第1章: 湿気た顔の男と、透けるTシャツの女

第1章: 湿気た顔の男と、透けるTシャツの女
夏の終わりの陽光は、まるで溶けた蜜のように肌にねっとりとまとわりつく。
エアコンが吐き出す風は乾いていて、部屋の空気をかき混ぜるだけ。古い紙と埃の匂いが、そのたびに鼻をつく。
松本公夫は、リビングのソファに深く沈み込んでいた。
テレビの画面では明るいバラエティ番組が流れているが、その声はこの部屋の空気とは全く次元の違うノイズにしか聞こえない。
妻の陽子は午後からの観劇の準備をしており、化粧室から時折、甘ったるく、どこか品のいい香水の匂いが漏れてくる。
あの匂いは、公夫にとってこの家がもう自分の居場所ではないことを告げる、冷たい合図だった。
「卒婚」という言葉が、陽子の上品な口元からさらりとこぼれた日のこと。
籍は入っているが、お互い干渉しない。そう彼女は言った。
それ以来、この家はただ同居するだけの無機質な箱と化し、公夫の存在は、使われなくなった古い家具のように隅っこに追いやられていた。
何もすることがない。
長年勤め上げた会社を定年で退き、嘱託勤務も終われば、公夫の世界は一気に視界が狭まった。
かつては仕事という名の砦があった。そこにいれば、家族という形が保たれ、自分という人間の価値も担保されていた気がした。
だが、その砦は崩れ、家族という形も陽子によって「卒業」させられてしまった。
残されたのは、時間だけが気だるく過ぎていく空虚な箱。
若い頃、一時期夢中になったパチンコ。それだけが、公夫の日常を埋める唯一の手段だった。
毎日午後になると、彼は決まって散歩のふりをして、一時間ほどかけてそのパチンコ屋へと向かう。
道中、若い母親たちが連れ添う子供たちの甲高い声や、自転車で通り過ぎていく学生たちの無邪気な笑い声が、まるで自分とは関係のない世界のBGMのように遠く流れていく。
パチンコ屋の重い扉が開くと、煙と汗と機械の熱気が混じり合った、どろりとした濃密な空気に体が包まれる。
耳をつんざくような金属音と効果音、それに夢中になる人々の無気力な横顔。
ここは、誰もが他人で、誰もが時間を殺している場所。
公夫はいつものように、一番奥の隅にある1円パチンコ台の前に座った。
小さな玉が転がるカタカタという音だけが、自分の心臓がまだ動いていることの証明のように思える。
何時間もただ無心にレバーを握り、ボタンを押す。
今日もまた、色褪せた一日が始まるのだろうと、そう思ったその瞬間だった。
「おっさん、湿気た顔してんな。儲からへんのか?」
耳元で響いたのは、まるで金属を削るような甲高く、少し荒れた関西弁だった。
びっくりして顔を上げると、そこにいたのは、見るからにこの場の空気とは馴染まない、あまりに鮮やかな色彩の女だった。
明るい茶色のロングヘアがくしゃりと肩にかかり、濃いメイクをした大きな目が、公夫をじろりと見下ろしている。
体に張り付くように薄い白いTシャツは、下に何も着けていないことを露骨に示しており、小さな乳首の形が黒い影としてくっきりと浮かび上がっている。
下は、太ももがほとんど出ている極端に短いデニムのホットパンツ。
そのウエストからは、きっと派手な色をしたパンティが少しはみ出しそうな気がして、公夫は思わず目をそらしてしまった。
「なんや、そのしょんぼりした顔。パチンコで負けたんか、それとも人生に?」
女は笑いながら、何の遠慮もなく公夫の隣の席にドシリと腰を下ろした。
甘ったるいフルーツ系の香水の匂いと、微かに混じる汗の生々しい匂いが、鼻孔を突く。
彼女の体から発せられる熱が、隣に座る公夫の腕をじんわりと温めていく。
水沢真美、32歳。後で知ったことだが、彼女はこのパチンコ屋の常連で、いつもあの大胆な格好で、まるで自分の王国を歩く女王のように振る舞っていた。
真美は公夫の機械を覗き込み、まるで子供に教えるように指でレバーを叩いた。
「あんた、その打ち方あかんで。もっと右から左へ流すんやて。ほら、こうや」
彼女の指先が、公夫の指先にふと触れた。
その瞬間、びりびりと痺れるような熱が公夫の背中を駆け上った。
--もう三十年以上、妻以外の女性に肌を触れられたことはなかった…。
その事実だけが、異様な昂奮となって頭の中で渦巻く。
真美は無邪気に、しかし公夫にとってはあまりに挑発的に、自分の打ち方を教え続ける。
彼女の話す声、笑う声、時々髪をかき上げる仕草。
そのすべてが、公夫の退屈だった世界に鮮やかな色を塗りつけていくように感じられた。
彼はもう、パチンコの玉の行方などどうでもよくなっていた。
ただ隣にいる女の体温、匂い、そしてTシャツの隙間から時折見える、汗で濡れた谷間の白い肌に、意識がすっかり奪われていた。
閉店の放送が流れ、パチンコ屋の騒がしさが急に静まり返る。
公夫はまだ何も言えないまま、席を立とうとした。
すると、真美が彼の腕にすっと絡みついてきた。
「あんた、飯食うとこ知ってんの?」
「え、あ、いや…」
「よっしゃ、決まりや!安くてうまいとこあるねん。あたしが奢ったるで、ついて来なさい!」
強引に引っ張られて、公夫は言われるままについていった。
陽子との食事は、いつも沈黙だけが流れるテーブルだった。
味気ない手料理を、箸を動かす音だけを立てて口に運ぶ。
だが、真美が連れていったのは、そんな場所とは正反対の、騒々しい居酒屋だった。
カウンター席に腰を下ろすと、真美は「とりあえず生ビール!」と元気よく注文する。
氷の入ったジョッキがぶつかり合う音、周囲の客の大声、厨房から聞こえる油の跳ねる音。
公夫は、まるで異世界に迷い込んだように気圧倒されていた。
「公夫って、何してたん?」
「え…?」
「名前、教えてもろたやろ。公夫やろ?あたしは真美。で、仕事、何してたん?」
真美は、すでに公夫のことを呼び捨てにしていた。
彼女のぺちゃくちゃと続く自慢話や愚痴に、公夫はただ相槌を打つしかなかった。
そんな時、真美がふいに公夫の腕に自分の腕を重ねてきた。
アルコールで少し赤らんだ頬を近づけ、彼女はくっと笑った。
「公夫、しけてるよな。でも、そんなところ好きやわ」
その触れられた部分だけが、まるで火傷をしたように異様に熱く感じられた。
公夫は、自分の人生で初めて、誰かに「しけてる」と指摘され、しかもそれを「好きだ」と言われた。
その言葉が、乾いてカサカサになっていた心の奥深くに、じわりと染み渡っていく。
彼はもう、この女から逃げられない。
そう直感した。
その夜、居酒屋を出て、別れ際に真美がくれた「また明日な」という言葉と、その時の艶めかしい笑顔が、公夫の脳裏に焼き付いて、離れようとしなかった。

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