第1章: 見つめられるための契約

第1章: 見つめられるための契約
放課後の美術室は、いつも独特の匂いに満ちていた。
ターペンタインの刺激的な香り、乾いた油絵の具の甘ったるい匂い、古い木の匂いと埃の匂いが渾然一体となり、時間が粘つくように流れる聖域の空気を醸し出している。
吉田真緒は、その匂いを胸の奥深くまで吸い込むのが好きだった。
ここにいる時だけは、自分が内気で目立たない存在であることから、少しだけ解放される気がしたからだ。
彼女は窓際の自分のイーゼルに向かい、未完成の静物画に細い筆を滑らせていた。
夕暮れの光が差し込む窓ガラスは、温かいオレンジ色に染まり、キャンバスの上のリンゴを琥珀色に照らしていた。
ガラり、と重い扉が開き、その静謐を切り裂いた。
顧問の相模海斗先生だった。
彼が入ってくると、部屋の空気は一瞬で重く、張り詰めたものに変わる。
無造作にかき上げた茶髪が窓からの光を反射してきらりと光り、色褪せたデニムの上着には、いつものように絵の具のしみが幾重にも重なっていた。
部員たちは一斉に絵筆を止め、彼の姿に凍りつくように注目する。
相模先生はゆっくりと室内を見渡し、その鋭い青い瞳が一人ひとりをなぞるように視線を走らせた。
その視線は、単なる確認ではなく、評価であり、時に支配そのものだった。
「今日は、少し大事な話がある」
相模先生の声は低く、落ち着いていたが、その響きには誰も反論できない力が宿っていた。
真緒は思わず背筋を伸ばし、小さくなるように肩をすくめた。
彼の視線が自分に止まった気がして、心臓が脇腹で痛むほど小さく跳ねる。
部屋には緊張が走り、数人の部員が気まずそうに顔を見合わせた。
原田陸だけが、その緊張を楽しんでいるかのように、少し皮肉な笑みを浮かべて先生を見つめていた。
彼の自信に満ちた瞳が、美術部のエースとしてのプライドを輝かせている。
「来週から、持ち回りでヌードデッサンをやる」
その言葉に、室内の空気はさらに凍りついた。
ヌードデッサン。
その言葉が持つ重みと、思春期の生徒たちにとってのあまりにも直接的な意味合いが、重い沈黙として皆の喉に落ちていく。
誰も何も言えない。
ただ、鉛筆が握られた指先が白くなったり、視線が床に落とされたりするだけだった。
真緒は、自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
肌寒いような、でもどこか熱いような感覚が背中を這い上がる。
見られること。
裸になること。
考えただけで顔が火照って、耳がじんわりと熱くなる。
「もちろん、強制はしない。だが、美術を志す者にとって、人体の美を理解することは不可欠だ。特に、光と影が織りなす肌の起伏、感情の宿る表情の微妙な変化を、その場で捉える訓練は何物にも代えがたい」
先生は、まるで芸術のための聖なる儀式を語るように、静かに、しかし熱を込めて続けた。
彼の言葉はもっともらく、誰もが頷かざるを得ない。
しかし、それを実行するとなると、話は別だ。
誰かが立候補するはずもない。
気まずい沈黙が、さらに長く引き伸ばされていく。
その沈黙を破ったのは、相模先生の次の言葉だった。
彼の視線は、ためらいがちにキャンバスに向かっていた真緒に、真っ直ぐに注がれた。
「吉田、君がやってみないか」
「……え?」
真緒の声は、思わず絞り出されたような、か細いものになってしまった。
自分の耳を疑う。
自分に? なぜ、自分が?
彼女は慌てて顔を上げたが、相模先生の青い瞳は逃がさないとばかりに、自分を貫いている。
その瞳は、鑿(のみ)のように真緒の心をえぐり、ありのままの自分を裸にしていくような感覚だった。
周りの視線が一斉に自分に集まる。
親友の相原唯は、心配そうに、そしてどこか興味津々な瞳でこちらを見ている。
そして、原田陸。
彼の視線だけが、なぜか熱を帯びて、肌を焦がすように突き刺さっていた。
その好奇心は、純粋なものではない。
もっと深く、より原始的な、獣のような欲求を感じさせる。
「僕が見るに、君の体線は非常に美しい。まだあどけなさの残る肌の質感、光を受けると繊細な色合いを見せるその肢体は、描くべき価値がある。芸術的な素材として、最高のものだ」
先生の言葉は、褒め言葉だったはずなのに、真緒には呪いのように聞こえた。
体中の血が一気に頭に上り、耳鳴りがする。
拒否しなければ。
こんな恥ずかしいこと、絶対にできない。
でも、口は開かない。
先生の支配的なオーラと、原田の熱っぽい視線、そして唯の冷めたような観察眼。
それらが、真緒の言葉を奪い、体を硬直させていた。
恐怖が、氷の棘のように心臓を締め付ける。
でも、その恐怖の奥底で、見知らぬ感情が蠢いているのを感じた。
それは、自分という存在が、誰かの眼差しによって初めて価値を持つような、甘くて危険な期待だった。
「どうだ、吉田。君なら、きっと素晴らしいポーズを見せてくれる」
先生は、さらに一歩、真緒に近づいた。
彼のシャツから、かすかに絵の具と男の匂いが混ざり合った香りが漂ってくる。
真緒は思わず後ずさりたい衝動を抑え、指先でスカートの生地を強く握りしめた。
チェックの生地が、指の腹にざらつく感触を伝える。
もう逃げられない。
この場で「いいえ」と言う勇気は、自分にはない。
彼女は、俯いたまま、震える唇から、ほとんど聞こえないくらいの声を絞り出した。
「……はい」
その一語が、口から出た瞬間、何かが決まったような感覚に襲われた。
契約が、結ばれた。
相模先生は満足そうに、小さく頷いた。
その隣では、原田陸の唇が、勝利を確信したかのように、ゆっくりと弧を描いていた。
唯は呆れたようにため息をついたが、その瞳の奥には、これから始まる出来事への強い関心が宿っていた。
真緒は、ただ俯いたまま、自分の膝元に広がる床の木目を、ぼんやりと見つめていた。
恐怖と、名前のつかない甘い期待が、背骨を伝って痺れるように駆け上っていくのを、真緒はただ受け入れるしかなかった。

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