第9章: 記憶の鎖
第9章: 記憶の鎖
スマホの画面の光が、暗い室内で徹の顔を青白く照らしていた。
山田朋美。
何百という検索結果を、徹はもう一時間以上もスクロールし続けていた。同姓同名の女性たちのSNSプロフィールが、無機質に流れていく。結婚式の写真、子どもの写真、旅行の写真。どれもが他人の人生で、彼女のものではない気がした。
――見つからない。
窓の外は完全に暗くなり、部屋にはパソコンのファンの音だけが微かに響いている。
徹はスマホをベッドに投げ出し、天井を見つめた。虚しさが、胃の底からじわじわと這い上がってくる。なぜ今更、彼女を探しているのか。三十年以上も前の出来事だ。あの夏の日は、もしかしたら朋美にとっては、忘れてしまった子供の遊びの一つでしかないかもしれない。
それでも、体は覚えている。
口に含まれたときの、柔らかい唇の感触。
舌が亀頭を包んだときの、ぬるりとした湿り気。
そして、あの甘く生臭い匂い――朋美の髪に漂う雨の匂いと、唾液と、初めて嗅いだ自分の精液の匂いが混ざり合った、唯一無二の香り。
「はあ……」
思わず吐息が漏れる。股間が、かすかに疼いた。四十五歳の今でも、あの感覚だけは鮮明に蘇る。現実の女性とのセックスでは、決して味わえない電撃的な快感。
徹は起き上がり、部屋の隅にある段ボール箱の山を見つめた。引っ越してからずっと、開けずに放置している古い荷物だ。中には、子供の頃のものも混じっているはずだ。
むくりと立ち上がり、一番古そうな箱を引きずり出す。埃っぽい匂いが立ち上る。蓋を開けると、中から色あせたノートや、プリント類、懐かしいおもちゃが現れた。
そして、その底に一冊の日記帳があった。
小学校高学年の時に使っていた、キャラクターものの薄い日記帳だ。表紙は少し破れ、角が擦り切れている。
徹はそれを取り出し、ぱらぱらと頁をめくった。稚拙な字で書かれた、日々の出来事。遠足のこと、テストのこと、友達と遊んだこと。
そして――夏休みのページで、手が止まった。
*七月二十六日 くもり時々雨*
*今日はともみちゃんの家であそんだ。雨がふってて、外にでられなかった。でも、ともみちゃんがおもしろいビデオをみせてくれた。外国のひとがでてて、ちょっとびっくりした。ともみちゃんは「すごいね」って言ってた。ぼくもすごいとおもった。なんだか、どきどきしちゃった。*
文章はそこで終わっていた。その先の詳細は、一切書かれていない。子供心に、書いてはいけないことだと感じたのだろう。
徹は日記を閉じ、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。たったこれだけの記録しか残っていない。あの強烈な体験が、この幼稚な文章に収められていることが、逆にむなしく感じられた。
箱の中をさらに漁ると、アルバムが出てきた。
家族写真のアルバムだ。めくっていくと、小学六年生の時の学級写真があった。整列した子どもたちの中に、小さな自分の顔。そして、その隣に――。
ショートカットの髪、ぱっちりとした大きな目。口をへの字に結び、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべている。
朋美。
徹の指が、写真のその部分をそっとなぞった。プリントの表面は冷たく、デジタル画像とは違う、物質的な存在感がある。
――あの日、君は何を思っていたんだ。
写真の中の朋美は、当然何も答えない。
突然、スマホが振動した。メールの通知音だ。
徹はアルバムを膝の上に置き、スマホを手に取る。差出人は、中村美咲だ。
件名は「ご連絡」。
本文には、丁寧な言葉遣いで、また食事に行きませんか、と書かれていた。今週末、新しいイタリアンレストランがオープンしたので、もしよければ、と。
徹はメールを読み終え、しばらく画面を見つめた。返信しなければならない。礼儀として。
しかし、指が動かない。返事を書く気力が、どこにも湧いてこない。美咲は良い人だ。真面目で、誠実で、悪いところは何もない。
それなのに。
なぜか、彼女の顔が思い浮かばない。代わりに脳裏に去来するのは、写真の中の十二歳の少女の横顔だった。
――ダメだ。
徹は首を振り、メールへの返信を保留にした。そのままスマホを置き、アルバムをめくり続ける。
夏休みの写真が数枚、続いていた。家族で海に行ったときのもの。その中に、一枚だけ、朋美が写っている写真があった。
町内の夏祭りで、浴衣を着た朋美が金魚すくいをしている瞬間だ。背中から捉えた写真で、彼女の肩にかかった浴衣の襟元が少し乱れ、首筋が覗いている。
徹はその写真をじっと見つめた。浴衣の生地の向こうに、あの日脱ぎ捨てた白いパンツを思い出す。花模様が淡くあしらわれた、小さな下着。
そして、その下にあった――。
ぐちゅりと濡れた、小さな裂け目。
柔らかい粘膜の襞。
舌でなぞったときの、塩味と甘味が入り混じった複雑な味。
「……っ」
股間が、また疼く。ズボンの上からでも、膨らみが感じられる。徹は思わず、その部分を手のひらで押さえた。熱を持ち、脈打っている。
こんなことではいけない。四十五歳の大人が、三十年以上前の記憶だけで興奮している。異常だ。病的ですらある。
それでも、体は正直だった。
徹はアルバムを閉じ、再びベッドに倒れ込んだ。天井のシミを見つめながら、あの雨音を思い出す。窓を叩く激しい水音。テレビから流れる外国語の喘ぎ声。そして、朋美の荒い吐息。
全てが混ざり合い、一つの官能的な交響曲となって、今も耳の奥で鳴り響いている。
次の日、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人は「県立桜ヶ丘高等学校 同窓会実行委員会」とある。徹の出身高校だ。卒業以来、一度も出席したことはなかった。
徹は封筒を開け、中から案内状を取り出した。今年でちょうど三十回目の節目の同窓会だという。開催日は三週間後。場所は都内のホテル。
そして、別紙として出席者名簿の案内が同封されていた。参加申し込みをした卒業生の名前が、随時更新されていくという。
特に興味はなかった。徹は封筒を机の上に放り投げ、コーヒーを淹れに行った。いつものようにMacBookの電源を入れ、クライアントからの修正依頼メールを確認する。
コメント