一本一本の指で確かめるように。
それから淳子は、僕のペニスをそっと自分の窄まりに導き、自ら腰をゆっくりと後退させた。
「う、ああっ……!」
彼女の内部に、亀頭がずぶずぶと沈んでいく。圧倒的な締め付けと熱に、僕は思わず息を詰めた。淳子のアナルは、すでに僕の形を覚え切っている。それでも最初の一突きは、いつだって新鮮な驚きがあった。
「あ……あ……はいって、くる……カズの、奥まで……」
淳子はシーツを握りしめ、うわごとのように呟きながら、さらに腰を押し付けてくる。僕は彼女の動きに合わせて、ゆっくりと最奥まで亀頭を進めた。
「淳……全部、入ってるよ」
「ん……カズので、いっぱい……すごく、いっぱいになってる」
彼女の尻たぶが僕の腰にぴったりと密着し、僕はそのまましばらく動かずに彼女が馴染むのを待った。アナルの内壁が、僕のペニスの形に沿ってひくひくと痙攣している。その微細な動きが、亀頭の先端から根本までをまんべんなく刺激して、射精感をじわじわと高めていく。
「気持ちいい?」
「きもちいい……カズの、奥まで、あつくて……それにね」
淳子は言葉を切り、それから泣き出しそうな声で続けた。
「あの人のとは、全然ちがうの。こんなに、満たされる感じ……カズだけだよ。わたし……もう、戻れないかも」
戻れない。その言葉が、僕の胸の奥でじんわりと熱を持った。前世で淳子に振られたときの、あの冷たい目。惨めに泣いてすがった自分の姿。数十年間引きずり続けた、男としての無力感。それらすべてが、今この瞬間、彼女の内部で溶けて消えていくようだった。
「戻らなくていいよ。淳は僕だけでいいんだ」
僕はそう答え、彼女の腰を掴んでゆっくりと抽送を始めた。大きく、深く、彼女の一番感じる場所を亀頭でぐりぐりと抉るように。
「あっ、あっ、それ……すごい……おく、あたって……!」
淳子の声が裏返る。彼女のアナルがぎゅうっと締まり、そのたびに腟から潮がほとばしってシーツに染みを作った。僕は片手で彼女のクリトリスを探り当て、指の腹で優しく円を描くように刺激しながら、抽送の速度を少しずつ上げていく。
「淳……イきそう?」
「うん……もう、くる……カズ、もっと、もっとして……!」
淳子は枕に顔を埋めて叫んだ。その声に応えるように、僕は最後の一突きをアナルの最奥に叩き込む。瞬間、彼女の全身がびくんと大きく跳ね、内部の粘膜がペニス全体を搾り取るように痙攣した。
「ひ、あ……! あ、ああ……!」
淳子はそのまま痙攣を繰り返し、僕のペニスを咥えたままゆっくりと脱力していった。
「イったの?」
「うん……いっぱい、いっちゃった……」
息も絶え絶えに答える彼女の髪を、僕は優しく撫でた。汗で額に張り付いた前髪をかき分け、うなじにそっと口づける。
「まだだよ。淳がいいって言うまで、ずっとしてあげる」
そう言って、僕は彼女の腰を再び動かし始めた。淳子は小さく悲鳴を上げながらも、自分から腰を振って応じる。
「あ、あっ、まだ……だめ、イったばかり……あ、や、ああっ……!」
「淳の中、すごく熱い……ずっとこうしていたいくらいだよ」
「わたしも……カズの、ずっと、中に、いて欲しい……」
淳子はうわごとのように繰り返しながら、二度、三度と絶頂を迎えた。そのたびに彼女のアナルは僕のペニスをぎゅうぎゅうと締め付け、同時に腟からは潮が噴き出して、ベッドのシーツはぐっしょりと濡れそぼっていく。
そして最後に、僕は彼女の一番深い場所に亀頭を押し当てたまま、どくどくと精を放った。熱い塊が彼女の腸内を満たしていく感覚に、淳子は小さく啼きながら再び達した。
「好きだよ……淳。誰にも渡さない」
「わたしも……大好き。ずっとずっと……和也くんが好き」
事後、ぐったりと横たわった淳子のアナルからは、ゆっくりと白濁が滲み出ていた。彼女はそれを恥ずかしがりながらも、僕の胸に顔を埋め、しあわせそうに目を閉じる。
「ああ……カズの、なかで、いっぱい、でてる……」
「すごかった……頭、まだ真っ白」
「淳……大丈夫?」
「うん、大丈夫。すごく大丈夫。和也くんがいてくれれば、それで」
彼女の声はもう震えてはいなかった。代わりに、深い安堵のようなものが滲んでいる。
僕は彼女を抱きしめながら、窓の外からかすかに聞こえる夜風の音に耳を澄ませた。冷たい秋の空気が、ホテルの窓ガラスをわずかに震わせている。この部屋の外では、もうすぐバブルが弾け、時代が大きく変わろうとしている。でもそんなことは、今の僕にはどうでもよかった。
僕は勝ったのだ。
前世の自分に、そして淳子を奪ったすべての男に。
彼女の身体は、もう他の誰にも反応しない。それは淳子自身が身をもって証明してみせた。アナルも、腟も、唇も、そのすべてが僕の形に馴染み、僕の熱を欲しがるようにできている。彼女の羞恥は僕への従順に変わり、彼女の上昇志向は僕という選択の正しさを確認するたびに、より深く僕へと依存していく。
僕は眠りに落ちる淳子の髪を撫でながら、前世で彼女を失った冬の記憶を、静かに葬り去っていた。
第15章 新緑の記憶と缶コーヒー、そして二度と離さない誓い

第15章: 新緑の記憶と缶コーヒー、そして二度と離さない誓い
あの夜から数ヶ月が過ぎて、街にはもう春の気配が漂い始めていた。
二月の終わり、僕と淳子は週末の午後を連れ立って歩いていた。彼女は薄手のコートの襟を立て、僕の半歩後ろを歩きながら、ときおり立ち止まってはショーウィンドウを覗き込む。日差しはまだ弱々しいけれど、冬のあいだ凍てついていた空気が、どこかゆるりとほどけていくような午後だった。
「和也くん、あそこ、公園があるよ」
淳子が指さした先には、小さな街区公園があった。ブランコと滑り台、それから周囲を囲むように植えられたケヤキやクスノキが、まだ芽吹く前の裸の枝を空に向かって伸ばしている。
「入ってみる?」
僕がそう言うと、淳子はこくりと頷いた。彼女の大きな瞳が、春の淡い光を受けてかすかにきらめく。手をつなぐと、彼女の指先はほんの少し冷たくて、でもすぐに僕の熱が移っていった。
公園の入り口で、淳子がふと立ち止まる。
「なんかね……この感じ、覚えてる」
彼女は目を閉じて、そっと息を吸い込んだ。まだ花も咲いていない、土と枯れ草の匂いがかすかに混じる空気。でもその奥に、確かにもうすぐ訪れる春の予感が潜んでいる。
「高校のとき、和也くんと初めてキスした公園に、ちょっと似てる」
淳子の言葉に、僕の胸の奥がじわりと熱くなった。あの初夏の早朝、課外授業の前に待ち合わせた公園。新緑の匂いが満ちる空気の中で、僕たちは初めて唇を重ねた。彼女の唾液の甘みと、舌の感触。唇が離れたあとも、しばらく互いの吐息が混ざり合って、それがやけに生々しくて、胸がぎゅっと締め付けられたのを今でもはっきりと思い出せる。
「あのとき、和也くんのキス、すごく上手で……わたし、びっくりしたんだよ」
淳子は少しだけ恥ずかしそうに俯いて、それから僕の腕に自分の腕を絡めてきた。彼女の身体のぬくもりが、コート越しにじんわりと伝わってくる。
「実はね、あのキスの前にも、ちょっとだけ……その、他の人としたことがあったの」
彼女が急にそんなことを言うから、僕は少しだけ驚いたふりをした。本当はとっくに知っていたけれど。
「天文部の先輩でね。でも、和也くんのとは全然違った。ただ唇が触れただけ、みたいな……。だから、和也くんとキスしたとき、こんなに違うんだって、すごくドキドキして」
淳子はそう言って、僕の腕に顔を寄せる。彼女の長い黒髪が、さらさらと僕のコートの袖に触れた。その髪からは、あの頃から変わらない彼女のシャンプーの匂いがかすかに立ちのぼっている。
「あの新緑の匂い……今でも思い出すよ。木の葉っぱの匂いと、淳子の髪の匂いが混ざってて、すごくいい匂いだなって思ったのを覚えてる」
「わたしも……あの匂い、今でも覚えてる」
淳子はそう呟いて、それから不意に立ち止まった。
「ねえ、和也くん。あそこにベンチがあるよ。ちょっと座らない?」
公園の隅にある古びた木製のベンチに、僕たちは並んで腰を下ろした。座面の木はところどころ剥げていて、ペンキの白がうっすらと残っている。淳子は僕の肩に頭を預け、しばらく黙って空を見上げていた。
「あ、ちょっと待ってて」
ふと思い立って、僕はベンチから立ち上がり、公園の入り口近くにある自動販売機へ歩いていった。小銭を入れて、温かい缶コーヒーを二つ買う。一つはブラック、もう一つは微糖。戻ると、淳子がきょとんとした顔で僕を見上げた。
「はい、これ」
微糖の方を手渡すと、彼女は両手で缶を包み込むように受け取った。プルタブを開けると、しゅわっと炭酸のない静かな音がして、コーヒーの苦い香りがほわりと立ちのぼる。
「あったかい……」
淳子は缶を頬に寄せて、それから一口、そっと口に含んだ。彼女の小さな唇が缶の縁に触れ、白い喉がこくんと動く。
「和也くん、あいかわらずブラックなんだね」
「まあね」
僕は自分の缶を開けて、一口すする。舌の上で苦さがじわりと広がり、喉の奥を熱が通り抜けていく。あの夜、淳子がサークルの先輩のアパートに入っていくのを、アパートの下で缶コーヒーを飲みながら見つめていたときの苦さが、ふと蘇ってきた。あのときは冷たい缶コーヒーで、指先がかじかむほど寒い夜だった。でも今、手にしているのは温かいコーヒーで、隣には淳子がこうして寄り添っている。
「あの夜のこと……まだ、ちゃんと謝れてないかも」
淳子がぽつりと言った。缶コーヒーを膝の上で包み込んだまま、彼女は俯いている。前髪がさらりと落ちて、その表情を隠した。
「いいんだよ、もう」
「でもね……わたし、ずっと考えてたの。なんであんなことしたんだろうって」
淳子の声は静かだった。震えてはいないけれど、どこか遠くを見つめるような響きがある。
「和也くんのこと、大好きなのに。それなのに……他の人のところに行ってみようなんて。自分でも、よくわからなくて」
「淳子はね、いつもより良いものを探すのが癖になってるんだよ。それは悪いことじゃない。むしろ、淳子の強さだと思う」
僕は缶コーヒーをベンチの肘掛けに置いて、彼女の肩をそっと抱き寄せた。淳子の身体は素直に僕にもたれかかってきて、その重みが心地よい。
「でもね、あの夜、わかったの。和也くんより良い人なんて、どこにもいないんだって」
「それ、ちょっと買いかぶりすぎじゃない?」
「ちがうもん。だって、わたしの身体がちゃんとわかってるんだから」
淳子はそう言って、缶コーヒーを脇に置くと、僕の胸にぎゅっと抱きついてきた。彼女の指が僕のコートの前をぎゅっと握りしめている。その仕草が、まるで迷子になった子供みたいで、胸の奥がきゅうと鳴った。
「和也くん、わたしね……ずっと一緒にいたい。もう、どこにも行かないで」
「どこにも行かないよ。僕は淳子を離したりしない」
そう言いながら、僕は彼女の髪をゆっくりと撫でた。さらさらとした黒髪が指のあいだをすり抜けていく感触が、いつまでも続けばいいのにと思った。
そして、心の奥底で、もう一人の自分が呟く声も聞こえていた。
──それでも、もし。もし彼女がまた誰かの方へ歩き出そうとしたら、今度こそ、僕は彼女を閉じ込めるだろう。身体も心も、すべてを僕だけのものにするまで、決して手を緩めはしない。
それは愛なのか、執着なのか。僕自身にもまだわかっていない。ただ、この人生で彼女を失うことは、前世の何十倍もの苦痛をともなうだろうことだけは、はっきりと確信していた。
「和也くん……?」
淳子が顔を上げて、僕の目をじっと見つめてくる。黒目がちな大きな瞳が、不安げに揺れていた。
「なんでもないよ。ちょっと昔のことを思い出してただけ」
僕は穏やかな声でそう答えた。嘘ではなかった。実際、前世の記憶──大学二年の冬、淳子に振られた日のこと──が、ちらりと頭をよぎったのだ。彼女の冷たい目。泣いてすがる僕を、ただ黙って見下ろしていたあの表情。数十年のあいだ、僕はあの記憶に苛まれ続けてきた。
でも、今は違う。
僕の隣にいる淳子は、あのときの冷たい目の彼女とは別人だ。僕の腕に抱かれ、僕の体温を求めて身を寄せ、僕の言葉に一喜一憂する──そんな彼女を、僕は自分の手で作り上げた。いや、正確には、彼女自身が僕を選び直したのだ。他の男を試し、比較し、そして戻ってきた。それは彼女の身体が、彼女の心が、僕以外では満たされないと証明してくれた瞬間だった。
「和也くん、あのね」
淳子がまた口を開く。彼女は少しだけ言いにくそうに、もじもじと指を動かしていた。
「来年の春にね、わたし、実習先の病院が決まったの。そこ、和也くんが住む予定の街から、すごく近いんだ。電車で十五分くらいで……」
「そうなんだ。よかったね」
「それでね……わたし、考えてたの。実家から通えなくもないけど、できれば近くに部屋を借りたいなって。そしたら、もっと自由に会えるし、それに……」
淳子は言葉を切り、耳の先まで真っ赤に染めた。缶コーヒーを握りしめた指が、かすかに震えている。
「もし、和也くんさえよければ……一緒に、住んだり、できないかな、なんて……」
彼女の声は、最後の方はほとんど消え入りそうだった。僕は一瞬息をのんで、それからふっと笑みをこぼす。
「それって、半分プロポーズみたいなものじゃない?」
「ちがっ……そうじゃなくて! ただ、その……もっと一緒にいたいなって」
「わかってるよ。嬉しい、すごく」
僕は彼女をぎゅっと抱きしめ直した。淳子の身体は小さくて、細くて、腕の中にすっぽりと収まってしまう。彼女の肩がかすかに震えているのは、寒さのせいか、それとも緊張のせいか。
「淳子がいいなら、一緒に住もう。もう離れたりしない」
「ほんと……?」
「ほんとだよ」
淳子は僕の胸に顔を埋めたまま、こくこくと何度も頷いた。それから顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見つめる。
「じゃあ……約束してくれる? これから先も、ずっと一緒にいるって」
「約束するよ。この先何があっても、淳子を離したりしない」
僕はそう言って、彼女の唇にそっとキスをした。公園のケヤキの裸の枝が、春風にかすかに揺れている。新緑の季節はまだ少し先だけれど、あのファーストキスの朝の匂いが、ふと記憶の奥から立ちのぼってきたような気がした。
缶コーヒーはすっかり冷めてしまったけれど、僕たちはしばらくそうしてベンチに座り続けた。淳子の体温が、僕の腕の中でじんわりと広がっていく。その温かさが、これから先の人生で決して手放してはいけないものだと、心の奥底で強く思った。
空にはうっすらと雲がかかっていて、日が傾き始める頃になると、風が急に冷たくなった。
「そろそろ帰ろうか。冷えてきた」
「うん。でも、もうちょっとだけ……あと五分だけ、こうしてていい?」
淳子はそう言って、僕の腕にさらにぎゅっとしがみついてくる。彼女の指が、僕のコートの袖をぎゅっと握ったまま離れない。その仕草があんまり愛しくて、僕は思わず彼女の髪に顔を埋めた。
「あと五分だけね」
そう言いながら、僕は彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。もうすぐバブルは弾ける。社会は大きく変わり、僕たちを取り巻く世界も変わっていくだろう。でも、それでも──この腕の中にある温かさだけは、何があっても守り抜く。誰にも渡さない。たとえ彼女自身が逃げ出そうとしても、僕は決して手を離さない。
それが愛なのか、呪いなのか。そんなことは、僕にはもうどうでもよかった。
ただ、この人生で、淳子は僕のものだ。それだけが確かな真実だった。
僕は顔を上げ、空を見上げた。厚い雲の切れ間から、かすかな夕日が差し込んでいる。あと数週間もすれば、この公園にも新緑が芽吹き、あの初夏の朝と同じ匂いが満ちるだろう。でも、あのときとは違う。今の僕は、彼女を守る力も、彼女を縛りつける執念も、そのすべてを持っている。
そして、それでいいのだと、僕は心の底から思った。
登場人物
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香坂和也(こうさか かずや)(男性、15歳(精神的年齢52歳)〜20歳)
外見: 短い黒髪、黒い瞳、引き締まった体格、身長175cm。服装: 学生服、後にカジュアルな私服。前世の記憶を持つ冷静で計算高い青年。穏やかな物腰の裏に淳子への強い執着を秘めている。
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明石淳子(あかし じゅんこ)(女性、15歳〜20歳)
外見: 長い黒髪を後ろで一つに束ねている、大きな黒い瞳、小柄でスレンダーな体型、形の良い小さな臀。服装: セーラー服、後にカジュアルなスカート。理知的で羞恥心が強いが、芯は強く上昇志向。和也の性的支配に抗えず快楽に溺れていく。
-
上川久美 かみかわ くみ女性 ・ 15
外見: セミロングの茶色い髪、優しげな茶色の瞳、中背。服装: セーラー服。和也のかつての片思い相手で吹奏楽部に誘う明るい同級生。
-
サークルの先輩男性 ・ 21
外見: 茶髪のロン毛、軽薄そうな目、長身痩躯。服装: トレンドの私服、Vネックニットやダボっとしたスラックス。淳子に近づき寝取ろうとするインカレサークルの先輩。
-
飲みサークルのOL女性 ・ 22
外見: 肩までのセミロング黒髪、ボディコンシャスな体型、大人びた目元。服装: タイトなワンピース、ピンヒール。和也とセフレ関係になる年上女性。



