第8章: 現在の渇き
第8章: 現在の渇き
駅前のイタリアンレストランは、ちょうどランチタイムが終わり、午後のゆったりとした時間帯に入っていた。
テーブルクロスの白さが眩しく、フォークとナイフが微かに光っている。
徹は向かい側に座る女性――中村美咲の話を聞きながら、コーヒーカップの縁に指をかけた。
「それで、結局そのプロジェクトは無事に終わったんですよ。深夜までかかっちゃったけど」
美咲が笑いながら話す。
彼女の声は明るく、話し方に無駄がなかった。三十八歳、総務課で働く事務職。婚活パーティーで名刺を交換してから、これが三度目の食事だ。
徹は相槌を打つ。
「大変でしたね」
「でも、達成感はありました。徹さんもフリーランスだと、そういうのありますよね?納期に追われたりして」
「ええ、あります」
会話は淀みなく流れる。
美咲は良い人だった。真面目で、話もしやすい。外見も悪くない。肩まで伸びたストレートの茶髪は手入れが行き届いていて、化粧も自然だ。
だが、徹の胸の奥では、何も動いていない。
美咲が笑うたびに、その口元の動きが、なぜか別の顔と重なって見える。
――ぱっちりとした黒目。
――ショートカットの髪。
――無邪気に尖らせた唇。
「徹さん、お仕事ってどんな感じなんですか?WEBデザインって、すごくセンスが必要そうですよね」
美咲が尋ねる。彼女の瞳は徹を真っ直ぐに見つめ、興味を持っていることを示していた。
徹は少し考えてから答えた。
「クライアントの要望に合わせて、バナーやランディングページを作るのが主です。地味な作業が多いですよ」
「でも、形になるものを作るって、素敵だと思います」
その言葉に、徹は内心でため息をついた。
美咲は確かに「良い人」だった。このまま付き合いを続ければ、あるいは真剣な関係に発展する可能性もないわけではない。
しかし。
彼女がナプキンを取る手の動きを見ていても、スープを飲むときの首筋の曲線を見ていても、何も感じない。
触れたいと思わない。
抱きしめたいと思わない。
唇を重ねたいと、微塵も想像できない。
「今日はありがとうございました。また時間があれば」
レストランを出て、駅の改札前で美咲が言った。彼女の顔には、少し期待を込めた微笑みが浮かんでいる。
徹も笑顔を作る。
「ええ、また連絡します」
それが嘘だと、自分でもわかっていた。
美咲は軽く手を振り、改札の中へ消えていった。
徹はその背中を見送りながら、ふと自分の胸の内を覗いた。
――何もない。
温かさも、ときめきも、少しの興奮さえも。
まるで砂漠の底に立っているような、乾いた空虚だけが広がっている。
自室に戻ったのは、午後の遅い時間だった。
マンションの廊下は薄暗く、自分の足音だけが響く。鍵を開け、狭いワンルームに入ると、コンビニ弁当の容器が机の上に散らばっていた。
徹はそれらを片付けようとし、やめる。
疲れがどっと押し寄せてくる。
シャワーを浴び、タオルで身体を拭きながら、浴室の鏡に映る自分の顔を見た。四十五歳。白髪が目立つようになり、目の下に深いくまができている。
――俺は、もう年だ。
しかし、身体の奥底では、まだあの日の熱が燻り続けていた。
ベッドに横になり、スマホを手に取る。指先が勝手に動き、エロサイトのアイコンをタップする。
画質の粗いサムネイルが並ぶ。金髪の女、黒人の男。ありふれたカテゴリーだ。
再生ボタンを押す。
英語の喘ぎ声がスピーカーから流れ出す。画面の中で、男が女の背後から激しく腰を振っている。肉と肉がぶつかる音。ぐちゅっ、ぐちゅっ。
徹の視線は、画面に釘付けになる。
だが、見ているのは女優の顔ではない。いつの間にか、その顔は別のものにすり替わっている。
――ショートカットの黒髪。
――大きな黒目。
――頬を赤らめ、唇を震わせている。
「んっ……あっ……」
画面から聞こえる喘ぎ声が、なぜかあの日の朋美の声と重なる。
徹の手が、自然にズボンのファスナーへと伸びる。チャックを下ろし、すでに硬くなっている自身のペニスを握りしめる。
手のひらの感触は、あの日朋美が触れたときの記憶を呼び起こす。
――ひやりとした指先。
――興味深そうな瞳。
――「徹のおちんちん、カチンカチンだね」
呼吸が荒くなる。
スマホを支えながら、もう一方の手で根元から先端へ、ゆっくりと擦り上げる。皮がむけ、赤く膨らんだ亀頭が露出する。
画面の中の女は、男の巨根を咥え込んでいる。唇がぬちゅっと音を立て、舌が這う。
徹の目を閉じる。
そこにいるのは、もう外国人女優ではない。
リビングのちゃぶ台の上。雨音が響く中、頬を紅潮させた朋美が、小さな口をいっぱいに開けている。
「……ちゅ……んっ……」
あの音が蘇る。
ぬるりとした唾液の感触。柔らかい舌のぬめり。口腔の温かさ。
「はあ……っ」
徹の腰が、思わず跳ねる。
手の動きが速くなる。指先で亀頭の先端をこする。敏感な部分がじんじんと疼き、背筋に熱い波が走る。
――朋美の口の中。
――あの甘く生臭い匂い。
――白濁した液体が、彼女の喉を伝っていく光景。
「くっ……!」
歯を食いしばる。
下腹部に、あの日と同じ収縮が迫ってくる。股間が熱を帯び、精巣がきゅっと締まる。
スマホの画面では、男が絶頂を迎えようとしている。腰の動きが荒くなり、唸り声が上がる。
徹は目を開ける。
だが、そこに映っている男の顔も、いつの間にか自分のものに変わっている。
十二歳の自分。真っ赤な顔をして、朋美の口の中に震えながら射精している。
「あ……ああ……!」
手の動きが止まらなくなる。
擦るリズムが速くなり、指先からはぬめりが滲む。先走りだ。塩っぽい匂いが鼻をつく。
――朋美が飲み下した。
――あの精子を、ためらいもなく。
「はっ……はあ……っ!」
腰が跳ね上がる。
腹の奥で、何かが弾ける。
びゅるっ、と熱いものが噴き出る。白濁の糸が空中に弧を描き、シャツの上、腹の上に飛び散る。
「んあっ……!」
何度も、何度も痙攣するように放出が続く。
腰が震え、足の指がぎゅっと縮こまる。
やがて、全てが終わる。
徹はベッドに倒れ込み、天井を見つめた。
胸が激しく上下し、汗が額を伝う。部屋の中には、生臭い精液の匂いがたちこめている。
虚しさが、重たい石のように胸の上に乗る。
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