熟年離婚、屈辱をバネに甦る肉体と若いインストラクターとの熱い夜

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第1章: 退職と離婚―「男としての魅力は皆無」

第1章のシーン

第1章: 退職と離婚―「男としての魅力は皆無」

その日、司城賢一は長い長い航路の終点に立ったような気分だった。

肩にかけた革鞄が、いつもより軽く感じられる。三十八年間、同じ電車に揺られ、同じビルの同じ階で過ごしてきた時間が、今日という区切りをもって静かに沈殿していく。定年退職。社長からの感謝状と記念品を手に、最後は後輩たちの拍手に包まれながら出口へ向かった。外の空気は、いつもより少しだけ柔らかく、そしてどこか頼りなくもあった。

自宅の玄関ドアを開けた時、ふと、妻の幸恵が笑顔で迎えてくれる姿を脳裏に浮かべた。ほんの一瞬の、ばかばかしい期待だった。

リビングのソファに、幸恵は座っていた。しかし、彼女の前に置かれていたのは祝いの膳ではなく、分厚い書類の束と、冷たい紅茶のカップだけだった。彼女は賢一の顔を一瞥し、すぐに書類に目を戻した。化粧はいつも以上に完璧で、ロングストレートの茶髪もきちんとまとめられている。外出から戻ったばかりの服姿だ。

「おかえりなさい。遅かったわね」

「ああ…ちょっと、送別会っていうか」

賢一は鞄を置き、そそくさと上着を脱いだ。太った腹部がポロシャツの上からもたるんで見える。最近、ベルトの穴を一つ広げたばかりだった。

「で、どうするの? これから」

幸恵の声には、かつてないほどの事務的な響きがあった。賢一はゆっくりとソファの反対側に腰をおろし、ため息をついた。

「どうするって…少し休んでから、また何か探そうかと思って。まだ体力はあるから」

「体力?」

幸恵はようやく顔を上げた。その瞳は、冷たい黒茶色の宝石のように、賢一を捉えた。

「あなた、自分の体、見たことある? 鏡で、しっかりと」

――何を言い出すんだ?

賢一は無意識に自分の腹部に手を当てた。柔らかな脂肪の塊が、手の下でぐにゃりと動く。

「ぶよぶよよ」

幸恵の唇が、残酷なほど明確に、その言葉を形作った。

「ここだけじゃないわ。二の腕も、顎のたるみも、お尻だって垂れてる。男としての魅力は皆無よ。それが現実」

「幸恵…今日は、俺の退職の日だぞ? なんで、そんなこと」

「だからよ」

彼女は書類の束を一枚、ぱんとテーブルに置いた。離婚協議書という文字が、賢一の目に飛び込んできた。

「仕事を辞めたら、あなたにはもうなにも残らないわ。収入もなくなる。見た目もこう。中身だって、家族のためって言いながら、結局は会社の単なる歯車でしかなかったんでしょ?」

賢一の喉が詰まった。鼓動が耳の中で騒ぎ始める。

「なに…なにを言ってるんだ? 家族のために、がむしゃらに働いてきたじゃないか。綾乃の学費だって、この家だって、全部」

「それは『父親』としての義務でしょ。『夫』としての魅力なんて、とっくの昔に消えてる」

幸恵は冷静に、紅茶を一口すすった。その動作さえ、計算され尽くした優雅さに満ちていた。

「正直に言うわ。私、もう十年近く、あなたに恋愛感情なんてない。生理的に無理。だから、別の人ができたの」

「…は?」

「四十五歳の男性よ。スポーツジムのインストラクターをしながら、アパレルの仕事もしてる。あなたより十五歳も年下で、見た目も中身も、全部があなたの対極にある人」

幸恵の目が、初めて熱を帯びた。しかしそれは、愛情ではなく、新しいものへの欲望の光だった。

「私たち、もう一年以上、付き合ってる。あの人と一緒にいる時間が、どれだけ充実してるか。あなたとの退屈な時間とは比べものにならない」

「…浮気…してたのか?」

声が震えている。自分でもわかる。膝の上に置いた拳が、がたがたと震え始めた。

「浮気っていう言葉は失礼よ。だって、あなたとの間に『恋愛』なんて存在してなかったんだから…家庭内別居よ。私はただ、自分の人生を充実させるパートナーを見つけただけ」

幸恵は再び書類を指さした。

「財産分与についても、きちんと計算してある。この家は売却して、半分ずつ。退職金も、もちろん分割の対象よ。あなたが長年働いてきたのは確かだけど、私だって主婦として家庭を支えてきた貢献はあるんだから」

「待て…待てよ、幸恵。そんな…突然すぎる。俺たち、三十年以上連れ添ってきたんだぞ? 綾乃も産んだじゃないか。思い出も、苦労も、全部一緒に」

「思い出?」

幸恵は鼻で笑った。

「あなたの思い出って、深夜の帰宅と、休日のぐうたら寝てる姿と、無言で晩飯を食べる姿ばかりよ。綾乃だって、もう独立したんだから、私たちのことは気にしてないわ。むしろ、母が幸せになるならって、理解してくれると思う」

賢一は言葉を失った。眼前の妻が、あまりにも遠い他人に見えた。この人は、確かに幸恵の顔をしている。しかし、その口から出る言葉の一つ一つが、毒の針のように彼の心臓を刺し貫いていく。

「…どうして…どうして、今? 今日、俺が退職した日に」

「今だからじゃない。タイミングは完璧でしょ」

幸恵はきっぱりと言った。

「あなたに収入がなくなる前に、法的に財産を確定させておかないと、こちらの取り分が減るかもしれないから。全ては計算済みなの」

計算。全てが計算だった。最後の数年間、時折見せていた幸恵の冷たさは、単なる気まぐれでも倦怠期でもなく、この日のための布石だったのか。新しい男との関係を固めながら、賢一が退職する日を待ち、財産を刈り取る算段をしていたのか。

「…ひどい…女だ」

「現実的なだけよ。愛情のない婚姻関係を続けることの方が、よっぽどひどいことだと思うわ」

幸恵は立ち上がり、書類を賢一の前に滑らせる。

「署名欄はここ。印鑑は持ってるでしょ。早く済ませた方が、お互いのためよ。言っておくけど、浮気で訴えても無駄よ、あなた何も証拠もってないでしょ?仕事しかしてないんだから。あなただって、これからは自由な身なんだから、のんびり好きにしたら?」

そう言い残すと、彼女はタイルの床をカツカツと音を立てて、二階へと上がっていった。背中は、一片の未練もなく、まっすぐだった。

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AIが紡ぐ大人の官能短編『妄想ノベル』案内人です

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