第1章: 最初の種

第1章: 最初の種
夜の帳が下りた自宅の廊下には、いつもと同じ匂いが漂っていた。母の部屋から漏れ出す、甘ったるい安物の香水と、男の生々しい汗、そしてそれらをごまかすかのように噴き散る消毒液の匂い。それらが混じり合って、麻美には「夜」という時間の合言葉のように感じられた。ベッドの上で膝を抱え、麻美はその匂いを胸いっぱいに吸い込む。壁を隔てて聞こえるのは、母の甲高い喘ぎ声と、それを覆い隠すようなベッドの軋み、そして男の低い、獣のような唸り声。それはもう、幼い頃から繰り返されてきた、孤独なためのオーケストラだった。麻美は知っている。男が母を求めるのは、母の優しさでも、母の心でもない。ただ、母の体。その華奢な肩、しなやかな腰、そして男を悦ばせるために開かれる股の奥を、彼らはただ欲しがっているだけだ。自分の部屋の薄暗闇の中で、麻美は無意識に自分の華奢な体に触れる。まだ子供らしい、膨らみかけた胸と、平坦なお腹。この体も、いつか母のように男を熱狂させるものになるのだろうか。でも、欲しいのはそんな未来ではない。今、この瞬間に、誰かにこの体を「見たい」「触りたい」と渇望してほしい。母が男から受けるその熱い視線を、自分も受けたい。その渇きは、まるで喉がカラカラになる砂漠のように、麻美の心の中で広がっていた。
その乾いた心に、初めて水を差してくれたのは、担任の遠藤和也先生だった。朝の教室に現れる先生は、母の部屋にくる男たちとはまるで違う匂いがした。きれいな洗濯物の香りと、ほんのりとするコーヒーの香り。そして、何より優しい眼差し。麻美が答えに詰まると、先生は決して焦らせず、「じゃあ、渡辺くん、もう一度だけ考えてみようか」と穏やかな声で言う。その声は、麻美の荒れた心を、まるで柔らかい綿で包み込むように優しかった。でも、麻美は知っていた。その優しさの裏に、先生もまた「男」であることを。母の部屋で見てきた、あのどろどろした欲望の影が、先生の眼鏡の奥にも、きっと潜んでいるはずだと。誰かに見つめられ、求められたい。その孤独な渇きは、やがて特定の対象へと収束していった。遠藤先生。あの優しい先生を、自分のものにしてみたい。その歪んだ好奇心が、麻美の幼い心に、静かに芽生え始めていた。
午後の授業、国語の時間だった。窓から差し込む午後の陽光が、教室の空気を金色に染め上げ、粉塵がきらきらと舞っている。遠藤先生は黒板に向かい、淡々と古文を解説している。その声は、いつも通り穏やかで、眠気を誘うほどに心地よい。でも、麻美にはその声が全く耳に入らない。心臓が、小さな鳥のように胸の中でばたばたと羽ばたいている。今日、やる決めた。机の上に置いた鉛筆を、麻美は指でそっと押す。くるり、と転がった鉛筆は、床にこつん、と小さな音を立てて、先生の足元へと転がっていった。タイミングは完璧。先生が黒板から離れ、生徒の間を歩き始めたその瞬間だった。
「あっ」
麻美は小さな声を上げ、わざとらしく椅子から身を乗り出す。そして、ゆっくりと、膝を曲げて腰を落としていく。スカートの裾が、重力に従って静かに持ち上がる。水色のチェック模様が、自分の視界の端で小さく揺れる。太もものあたりまで裾が上がったとき、麻美は動きを止める。この体勢なら、先生の目には何が見えるだろう。頭を下げ、前髪の間から、こっそりと先生の足元を覗き込む。ピカリと光る革靴、その少し上、きちんと折り目のついたスラックスの裾。そして、その視線の先に、自分の下半身がある。白い、無地の綿のパンティー。それは決して艶やかでも、セクシーでもない。ただ、純粋で、無垢な、小学生の下着だった。でも、その純粋さこそが、麻美の最強の武器だった。ぴったりと肌に張り付いた白い布は、まだ発達途上の、柔らかくて小さな性器の形を、かろうじて隠しているだけ。中央には、淡い割れ目の影が、うっすらと浮かび上がっている。自分でも知らなかった、こんなに恥ずかしい格好を、大人の男の目の前で晒している。その事実が、背筋をぞくぞくとさせるような恐怖と、どこか甘い期待で、麻美の体を熱くしていく。
先生の動きが、ぴたり、と止まった。教室のざわめきも、黒板を書く音も、すべてが遠のいていく。世界に存在するのは、床に転がる鉛筆と、自分の晒された下半身、そして、先生の視線だけ。麻美は、先生の視線が自分の股間に、杭のように打ち込まれているのを感じた。それは、ただ見ている、というレベルのものではなかった。一瞬、きゅう、と引き攣れるような、激しい衝動。優しい教師の仮面の下に潜んでいた、雄としての本能が、無防備な獲物を見つけて、一瞬だけむき出しになったのだ。その視線の痙攣を、麻美は全身の皮膚で感じ取った。ああ、わかる。この気持ち。母が男から受けているのと、同じ熱い視線だ。その一瞬の確認が、麻美の中にあった何かの蓋を、開き放ってしまった。
ゆっくりと体を起こし、麻美は鉛筆を拾う。そして、顔を上げて先生を見る。顔は、完璧な戸惑いと、子どもらしい無邪気さで作り上げている。
「あ、ごめんなさい、先生。落としちゃって」
その声は、少し震えていた。でも、それは恐怖からではなく、抑えきれない高鳴りからだった。先生は一瞬、何も言えずに麻美を見つめていたが、すぐに教師の顔に戻り、「いいんだよ、気にしなくて」と慌てて言った。その声は、少し掠れていた。席に戻る麻美の背中に、先生の視線がまだくっついているような気がした。椅子に腰を下ろし、再び前を向く。教室は、いつもと同じ光景に戻っていた。でも、麻美の中では、何かが決定的に変わっていた。孤独で乾ききった心の土壌に、先生の熱い視線という水滴が落ちた。そして、そこから芽生えたのは、決して美しくない、歪んだ、黒々とした種だった。この種は、これからどんな恐ろしい花を咲かせるのだろう。麻美は、そんな予感に、胸の奥で小さく、甘く微笑んだ。




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