第1章: 午後三時の無人銭湯

第1章: 午後三時の無人銭湯
蝉時雨が脳髄を焼き尽くすような午後三時。空気は揺らめき、アスファルトの照り返しは目を眩ますほどに白く、まるでこの世界のすべてが溶けてしまいそうなほどの熱に包まれていた。母の実家の、古びた木造家屋の軒下から抜け出ると、肌にまとわりつく甘ったるい匂いは、溶けた飴と湿った土の匂いが混ざり合った、夏の終わりを告げる独特の香りだった。悠人は何となく、ただ何となく足が向かっていた。目的地は、幼い頃祖母に連れられて通った、町はずれの『大湯』という銭湯だ。十年近くぶりにその褪せた看板を見上げると、錆びた金具が軒でか細く揺れ、懐かしさと少しの物悲しさが胸の奥でじわりと広がった。ガラス戸を開けると、ひんやりとした、まるで時が淀んだかのような空気が顔を撫で、カラン、と遠くで水が滴る音だけが、静寂を縫うように響いた。誰もいない脱衣場は、自分の心臓の音だけが異様に大きく聞こえる聖域で、古い木の匂いと、微かに残る石鹸の香りがノスタルジアを誘う。ロッカーを開ける金属の軋む音が、広い空間に不意に響き渡る。ゆっくりと服を脱ぎ、タオルを腰に巻いて浴室の扉を開けると、白い湯気が壁となって立ちふさがり、その向こうの景色はすべてぼやけて、まるで夢の世界の入り口のようだった。湯気の熱が肌にまとわりつき、一瞬息が詰まる。誰もいない。ただ、湯船から立ち上る湯気と、壁のタイルを伝う水滴の音だけが存在する、完璧な静寂の世界。悠人はその静けさに安堵し、まずは体を流す場へと向かった。腰を下ろしたプラスチックの椅子が、冷たいタイルに少しだけ音を立てる。シャワーをひねると、温かい水が肩から背中を伝い、一日の暑さと埃を洗い流していく心地よさに、思わずうっとりと息が漏れる。この時間、この場所が自分だけのものだという事実が、何よりも贅沢な気分にさせてくれた。その静寂を破ったのは、決して大きくはない、しかし確かな扉の開閉音だった。悠人は手の動きを止め、耳を澄ました。誰かが入ってきた。大人の、重い足音ではない。軽やかで、少しはしゃいだような、子供の足音だ。胸がどきりと、不意に高鳴る。こんな時間に?湯気の向こうから、小さな影がゆっくりとこちらへと近づいてくる。最初はただの揺らめきだったが、やがてそれは人間の形を帯び、明るい茶色の、まるで子狐のようなボブカットが、白い霧の中に浮かび上がった。小学生くらいだろうか。小柄な体つきで、派手な色のTシャツとショートパンツという、まさに夏休み中の子供らしい格好をしている。彼女は悠人に気づいたのか、一瞬立ち止まった。その大きな黒い瞳が、湯気の向こうでこちらをじっと見つめている。緊張した空気が、ピンと張った糸のように二人の間に張り巡らされた。大人である自分が、こんな場所で、こんな幼い少女と一人きりだ。その事実が、急に重くのしかかってきて、逃げ出したい、あるいは何か声をかけなければ、という焦りに襲われる。しかし、その思考に先立って、少女が動いた。彼女は悠人のほうに向き直り、少し首をかしげながら、無邪気に、それでいて澄み切った声で言った。
「こんにちは」
その一言に、悠人の緊張はふっと解け、代わりに戸惑いが込み上げてきた。どう返事しようか。なんて声をかけようか。頭の中が真っ白になる。その間も、少女は何の気兼ねもなく、悠人の隣、わずかに距離を空けた場所に、小さなプラスチックの椅子を置くと、何の躊躇もなく、そこに腰を下ろした。きゃっ、きゃっ、と甲高い声で水を浴びる音が、広い浴室に反響する。彼女は自分の小さな洗面器に石鹸を溶かし、泡立てながら、自分の体を洗い始めた。その様子は、まるで日常の一部そのもので、この場の非日常感とはあまりにもかけ離れていた。悠人は息を殺した。隣にいる少女の存在が、熱い針のように肌に突き刺さる。その小さな背中、無防備に伸びた首筋、石鹸の泡で滑らかになった腕の一本一本が、ことのほか鮮明に脳裏に焼き付いていく。これは間違っている。この目で、このように見てはいけないのだと、理性が叫ぶ。しかし、その叫びは湯気に溶けて、かえって少女の肌の色、その瑞々しさを際立たせるだけだった。彼女は時々、悠人のほうをチラッと見る。その視線には、好奇心と、ほんの少しの遊戯心が宿っているようで、決して悪意や恐怖はなかった。おそらく、彼女にとっては、たまたま入浴時間が重なったただの近所のお兄さんにすぎないのだろう。だが、二十歳になった悠人にとって、この光景はあまりにも刺激的で、危険だった。自分の体を洗う手つきが、おずおずとしたものになってしまうことに気づき、恥ずかしさで顔が熱くなる。少女の名前は、後で知ることになるが、さくらといった。彼女は泡をたくさん作るのが好きなのか、胸のあたりを白い山のように盛り上げては、くすくすと笑っている。その無垢な笑い声が、湯船に響いて、悠人の心臓を締め付ける。どうしよう。ここを出るべきか。でも、そんなことをしたら、彼女を驚かせてしまうかもしれない。変なおじさんだと思われるだろう。そう思うと、体が動かない。まるで呪いにでもかけられたように、その場に凍り付いてしまう。さくらは体を洗い終えると、今度は小さな桶で湯を汲んでは、何度も何度も体にかけた。そのたびに、水しぶきがパラパラと悠人の足元に飛んでくる。その一滴一滴が、まるで電流のように感じられた。そして彼女は、ゆっくりと立ち上がると、湯船へと向かった。小さなお尻が、左右にゆっくりと揺れる。その姿を、悠人は見ていた。見ないように努めながらも、完全に見ていた。湯船にゆっくりと身を沈めるさくらの口から、「はぁ〜」と、満足げなため息が漏れる。その声に、悠人はまたも心臓を鷲掴みにされた。言葉はなかった。ただ、湯の音と、二人の呼吸だけが、午後三時の無人銭湯を満たしていた。奇妙な共同生活が、音もなく始まった。

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