通夜の線香の残り香に欲情した初老の男が四十九日明けに喪服の幼馴染を押し倒すまで
あらすじ
定年後の乾いた独り暮らし。茹でた素麺ばかり啜る男に、幼馴染の夫が死んだと電話が入る。通夜の線香の煙の下、喪服の襟元に目を奪われ、四十九日明けには風呂上がりの浴衣の肌を前にして、五十八年の枯渇が音を立てて剥がれ始める。
第1章 素麺の夜と喪服のうなじ

第1章 素麺の夜と喪服のうなじ
湯気の立つ素麺を啜る音だけが、六畳の部屋に湿った律動を刻んでいる。すすり込むたびに、つゆの甘辛い匂いが鼻の奥へ抜けて、麺の白さが蛍光灯の下で透き通る。卓の上には薬味の小皿、擦りたての生姜だけが山と盛られ、他に賑わいと呼べるものはない。俺は箸を止め、白い光を纏った麺の束をしばらく見つめた。定年退職から半年。毎晩こうして台所へ立ち、湯を沸かし、乾麺をばらばらと落とす。誰に命じられたのでもない。ただ、それだけのことを繰り返すことで、今日と明日の境がなんとか保たれている。味気ない暮らしを形だけでも守ろうとする、惰性の骨組みが、この麺の白さの中にある。
テレビからは若い女優たちの甲高い笑い声が溢れていた。旅番組のロケらしく、水着姿の女が砂浜を走り、夕陽を背にして軽やかに跳ねている。俺は素麺を喉へ流し込みながら、その脚の線を追った。太腿から膝、ふくらはぎ、足首へと流れ落ちる曲線が、逆光に縁どられて白く浮かび上がる。綺麗だと思う。だが、下腹が熱くなるというのとは違う。ただ、あの肌に触れたならどれほどの温度なのだろうと、ぼんやり考えている。その思考はいつも、手のひらの乾いた感触へと行き着くばかりだ。
俺は箸を置き、両手を開いた。皺のみぞが走る指、節の張り出した甲、薄くなってくすんだ爪。この手はこの何十年というもの、誰にも触れていない。あの女優の脚を撫でたいという欲望ではない。もっとずっと手前の、人肌の温みそのものを知らないまま老いてゆく情けなさが、腹の裏で冷たい石のように沈んでいる。抱きしめた相手の記憶はことごとく曖昧で、輪郭だけが古い水の底に沈んだまま、二度と浮かび上がってはこない。
テレビを消そうとして、結局そのままにした。女優はもう海から上がり、民宿の囲炉裏端で魚を焼いている。炎の橙が画面の中で揺れ、脂の滴る音が笑い声の合間に混じった。俺は食器を流しへ運び、水を出して麺の残りを洗い流す。指先を刺す水の冷たさが、この家の全ての温度を奪っていく気がした。このままでは誰にも看取られずに死んでいくのだろう。孤独死。新聞で見慣れたその言葉が、いつの間にか俺自身の予後を指すものへ変わっている。恐怖ではない。天気予報を聞くときと似た、静かな諦めだけが腹の底に溜まっていた。
日付が変わる頃、電話が鳴った。
無機質な電子音が、静まり返った六畳の空気を鋭利な刃のように切り裂く。俺は濡れた手を薄いタオルで拭い、恐る恐る受話器へ手を伸ばした。時計の針は十二時を回ったばかりで、こんな時刻に連絡を寄越す相手など一人しか思いつかない。それでも受話器を持つ指先が、自分の心音とは別の震えで鈍く疼いた。
「もしもし、浩さん……?」
その声が耳へ流れ込んだ瞬間、胸骨の裏側を湿った指でゆっくりと握り込まれたような心地がした。裕子だ。幼馴染の山口裕子。何年ぶりかに聞く声は、記憶の奥に住む少女の高い響きではなく、深い潤みを帯びた大人の音だった。鼻声で、喉の奥にまだ吸い込めていない涙が絡みついている。声の震えそのものが、電話線を通して俺の耳たぶをそっと舐めた気がした。
「裕子か。久しぶりだな」
壁に肩を預け、受話器を握る手のひらに汗が滲むのを感じる。平静を保とうとするほど、指先と声の距離がもどかしく空転した。
「主人が……今朝、心筋梗塞で……」
言葉が途中で途切れ、湿った沈黙が線を伝わって流れ込んでくる。冷たく、重たく、それでいてどこか生暖かい沈黙だった。蛍光灯の白い明かりが、にわかに遠退いた。
「あんた、どこにいる」
「病院から、いま帰ってきたの。明日、葬儀社の人と話すんだけど……わ、私、ひとりじゃ……それに、四十九日が済むまで、浩さんにだけは知っておいてほしくて」
裕子の声が震え、その震えが受話器を伝って俺の耳の奥の浅い窪みへ沁み込んでくる。かつての少女の泣き顔が、瞼の裏に古い映像のように立ち上がった。五十年以上前、近所の神社の裏で転んで膝を擦りむき、泣きべそをかいていたあの横顔が、今この受話器の向こうで俺の名を呼んでいる。
「わかった。俺でよければ、何でも手伝う」
「ありがとう……本当に、ありがとう。ねえ浩さん、通夜には来てくれる? 告別式にも、できれば四十九日の法要まで、そばにいてほしいの。あの人側の親族がうるさくて、美咲だけじゃ心細くて……」
美咲。裕子の一人娘の名を、彼女自身の口から聞くのは初めてだった。かつて封書の端で見た文字が、今この瞬間、生きた声になって俺の胸へ落ちてくる。彼女は夫側のしがらみの中で、それでも俺という旧い男を縋る先に選んだ。それがどういう形の信頼なのか、このときはまだ分からない。ただ、胸の奥で塵埃を被っていた古い感情が、震えながら頭をもたげてくるのを感じた。
「浩さんって、昔から、そういう人だったわね」
その一言が、乾ききった心の底へ細い水を流し込む。乾いた苔が息を吹き返すような、くすぐったい疼きがあった。俺は「そうか」とだけ短く応え、日取りと段取りを聞き取った。通夜は明々後日の十八時から、告別式は翌日の午前。彼女の声に耳を傾けながら、胸の内に生まれ始めた熱が、悲しみと呼ぶには尖りすぎていることを、俺はすでに半ば知っていた。
翌々日。
黒い喪服に身を包んだ俺は、裕子の実家から五分ほどの場所にある斎場の駐車場で、参列者の誘導をしていた。夕刻の風は芯から冷たく、雨上がりの土が放つ生温かい匂いを混ぜ込んで、鼻の奥を湿らせる。車が砂利を噛む鈍い音、ドアの開閉、参列者たちの沈んだ挨拶、黒い靴音。それらの喧騒の中で、俺の心は不思議なほど落ち着いていた。自分が役に立っているという、何十年ぶりの手応えが、身体の芯を低く支えている。こんな日でなければ味わえない充足が、確かに背骨をまっすぐ伸ばしていた。
「浩さん、受付のほうへ来てくれる?」
裕子が背後から声をかける。振り返ると、黒い長袖ワンピースを着た彼女が立っていた。肩のあたりで切り揃えられた黒髪は、午後の湿気を含んで重たく、艶というものを失って首筋に張りついている。首の白さだけが、蛍光灯の薄明かりの中にぽっかりと浮いていた。切れ長の花茶色の瞳は泣き腫らしたように赤く縁取られ、瞬きのたびに濡れた光を揺らめかせる。喪服の襟元は堅く閉じられ、鎖骨の窪みには陰りが落ちて、その奥にだけ白い肌の気配が隠されている。彼女のまわりには白菊の苦い甘さと線香の煙が、目に見えない膜のように張りついていた。
「ああ、大丈夫か」
「私は平気。あなたこそ、無理しないでね」
彼女はそう言って、かすかに微笑んだ。口元だけに現れた疲れの色が、かえって輪郭を昔の少女に戻している。俺たちは並んで斎場の廊下を歩いた。履き慣れない革靴の底が硬い床を叩くたびに、空々しい音が天井へ吸い込まれていく。すれ違う参列者が、俺と裕子の顔を交互に覗いていく。その視線の一瞬の迷いが、妙に鋭く肩へ突き刺さった。
受付で芳名録の整理を手伝い、ふと顔を上げると、裕子の姿が消えている。受付の女性に尋ねれば、故人の兄と葬儀社の打ち合わせだという。俺はしばらく無意味に芳名録を捲っていた。墨で書かれた名前の列を目で追い、その一つひとつに詰まった故人との関係性というやつが、自分にはまったく無縁のものに思える。それが落ち着かなくて、線香の一本でも上げさせてもらおうと、通夜会場へ足を向けた。
祭壇の白一色の花。中央に据えられた遺影の男、山口誠一。初老の男が、わずかに口元を緩めてカメラを見ている。俺はその顔をじっと見つめた。生前、親しくしていたわけではない。田舎町を出てからの裕子の人生は、年賀状の遣り取りが途絶えてしまってから、ほとんど何も知らない。だが、彼女が選んだ男の顔は穏やかで、根の深い善良さをたたえている。悪い人ではなかったのだろうと、遺影の前でようやく理解できた。その理解が、逆に腹の底の昏いものを少しだけ押し上げた。
「線香を上げさせてもらうよ」
俺は誰にともなく呟き、ろうそくの火へ線香をかざした。先端が赤く色づき、細い煙が揺れながら立ちのぼる。甘いような、焦げ苦しいような、あの独特の煙の匂いが鼻腔の奥を満たし、肺の奥までゆっくりと沈んでいく。白い煙は、風もないのに形を変えながら、俺の顔のほうへ降りてきた。煙の先端が頬へ触れるか触れないかの距離でほどけて、目の前を白く掠める。
その時、背後で衣擦れの音がした。
振り返らないまま、それが誰なのか分かった。畳を踏む足音、住み慣れた人間だけが持つ気配の密度。
「浩さんも、上がってくれたのね」
裕子の声は静かで、線香の煙に溶けるように俺へ届く。彼女は俺の左隣に並び、遺影へ視線を向けた。二人で白い煙を見送る時間が、どれほど続いたのかは覚えていない。祭壇の花の甘い匂いと、線香の苦い匂いとが混じり合い、胸の奥底の古い記憶をゆさゆさと揺する。
「昔ね、浩さんと神社の裏で線香花火をしたの、覚えてる?」
裕子が突然そう言って、俺を見上げる。その仕草が、五十年という時間を一息に蒸発させた。俺は小さく頷く。
「落ちるもん、最後まで見てたやつが勝ちって、真っ暗になるまでやってたよな」
「ええ。浩さん、いつも私の分まで見ててくれて……」
彼女の声がそこで途切れた。指先が、喪服の膝のあたりをきゅっと掴む。黒い布に刻まれた細かな皺が、蛍光灯の下で乾いた波のように広がった。
「あなただけは昔から変わらない」
裕子が、遺影ではなく俺の横顔を見たままそう呟いた。その花茶色の瞳の奥が、ゆらゆらと揺れている。声に宿るのは、感謝か、懐旧か、それとももっと昏い依存の色か。それを判ずるには、彼女の呼吸はあまりに浅く、まつげの影はあまりに深かった。
そのとき、彼女が身じろぎをして、火の番をしていた長い釣香炉の前へ腰を屈めた。閉じられた喪服の襟元が、彼女の体重を受けてほんの僅かに開く。ぎゅっと押し殺した白さが、薄暗い会場の空気の中でのぞいた。首筋に沿って一本の白い後れ毛が貼りつき、その奥の肌は青白い火のように仄明るい。彼女が動くたび、黒い布へ染み込んだ線香の匂いがむわりと濃く立ち込める。白檀の甘さと灰の苦み、そして喪服の生地が吸い込んだ沈鬱な空気。鼻から吸い込んだそれらが、舌の付け根へ微かに甘い膏を残す。
俺は息を止めそうになった。いや、違う。喉の奥で線香の煙を飲み込み、胸の下あたりに熱い滴が落ちていく。下腹のさらに奥、骨盤のあたりに、ずっと忘れていた刺すような痛みと熱が蘇る。欲情と呼ぶには滑稽なほど初々しく、だが確かに、あの白い後れ毛を指で払ってやりたい、唇で首筋に触れたい、あの襟元の奥へ手を差し込みたいという、明確な飢えだった。俺は線香を香炉へ立て、一歩だけうしろへ退がり、乱れた呼吸を悟られまいと軽く咳をした。火照った唇の内側を、冷えた空気が擦り抜けていく。
「裕子さん、檀家さんが来られたわよ」
喪服の女性が入り口から声をかける。裕子がはっとして立ち上がり、一瞬だけ俺を見て、何かを言いたげに唇を開いた。だが、言葉にはならず、彼女は頭を下げて会場の外へと歩き出す。黒い背中に張りついた線香の匂いが、空気の帯となって俺の前を引きずられていく。その帯を、喉の奥でまだ啜っている自分がいた。
俺はまた、遺影へ目をやった。線香の煙が、写真のガラスへ薄く映る。煙は流れ、揺れ、そして消える。あの男が最期に彼女をどう見たのかは知らない。ただ、通夜の夜のしじまの中で、自分の中に生まれた熱を自覚するほどに、俺はこの場にいることへの赦しを求めていた。いや、赦しではなく、もっと薄暗い許可を。
その夜、締めの挨拶を終えた裕子は、檀家衆の一人ひとりに深々と頭を下げていた。黒い背中がわずかに震え、首を曲げるたびに後れ毛が白くこぼれる。俺は駐車場の隅で、その姿をただ見つめていた。風が湿った土の匂いを運び、彼女の髪の一筋を揺らす。遠い記憶の少女と、目の前の未亡人が、線香の煙の名残の中でひとつに重なっていく。俺の腹の奥で、あのくすぶった熱が小さく息を継ぐ。指先が覚えているのは、彼女の肌ではなく、彼女の肌を確かめられなかったこの長すぎる時間の感触ばかりだった。
第2章 四十九日、浴衣の襟の内側

第2章: 四十九日、浴衣の襟の内側
四十九日の法要が終わったのは、日がとっぷりと暮れてからだった。寺の本堂に響いていた読経の声がやみ、参列者たちが三々五々に帰っていく。俺は最後まで残って、折り畳み机の片付けを手伝っていた。裕子は喪服から黒の地味な平服に着替えていて、それでも首元から漂う線香の匂いは、あの通夜の夜から変わらず彼女の輪郭にまとわりついている。十一月の半ば、夜の空気はもう芯から冷えていて、吐く息が白く濁るほどだった。
「浩さん、この後、お時間あるかしら」
裕子が、参列者を見送ったあとの静けさの中でそう言った。指先で黒い鞄の持ち手を握りしめ、俺の顔をまっすぐ見ている。花茶色の瞳は、疲れの色に沈みながらも、どこか覚悟の灯りを宿しているように見えた。
「ああ、別に何もないよ」
俺は、畳んでいたパイプ椅子を壁に立てかけながら答えた。自分の声が、思った以上に軽く響く。本当は、このまま帰るのが怖かった。彼女と二人きりで過ごす時間が、自分の中の燻りをさらに大きくすることを、うすうす感じ取っていたからだ。
「それなら、家に寄ってくれない? 遺品の整理のことで、少し相談したいことがあるの」
裕子の家は、斎場から歩いて十分ほどの住宅街の奥にある。俺は黙って頷いた。彼女の後ろ姿を追いながら、舗装された細い路地を歩く。電柱の灯りが、彼女の黒い肩先を淡く浮かび上がらせ、歩くたびに線香の匂いが冷たい風に解けて俺の鼻先へ流れてくる。古い記憶のなかの裕子は、いつも俺の半歩先を歩いていた。あの頃と同じ距離を、五十年分の時間を挟んで、俺たちは今、歩いている。
家に着くと、裕子は玄関の鍵を開け、俺を居間へ通した。六畳ほどの和室で、中央には年季の入った卓が据えられている。座卓の向かい側に座るよう促され、俺は正座を崩してあぐらをかいた。部屋の中には、線香の匂いが家じゅうに染み込んでいる。壁も畳も柱も、あの通夜の夜からずっと悲しみを吸い続けてきたように、重たく匂い立っている。仏壇の棚の上には、白木の位牌と、遺影が小さく並んでいた。写真の中の男は、穏やかな顔でこちらを見ている。
「お茶、麦茶でいいかしら」
裕子は台所へ立ち、冷蔵庫から冷やした麦茶の入った瓶を取り出した。薄暗い台所の蛍光灯が、彼女の黒い服ににじむ。俺は自分の膝の上に置いた拳を、無意識に握り締めていた。心のどこかで、この場所に線香の匂いが染み渡っていることを、自分の欲望への言い訳にしようとしている浅ましさがある。
「浩さん、あのね……」
裕子が麦茶をガラスのコップに注ぎながら、背中越しに話しかけてくる。部屋を満たす静けさのせいで、彼女の声は必要以上にくっきりと聞こえた。
「主人の服とか、釣り道具とか、ああいうのをどうしたらいいのか……男の人の目で見て、要るもの要らないものを分けてほしいの」
「釣り道具か。旦那さん、釣りが趣味だったんだな」
「ええ。若い頃はよく出かけていたのだけど、ここ数年は仕事が忙しくて、物置にしまいっぱなしで。ああいうの、私じゃ価値が分からなくて」
彼女は手際よくコップに麦茶を注ぎ、盆に載せて戻ってきた。俺の前に静かに置かれたコップの内側で、薄い琥珀色の液体が揺れる。表面に細かい泡が浮かび、ゆっくりと消えていく。俺は「ありがとう」と短く言い、まだ口はつけなかった。喉の奥に張り付くような乾きがあったが、今この場所で水を飲むことが、妙に気恥ずかしかった。
「物置、明日にでも見てやるよ。俺でよければ、仕分けくらいは手伝える」
「本当に? 助かるわ。一人だと、何から手をつけていいのか……」
彼女はそう言って、座卓を挟んで向かい側に座った。黒いワンピースの裾から、すんなりとした足が覗き、白い肌が畳の仄暗い色と鮮やかに分かれる。裕子はコップを両手で包み込み、一口だけ麦茶を飲んだ。白い喉が、ごくん、と柔らかく動く。
「でもね……整理をしていると、段々、私、変なことを考えちゃって」
彼女がうつむく。中指の腹で、ガラスの表面に浮いた水滴を拭う。その仕草は、何かを隠そうとする女性の細やかなためらいのように見えた。
「主人のこと、悪く言うのは、本当は良くないって分かっているのよ。でもね、浩さん……あの人、最期まで私のことを、女として見てくれなかったの」
裕子の言葉が、線香の匂いの重なった空気の中に、ぽつんと落とされる。俺は咄嗟に「女として」という響きを反芻した。それは、俺たちが通夜の帰り道に一度だけ、彼女がぽつりと漏らしたあの言葉に似ている。いや、あの時よりもっと深く、彼女自身の肌の寂しさから剥がれた生々しい告白だった。
「主人はね、本当に真面目な人だったの。お酒も飲まない、浮気もしない、仕事一筋で。休みの日は疲れて寝ていることが多かったから……そういう夜のことがあるってこと自体、私、この何年も、忘れて暮らしてきたのよ」
「何年も……か」
俺は、返す言葉が他に見つからなかった。彼女の声は淡々としていて、だからこそ、その奥に押し込められた孤独の深さが想像できる。夫婦でありながら、女として見られないまま過ごした年月。それがどれほどの乾きであるかは、誰よりもこの俺が知っている気がした。
「俺もずっと独りだったよ」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。我ながら陳腐だと思った。だが、今の俺には、それが精一杯の誠意だった。寂しさと寂しさを重ねることでしか、この空気を受け止められない。彼女は顔を上げ、わずかに笑った。嘲るような笑みではなく、ひどく安心したような、力の抜けた笑みだった。
「浩さん、あなたって、ほんとに不器用なのね」
その言葉に、俺は返すことができなかった。部屋には、畳の古い草の匂いと、柱に染みた木の匂い、そしてどこまでも線香の残り香が沈殿している。仏壇の前に、夫の遺影がある。俺の腹の奥では、昨夜までの自分にはなかった何かが、音もなく頭をもたげ始めている。
「今日は法要で疲れたでしょう。よかったら、お風呂を沸かしてあるから、先に入って。私は……私も、あとでいただこうかしら」
裕子は急に立ち上がり、風呂場の方へ消えた。一人になった俺は、所在なく部屋の中を見回す。窓の外では、風が庭木を揺らしている。障子越しに聞こえる葉音が、乾いた針の音に似ていた。
十五分もしないうちに、浴室の戸が開く音がした。俺は座卓の上の麦茶をやっと口に含んだ。冷えた液体が喉を通り、それでも胸の奥の火照りは消えない。コップを置いた時、廊下から柔らかな足音が近づいてきた。顔を上げた俺の目の前に、裕子が立っていた。
青地に百合の散った浴衣。白い花が、深い青の布の上にぽつりぽつりと咲いている。帯は白地に細い藍の線が入った半幅帯で、やや緩く結ばれていた。襟元は浅く合わせてあり、そこから覗くのは、火照った胸元。湯上りの皮膚が、やわらかく桜色に上気している。生え際には、まだ湿り気を帯びた黒髪が細く貼りつき、滴るほどではないが、しっとりと光っていた。
俺は咽喉を詰まらせた。正確には、咽喉というより、胸骨の下あたりが硬く縮み、息が腹まで届かなくなる。裕子は両手で襟元を押さえるようにして、俺の斜め前へ腰を下ろした。彼女が動くたびに、石鹸の匂いと湯の匂い、それから女の皮膚から立ちのぼる淡い体温の匂いが、線香の残り香を押し分けて届く。
「ごめんなさい、お待たせして。私、お風呂から出たところで、まだ火照ってて……」
彼女は少しはにかんで、白いうなじを見せた。その動きに、浴衣の襟元がぐっと曲がる。青地の布の奥に、鎖骨の影が浮かぶ。俺は目を逸らそうとして、逸らしきれなかった。視線が、生え際に張りついた後れ毛の先から、火照った胸元の窪みへ、どうしようもなく吸い寄せられる。銭湯を覗く中学生のような、浅ましくて、でも抑えることのできない飢え。五十年以上も昔、神社の裏で見せてくれた、あの白い夏の首筋の記憶が、今の彼女の姿に重なった。
「浩さん、麦茶、まだ半分も飲んでないのね。ぬるくなっちゃった?」
裕子が、座卓の上のコップに手を伸ばす。彼女の指が、ガラス越しにこちらへ差し出される。俺もまた、反射的にコップへ手を伸ばした。いや、受け取ろうとしたわけではなく、何かを掴みたかったのかもしれない。いずれにしても、動機は自分でも分からなかった。
二人の指先が、コップの冷たい曲面の上で触れた。裕子の中指の先が、俺の薬指の節に一瞬だけ重なる。濡れた冷たさ。あたたかい濡れ。湯上りの指は、ひどく柔らかく、そして、はっきりと熱を帯びていた。
裕子が息を呑んだ。俺も、心臓の鼓動が背中にまで響くのを感じた。触れたのはほんの二秒ほど。裕子は「あ……」と小さく声を漏らし、手を引っ込める。腕が浴衣の袖を擦り、青い布が揺れる。
「ご、ごめんなさい。私、何をやってるのかしら」
彼女は指先を自分の胸元に握り込み、うつむく。俺はコップを卓の上に置き直し、言葉を探した。胸の内では、裕子の指の感触が、そこだけに残った火傷のように熱を持って居座っている。
「いや、俺の方こそ、手を出して悪かった。驚かせたな」
そう言いながらも、俺の目は、彼女の手元から胸元へ、また彼女の火照ったうなじへと動く。青い浴衣の襟から続く肌の斜面。半袖から覗く腕は、白く、年齢を感じさせないほどしっとりとしていた。五十六歳の女の身体を、綺麗だと思う。これまで生きてきて、正気で女の肌をこんなふうにまじまじと見つめたことはない。
裕子はしばらく黙った後、覚悟を決めたように顔を上げた。
「ねえ、浩さん。今日は、もう遅いでしょう。よかったら、泊まっていきなさい。無理にとは言わないけれど……この家、男手があると、やっぱり安心するの」
彼女は、遠回しにそう言い置くと、立ち上がって押し入れへ向かった。布団を取り出そうと腰を屈める。浴衣の背中がしなり、青地に散った百合の花が、彼女の動きに合わせてひらりと開いては閉じる。腰を曲げた拍子に、襟元から白い胸元がわずかに覗き、半幅帯の奥の腰の丸みが布の上から浮かんだ。
俺は答えを返せないまま、その姿を見つめ続けていた。線香の匂いが、風呂上がりの肌から立ちのぼる湯気に混じり、部屋の暗がりを甘く満たしている。畳の上に落ちる彼女の影が揺れる。俺は自分の意思とは関係なく、立ち上がれずに、ただ、見ていた。彼女が敷き布団を重そうに棚から引っぱり出す姿を、五十年分の渇きを抱えた目のまま、じっと見つめ続けていた。
第3章 一度だけ昔へ戻る夜

第3章: 一度だけ昔へ戻る夜
押し入れの前で腰を屈めた裕子の背中が、しばらく動かなかった。青い浴衣の肩甲骨のあたりに、天井の灯りが薄く落ちて、百合の花が白く浮き立って見える。畳の上に取り出された敷き布団はまだ半分折り重なったままで、彼女はそこに手を置いた格好のまま、俺の返事を待っている。
「わかったよ。泊まらせてもらう」
自分の声が、思ったよりも低く、落ち着いていることに内心で驚いた。喉の奥はひどく乾いていた。心臓は、破れてはいないものの、肋骨の内側を絶え間なく叩き続けている。なのに、口から出たのは、何十年も前からこの瞬間を待っていた男の平坦な返答だった。
裕子がゆっくりと上体を起こす。彼女の横顔がこちらを向き、花茶色の瞳が、何かを探るように俺を見つめる。唇が、少しだけ開いた。
「ありがとう。じゃあ……布団、二組出すわね」
「いや、俺は客間じゃなくていい。そこに敷いてくれれば十分だ」
「でも……」
「いいから。慣れない家で、あちこち動き回る方が迷惑だろ」
彼女はしばらく黙って、それから小さく頷いた。再び押し入れに向かう後ろ姿を、俺は正座したまま見ていた。浴衣の裾が畳を擦る音だけが、やけに大きく部屋に響く。彼女が棚の奥からもう一枚の敷き布団と白いシーツを引っぱり出すたびに、押し入れの中で古い空気が潰れて、黴とも樟脳ともつかない匂いが微かに溢れてきた。
「ごめんなさいね、こんな散らかった部屋で」
「何言ってるんだ。俺のアパートよりよっぽど片付いてるよ」
「あら、浩さん、お部屋どんななの?」
「畳の上に物が散らからないようにしてるだけだ。一人暮らしが長いと、物を持たなくなる」
「そういうものなの……」
裕子は敷き布団を二枚、部屋の中央に少し間をあけて並べた。白いシーツを広げ、手のひらで皺を伸ばしていく。彼女が腰を動かすたびに、浴衣の襟元が開いては閉じ、白い胸元の影がひらひらと灯りに揺れる。俺は、そのたびに視線を畳の目へ落とし、呼吸を整えようとした。目を逸らすたびに、余計に見ていたことを自分で認めているようで、みっともなかった。
「灯り、どうする? 寝るまで点けておく?」
裕子が手を止め、首を回して俺を見る。首筋の淡い影、白い後れ毛。湯上りの湿り気をまだ残した肌から、かすかに石鹸の香りが立つ。俺は言葉に迷った。灯りを消せば、この部屋は線香の燃えかすの匂いと夜の闇に閉ざされる。点けたままでいれば、裕子の浴衣の模様をいつまでも見つめてしまう。
「どっちでもいいよ。裕子の家だから、裕子の好きなようにしなさい」
「それ、ずるい」
「ずるい?」
「ええ。浩さんって、そうやって決めないのばっかりなんだから」
裕子は口元をほころばせて、敷き布団の端を整えた。その仕草は、昔のままの少女のような気安さと、五十六歳の女の物憂いとを、どちらも同時に滲ませている。俺は慌てて、自分が履いていた黒い靴下を脱ぎ、持っていた上着を畳の上に畳んで置いた。
「じゃあ、そのまま点けておこう。眠くなったら消すから、構わないでくれ」
「そう。じゃあ、私もそうするわ」
彼女はそう言うと、居間の片隅に座り、脱いだ上着を小さく畳み始めた。俺もまた、スラックスを脱いでハンガーにかけようとしたが、そんな場所がこの部屋にあるか分からず、畳んで布団の脇に置くだけにした。下着の上は、通夜の時から着ている黒いワイシャツ。裾から、老いた腹の肉がわずかに覗かないよう、座ったまま静かに上着のボタンを外した。
「浩さん、そのシャツ、薄くない?」
「薄い? 十一月だぞ。寒いくらいだ」
「そうだけど……年を取ると、首元を冷やしちゃいけないのよ。よかったら、これを羽織って」
裕子が、押し入れから取り出した薄い藍色の肌掛けを差し出す。俺が受け取ろうと手を伸ばした時、彼女の指が、また軽く触れた。今度は誰も、手を引かなかった。互いの指が、布越しに重なったまま、二秒、三秒と時が溶ける。裕子の爪の先が、俺の指の甲をそっと擦った。それは、まるで、ここにいてくれという合図のように感じられた。
「……裕子」
俺が低く呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせ、それから、ゆっくりと俺の隣に正座した。手にした肌掛けが、するりと二人の間に落ちて、青い布が畳の上を滑った。
「何か話したいことがあるんじゃないか。さっきから、ずっと、言いかけてる顔をしてる」
俺は、自分でも驚くほど率直にそう言った。ずっと見ていた。彼女の唇が、何かを形にしては閉じ、また薄く開くのを。昔から、裕子が言いにくいことを抱えている時の癖だ。指先で膝の布をつまんで、何度も揉む。今、彼女はまるで、あの頃と同じ仕草をしていた。
裕子は、浴衣の袖を膝の上で握りしめた。細い指に、青い布がきつく食い込む。彼女の肩が、小刻みに震えている。ダメだと分かっていた。本当なら、気づかないふりをして、布団を被って、明日の朝には何もなかったように帰るべきだった。俺の頭の中には、白木の位牌と、灰皿に積もった線香の灰が浮かんでいた。あの遺影の男が、今、この部屋のどこかで、こちらを見ている。そう思うと、腹の底に黒いものが渦を巻いて、同時に、裕子の浴衣の襟から零れる胸の影が、目を焼くように迫ってくる。
「一度だけ……」
裕子の声が、襖に吸い込まれるように部屋に落ちる。彼女は顔を伏せたまま、搾り出すような震え声で言った。
「一度だけ、昔に戻りたいの」
俺は唾を飲み込んだ。ごくり、と咽喉が鳴る。昔に戻る。あの、何物にも縛られていなかった頃、互いの肌の温かさを確かめ合うだけで、幸せが流れ込んできたあの頃へ。そんなものは幻想だ。時間は巻き戻らない。男も女も、身体も心も、五十年という時間に浸かって、ひび割れ、湿り、重たくなっている。それでも、裕子の言葉は、俺の胸の奥に刺さったまま抜けなかった古い矢を、じわりと動かした。
「裕子、俺は……」
「お願い、言わないで。何も、確かめないで。ただ、昔みたいに、一度だけでいいの。私、浩さんに……抱いてほしいの」
彼女は、俺の胸に顔を埋めるみたいにして、腕を伸ばした。その指が、俺のワイシャツの胸元を掴む。白い指先がぎゅっと布を握り、彼女の髪が、線香の残り香をまとって、俺の鼻先に流れ込んできた。俺の手が、勝手に動き出す。頭の中で、何かがぐらりと崩れる音がした。もう、言い訳はできなかった。通夜の夜に彼女の喪服の襟元に欲情した、あの瞬間から、俺はいつかこうなることを知っていた。
俺は、裕子の肩を勢いよく抱き寄せた。彼女の身体が、羽根のように軽く俺の腕に収まる。浴衣の上から、女の柔らかな肉と、火照った皮膚の熱が、手のひらにびっしりと伝わってくる。裕子が「あっ」と短く悲鳴を上げて、体勢を崩した。俺はそのまま彼女を、敷いたばかりの布団の上へ押し倒した。どさり、と鈍い音。青い浴衣が乱れ、膝が露わになり、胸元が大きく開く。
「ゆ、裕子……本当にいいのか。今なら、まだ……」
俺は彼女の上に跨るようにして、荒い息を落とした。裕子は、真っ直ぐに俺の目を見ていた。花茶色の瞳が、涙で膜を張り、蛍光灯の光を細かく砕いて揺れる。彼女は何も言わず、両手を伸ばして俺の首に回した。それから、ほんの少し、唇を開いた。
「いいの。浩さんが……いいのよ」
彼女の腕が、俺の背中に回り、きつく絡みつく。彼女の呼吸が、耳元で熱く震える。俺は、片手で彼女の帯を探った。半幅帯の結び目は、思った以上に緩く、指先で引くとあっけなくほどけた。絹の擦れる音。しゅるり、と帯が背中の下から抜けていく。浴衣の前身頃が左右に開き、中から、白い肌襦袢が滲んで現れた。薄い木綿の下で、彼女の乳房が、年齢を重ねた柔らかさで横に流れ、呼吸に合わせて上下する。
(俺は、今から、裕子を抱くのか)
半生以上の時間をかけて、触れたくて触れられなかった女。その身体が、今、布団の上で、俺の下で、汗ばみながら開かれようとしている。頭の隅では、まだ位牌の白木が、線香の灰が、あの夫の遺影が浮かんでいた。しかし、それらはもう、俺の手を止める力にはならなかった。俺は浴衣の襟元を更に開き、肌襦袢の合わせに指をかけた。白い紐を解くと、彼女の肌が、胸元から腹、臍へと続く緩い斜面を描いて露わになる。女の身体の匂いが、むわりと熱く立ちのぼる。湯上がりの石鹸の香りの下に、ほんのりと汗ばんだ肉の匂いが混じる。俺は、生まれて初めて、女の肌に顔を近づけた。
「浩さん……私、もう、見られるだけで、どうにかなりそう……」
裕子のか細い声が、胸の奥から震えて出る。俺は、彼女の首筋に唇をつけた。彼女は小さく「んっ」と喉を鳴らし、背を反らせた。白い後れ毛を舌先で払い、耳の裏、耳たぶ、そして首の付け根へ、五十年分の飢えを吐き出すみたいに唇を押しつけていく。線香の匂いが、彼女の髪の根元にまだ残っている。俺は、その苦いほど甘い匂いを吸い込みながら、彼女の肌襦袢の下へ手を滑り込ませ、乳房を掴んだ。掌から溢れる。指の間に、むっちりとした肉が沈む。乳首だけが、つん、と硬く立ち上がって、手のひらを弾く。
「あぁ……っ、ん、くっ……」
裕子が声を殺して身をよじる。唇を噛みしめ、眉を寄せ、涙がこめかみに流れ落ちていく。俺は、彼女の顔を覗き込みながら、固く勃った乳首を指先で転がした。ぐっ、と彼女が咽喉を詰まらせ、胸が大きく跳ねる。その反応が、思っていた以上に鮮やかで、俺は息を呑んだ。
「声、我慢しないでいい。誰も……いや、いるのは、隣の家くらいだろ」
「でも……あっ、んん、こ、声は、その……だって、恥ずかしい……」
裕子は首を振りながら、だが確実に、俺の指の動きへ腰を預けていた。浴衣の下、太腿の内側がわずかに開き、肌襦袢の裾がまくり上がっていく。この女は、俺の触れ方を待っていた。ずっと、遠い昔から。そんな、身勝手な確信が、腹の底から駆け上がって、俺の自身を痛いほど張らせた。
俺は裕子の肌襦袢を胸元までたくし上げ、露わになった乳房へ舌を這わせた。二人の間から、湿った音が生まれる。甘くて、わずかに塩辛い肌の味。俺は乳首を唇に含み、強く吸った。裕子の脚が、シーツの上で、ばたばたと小さな波を打った。
「それ、あんまりされたこと……俺、初めてだから、加減も何もなくて。痛くないか」
「いたく……ない。気持ちいい。ねぇ、もっとして。私、私、こういうの、ずっと……ううん、浩さんにだけ、されるのが夢だったの」
それは、夫との夜を否定する意味ではないだろう。五十年という時間の前で、女が己の夢を口にした、ただそれだけのこと。俺の胸に、熱いものが溢れ、眼球の裏で火花が散った。夢だった。俺もだ。夜、眠る前に何度も、ありもしない裕子の裸を思い描いた。あの白い夏の首筋が、胸が、太腿が、闇の中で俺を狂わせた。それが今、本物の女の肉となって、俺の口の中に、手の中に、ある。
「夢を、叶えてやるよ。俺も……同じ夢ばかり見てきたからな」
俺自身の声が、別人みたいに粘りつく。裕子の瞼の際で、涙が震えた。その白い太腿に手を置き、ぐっと内側へ押し開く。彼女の下着は、淡い桜色をしていた。中心の、細い襞に沿って、うっすらと湿り気が滲んで、薄暗い部屋の中でも分かるほどに色を変えている。俺は下着の上から、そこへ中指で触れた。布越しに、分厚い肉の温度が伝わる。裕子の腰が、びくん、と跳ねた。
「浩さん、そんなとこ……ん、だめ、布が……」
「だめか?」
「んぁ……あの、でも、はしたないから……ゆっくり、剥がして。お願い」
彼女が両膝を立て、腰を浮かせる。俺は、濡れ始めた桜色の布を太腿から引き下ろした。股の間から、張りついた蜜の糸が、銀色に光って切れる。下りた下着は、足の爪先で畳へ落とし、俺は彼女の秘部を、まじまじと見つめてしまった。年齢を重ねた女のそこは、恥ずかしいほど熟れて、肉厚の襞が複雑に折り重なっている。黒い陰毛は濡れて乱れ、二つの花びらの奥から、透明な滴が、ゆっくりと溢れてくる。裕子の匂いが、大きく部屋の空気を変えた。せっけんの名残りを溶かして、蒸れた酸っぱい、若い女とは違う、発酵した果実みたいな濃い香り。
「あぁ見られるの、耻ずかしい……浩さん、お願い、もう灯り……」
「消さないよ。お前のここが、どんなふうになってるか、見たいんだ」
俺は、彼女の脚の付け根を掴み、左右へ大きく割り開いた。肉襞が、くちゅ、と音を立てて広がり、奥のぬめるような桃色が露わになる。裕子が叫び声を飲み下し、腕で顔を隠した。俺は彼女の唾液の匂いにも似た濡れた中心へ、人差し指と中指をゆっくり沈めていった。
「っぁ……あァ、ふか……ぃ」
彼女の内側は、最初、恐いくらいに固く締まっていた。侵入を拒むように、肉の筒が指を食いしばる。けれど、奥へ進むほどに、とろりと蜜が溢れて、俺の指を根元まで容易く飲み込んでいく。熱い。内臓の芯ごと、煮えている。指をゆっくり曲げると、ざりざりと粘膜の襞が指全体を擦り、裕子の中の広がりを嫌でも知らされた。
「んぁ……に、指、ふとくて……浩さんの指、長いのね……」
裕子が、顔を覆った腕の隙間から、熱のこもった視線を向ける。なまめかしい。こんな女の顔を、俺に向ける女が、この世に存在するのか。今、彼女の中で、俺の指が曲がり、掻き回すたびに、湿った音が暗い部屋に響く。俺は、その音がもっと聞きたいと思った。
「こっちに来て、俺の手、握ってろ。お前の声も、もっと聞かせろ。今、何を感じてる」
「そ、んな……言えない。浩さん、酷い……意地悪を、すぐ覚えるのね。あぁんっ、まって、中を、ひろげないで……!」
裕子の声が、突然ひときわ高く跳ね上がる。俺の中指が、ざらりとした襞の奥の、狡い窪みを掠めたらしい。彼女の腰が浮き、太腿の内側が痙攣する。愛液が熱く、掌を濡らし、指の付け根へ流れてくる。
「いいぞ、もっと、いけ。そのまま、俺の指で……」
俺は、彼女の声に背中を押され、指を増やそうとして、思い直した。二本で十分にきつい。裕子の中は、まるで俺の指を噛み締めて離すまいとする、小さな口みたいだった。五十八歳の男の、こんな性急な愛撫で、女がここまで感じてくれる。そんな奇跡みたいな夜が、この世に、二人きりの部屋に、本当にある。
「浩さん……私、もう、わかんない。自分が、どんどん水っぽくなって、怖い。こんなの、初めてで……あぁっ」
彼女が、俺のシャツの胸元を掴み、上体を起こしてしがみついてくる。涙で濡れた頬が首筋に押しつけられ、荒い息が、耳の裏をくすぐる。俺は彼女の背中を支えて、顔を自分の正面に導き、彼女の唇を見てしまった。唾液に濡れ、半開きのままで、舌の先が見えている。夢の女の、熱い口。呼吸が、ほとんど交わる距離。裕子は、自分から俺の首に手を回し、唇を押し当ててきた。つめたくて、厚い。ふっくらとした唇が、呼吸ごとにわなないている。吸う。挟む。震える。
「もっと、強く。浩さん……壊れるほど、して」
「あのな。無理すんな。心配になるよ」
「ねえ……お願い。私、今、あの人にも、誰にも、女にしてもらえなかった時間を、思いっきり埋めたいの」
彼女が、そう言って、俺の耳たぶを甘噛みした瞬間、激しい射精感の予兆が腰の奥を突き上げてきた。情けない。まだ、彼女の中に、自分のものを一度も入れていないというのに。俺は彼女を包むように抱き、布団の上へ、再び深く横たえた。
「分かった。じゃあ、俺も、遠慮なくする。辛くなったら、辛いと言え。何があってもお前を一人になんかしない」
裕子がこくりと頷く。頬が紅く上気し、黒い瞳はとろりと潤んで、焦点がぼんやり揺れている。俺は、慌ただしく自分の下着を脱いだ。怒張する。恐ろしいほどに。男根が、ずん、と重力に逆らって立ち上がり、先端から透明な液が糸を引いている。五年や十年の単位ですらない。女を抱くのは、いったいいつ以来のことだろう。若い頃、一度か二度。名前も忘れた女の身体を借りて、薄暗い部屋で射精したきり。その俺の男が、今、血管を浮かせて、見知った女の茂みへと狙いを定めている。
「いくぞ。痛かったら、言えよ」
「……来て。奥、あなたを、浩さんを待ってる」
俺は、裕子の秘裂に自身の先端を押し当てた。ぐちゅ、と蜜の音。ぬめる。肉の花が、亀頭をぬくぬくと包む。先だけ挿れた瞬間、腰が、カッと燃え上がった。裕子が、ひときわ大きな声をあげる。
「んんんっ──厚い、これ、まったく入らない……あッ、でも、おく、きてる……!」
彼女の中は、指で探った時より遥かに狭い。肉の壁が、男根の形を覚えていないのだ。二十年も、三十年も。柔らかく熟しているのに、異物を拒んで、根元から絞り上げるように収縮する。俺は、彼女の腰を支え、一気に、ではなく、じりじりと、奥へ沈めていった。
「ふかぁ……ッ、ひろしさ、ぁ……わたし、中が、見えるみたい……」
「裕子……締まる。お前の中、俺の全部に、まとわりついてくる。苦しいくらいだ。入りきらないぞ、これ……」
自分のものを根元まで挿し込むのに、何分もかかった。僅かに動かすたび、ざりざりと粘膜が擦れて、裕子が短い悲鳴を散らす。やがて、暴力的なまでの熱と圧。女の最も深い場所に、別の生き物が蠢くみたいに、彼女の肉が俺の男根を脈打ちながら抱き込んでくる。俺は腰を引こうとして、あまりの締めつけに、一瞬息が止まった。
「まだ、動か、ないで……奥、当たってる。子宮が、押されてるの……あッ、ふあぁ……!」
裕子の背が、弓なりに跳ねる。彼女の両手が、押しのけるように俺の胸を掴み、また、指を食い込ませてくる。爪の痛みが、逆に快感の芯を尖らせて、俺の腰が勝手に突き上がった。ぐっ、と獲物を貫く音。紛れもなく、自分が今、幼なじみの女の胎を突き上げている音が、俺の耳から脳へ、痺れるように流れ込んだ。
俺は彼女の太腿を抱え直し、律動を始めた。最初は、浅く、ゆっくりと。互いの呼吸を確かめるように、ぶつかり合う肉の音を、部屋の空気に馴染ませるように。だが、抽送が数えるほど進むうち、裕子の締まりは、先ほどより水気を帯び、ぐちゅ、にちゃ、という下品な水音を立て始めた。彼女の腰が、俺の動きを追ってくる。もっと、と内側から押し寄せる。俺の獣に、火がつく。頭が、沸いた。
「ぁ、ああ……ひろしさん、ずごく、なか、あたって……あッ、そこ、だめ、ぁああん、だめ……!」
「だめじゃない。お前の奥、こんなに、きゅうきゅう締めつけて……堪らない顔してるくせに。もっと聞かせろ、自分から、腰をこっちに押し付けてるぞ」
俺の声は、囁くというより、息を吐き捨てる獣の声に変わっていた。実際、俺の言葉ひとつで、裕子の腰が跳ね、膣の襞がぎゅぅぅと縮んで亀頭を搾る。何もかも、少女の頃に植えつけられた淡い妄想よりも、生々しく、汚れていて、あたたかい。彼女の腕が、俺の背中に回り、汗ばみのばらけた肌を掻いた。
「あっ、ひろ、しさ……ふかい、こんなの、しらない……どんどん、おく、おく……ッ」
裕子は首をのけぞらせ、白い喉を晒して、泣き声を漏らした。俺は腰のリズムを強く、深く、少しずつ早めて、彼女の熟れた中心を、突き上げるたびに潰していった。二人の繋がりから、ぐちゅん、ぐちゅん、と水が泡立つ。浴衣はすでに乱れに乱れて、敷き布団の上に、青い百合だけが散ったように広がっていた。裕子の腹に、汗が光る。乳房が、律動のたびに白く跳ねる。太腿の内側に、愛液が筋になって伝い、シーツへ染みを作っていた。
「ひ、ひ……も、しぬ、わたし、なんか、へんになる、ひろしさん、ぎゅって、して……あっ、あっ、あっ……!」
彼女が、譫言みたいに繰り返し、俺の腰へ脚を絡めてきた。彼女の膣が、これまでにない動きで、脈打つ。肉襞が、男根全体に吸いつき、根元から亀頭までを、波打つ呑み込みで搾り上げる。俺の中の五十八年分の水が、いっきに下がって、先端の奥で膨らんでいく。これは、勝てない。
「裕子、俺、もう……中で出していいか。抜けない、一気に……入れるぞ」
「きて……中で、いっぱい……私の奥で、浩さん、イってぇ……っ」
「う、あぁ……!」
どぷん、と音が骨に響いた。自分でも感じるほど、大きな脈が、腰の奥から男根を突き抜ける。精を、彼女の最も深い場所へ、叩きつけるみたいに吐き出す。どく、どく、と何度も。腹の底から、生きている証が絞り出されていく。裕子の目が、大きく見開かれ、花茶色の瞳の奥で瞳孔が揺れる。彼女の全身が、ひくひくと二度、三度、痙攣して、俺の背中を抱く腕に力が入った。
「あつい、のが……中に……すごく、熱くて……」
彼女の声が、泣きじゃくるように震えた。俺は体重を彼女の上へかぶせ、射精を終えてもなお堅い自身を、彼女の中へ置いたまま、荒い息を吐き続けた。精液の熱が、彼女の肉の中で渦を巻き、吸い上げられていく。まるで、彼女の胎が、俺の半生を一滴残さず飲み干そうとしているみたいだと思った。
これが、憧れていた裕子の……。俺が指一本触れることさえ許されなかった、あのひと。何十年も夢に描いて、痩せた壁へ押し当てて、無様に慰めてきただけの女。その女の、一番深い場所が、今、俺の出したもので満ちている。そう思うと、眼球の奥から、熱いものがあふれそうになった。
「浩さん……ありがとう。私……生き返ったみたい……」
裕子が、まぶたを閉じ、胸の上に倒れこんできた。その頬から涙が流れて、生温かく俺の鎖骨を濡らす。
「俺の方こそ、だ。お前が……お前が誘ってくれたから……」
何かを言い終える前に、彼女は、小さな声で、いいの、と呟いて、俺の胸に額を擦りつけた。線香の燃える匂いが、まだ暗がりに残っている。白檀と灰。それに混ざって、汗と男と女の匂い。布団の側に、蛍光灯の光が、彼女の背中の曲線を淡く縁取っていた。俺は、汗ばんだ彼女の肩へ手を置き、あとから、ゆっくりと、もう一度だけ彼女を深く抱いた。この夜を手放したくない。この、ひとときのぬくもりを。けれど、明けない夜はなく、密室に満ちる熱も、やがて冷める。
裕子が、寝息を立て始めた。泣き腫らした目が、閉じられたまま。裸のまま、俺の胸の上で、幼い子供みたいに眠っている。俺は、彼女の寝顔を見下ろしながら、五十年越しの夢が、音を立てて崩れていくのを感じていた。崩れるというよりも、栓が抜けて、堰き止められていたものが、身体の隅々へと流れ込んでいく。これは、哀しみにも似た幸福だった。
外の風が、雨戸を軽く鳴らした。夜が、更けていく。
第4章 押し入れの闇と内緒の夜道

# 第4章 押し入れの闇と内緒の夜道
あの夜が明けてから、俺の足は自然と裕子の家へ向かうようになっていた。まるで体内に埋め込まれた小さな磁針が、彼女の住む方角だけを正確に指しているかのように、気がつけば自転車のペダルを漕いでいる。肌を切る師走の風さえ、あの家へ近づくほどに和らいでいくような錯覚があった。最初はせいぜい、物置の釣り道具を仕分ける口実があった。錆びの浮いた工具箱、砂のこびりついた竿、持ち手の擦り切れた餌箱。それらを庭の隅で広げ、要る物と要らない物に分ける作業は、男手のない家には確かに必要な仕事で、裕子も素直にありがたがった。だが、物置の中身などあっという間に片付いてしまい、その後の俺は庭の草むしりや雨戸の点検、風呂釜の様子見など、いかにも「男の手」を必要とする理由を探しては、週末ごとに彼女の家へ通った。自分でも呆れるほど健気な通い詰めようだった。
十二月に入ると、日が沈むのが目に見えて早くなった。昼のうちはまだ、陽の光が庭木の枝に白く絡みついているのに、四時を回れば外気は冷たくなり、吐く息が薄く濁る。俺は軍手を外し、縁側に腰を下ろして、引き抜いた雑草の根に着いた土を払っていた。鼻の奥には、冷たい土の匂いと、どこからか流れてくる焚き火の煙の匂いが混じる。冬の夕暮れは、一日の終わりを容赦なく突きつけてくる。それなのに、この庭にいる時間だけは、時間がゆっくりと逆流していくような錯覚があった。裕子が台所から盆を持って現れ、湯飲みと急須を縁側に置いた。湯気が、冷えた空気に白くほどけていく。
「浩さん、ちょっと休んで。ほうじ茶だけど」
「わりぃな。こっちは勝手にやってるだけだから、構わないでくれ」
「勝手にって……あなた、最近、うちの庭を自分の庭みたいに手入れしてるじゃない」
彼女は口元をほころばせ、湯飲みを俺の横に置いた。裕子の手は白く、指先は冷たそうに赤みがかっていた。昼間は黒に近い紺の喪服ではなく、よれっとした生成りの長袖シャツに紺のエプロン姿で、首元から線香の匂いではなく、粉石鹸の淡い香りがした。それは、この家に通うようになってから覚えた、新しい裕子の匂いだった。
「そう見えるか」
「ええ。でも、嬉しいのよ。広すぎた庭を一人で眺めてると、時々、土が自分を埋めに来るんじゃないかって思うことがあって……」
「縁起でもないこと言うなよ」
俺はほうじ茶に口をつけながら、裕子の言葉の奥に沈む孤独を思った。夫が死んでからのこの家は、あの四十九日の夜から、俺が来ない平日はやはり広くて静かなのだろう。そう考えると、週末の手伝いが単なる口実を超えて、彼女の日々の穴をいくらか埋めているのかもしれなかった。いや、そうであってほしいと、俺は静かに願っていた。
夕餉のあと、風呂を借り、居間で並んでテレビを見る。裕子が淡い柿色の部屋着に着替えて座ると、首の後ろが白く灯りに浮いて、時折こちらを振り向いては、他愛ない話を続けた。彼女の夫のこと、近所の噂、スーパーで買った大根が安かったという、ほんの小さな報告。俺は「そうか」「よかったな」と短く返していた。本当は、彼女の声を聞いているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。それが言葉に出せないのは、五十八年分の不器用さのせいだった。
やがて、裕子が隣から身を寄せ、俺の腕に手を置いた。指先が、薄い部屋着の上から伝わってくる。女の手は、昼間の冷えが嘘のようにあたたかい。俺の呼吸がわずかに重くなる。彼女の耳裏のくぼみ、生え際に浮かぶ小さい汗、柔らかい木綿の襟元。顔が近づく。互いの間で、ほうじ茶の香りが混じった息が触れ合った。目の前の女の睫毛の一本一本まで見える距離で、裕子の鼻の頭が、ほんの少し赤い。その赤みに、俺の心臓は音を立てて鳴った。
「浩さん」
裕子が、瞳を伏せて呼ぶ。その声には、あの夜の甘いくずおれがすでに滲んでいて、俺は黙って彼女の肩を抱いた。部屋の灯りを点けたまま、俺たちは布団の上で重なった。線香の匂いの残る仏間から、遠い記憶みたいに白檀の香りが流れてくる。あの香りが、二人の行為を、死者の見守る場所で行われる密やかな営みのように変えていく。それなのに、俺の身体は、その静寂に背くほど激しく彼女を求めた。
「んっ……あ、あぁ……」
裕子の声は、回を重ねるごとに確かに大きくなっていった。最初の頃は、唇を噛みしめて咽喉の奥へ押し込んでいたものを、今では俺の背に爪を立てながら、切れ切れに零す。俺が彼女の中へ深く入るたび、肉の襞が粘りつく。彼女の膣は、俺のかたちに吸い寄せられ、迎えるように緩んで、それでいて亀頭を根元からしごき上げるような強い引きを持つ。あの初夜の、指すら拒むようだった硬さは、もうない。その代わりに、女として何十年も眠っていた場所が、俺を覚えて、俺を欲しがって、奥へ奥へと呑み込もうとしてくる。柔らかく濡れた肉の奥に、彼女の孤独が、渇きが、溜まりに溜まっていた。それを俺のもので満たしてやれることが、何よりも誇らしく、同時に切なかった。
「ふかぁ……ッ、浩さん、あ、声、出ちゃう。襖、閉まってるから、まわりに聞こえない……よね」
「聞こえてたって、別に構わないよ。誰もいないんだから」
「意地悪……あぅ、んんっ……」
彼女の太腿が、俺の腰に巻きついてほどけない。熱い肉の中を、じりっ、じりっと腰を押し込む。ちゅぶ、ぬちゃ、という濡れた音が、沈んだ空気の底に響く。柿色の部屋着の前をはだけただけで、襟元から零れる乳房が、薄闇のなかでふるふると揺れている。俺は左手で、その先端をそっと撫でた。乳肌は、見た目よりずっと柔らかく、指の腹が沈み込むほどだった。その先に、硬くとがった小さな突起が、俺の指を追いかけるようにふるえる。
「もう、こんなに硬くして……ここ、触られるの好きだろ」
「や……そんな言い方、恥ずかしい、から……ひぁ」
耳元で、甘ったるい声がほどける。腰を深く、速く動かす。部屋に肉のぶつかる音と、粘った水音が、重たい膜を張って広がる。裕子の膣の中が、熱くて、熱くて、それでいて柔らかく、俺のためだけにひらいた別の生き物の口のようだった。襞がうねり、亀頭を啜り、奥の肉がきゅうきゅうと締まる。彼女の身体は、俺を受け入れながら、同時に俺を食い尽くそうとしているみたいだった。
こういう時間を持つようになって、俺はようやく人として生きた心地がすると、心のどこかで静かに感じていた。それは情欲というより、何か、身体の内側で死んでいたものが、日を追うごとに血を通い始める感覚に近い。五十八年という時間の重みが、彼女の肌に触れるたびに、過去の乾きから現在の温度へと置き換わっていく。指先が、唇が、胸が、彼女という女を記憶していく。それは、少年の頃に知らなかった女体の地図を、今になって丹念に辿り直しているような行為だった。
しかし、その一方で、昼間に近所の塀越しに交わした挨拶が、妙に身に刺さるようになっていた。庭先で草を抜いていると、向かいの主婦が小さな雑種犬を連れて通りかかり、軽い会釈をよこす。俺が裕子の家に入るのを見た近所の老人が、会釈のあと、わずかに首を傾げる。ほんの一瞬だった。だが、その視線が、俺の背中に小さな棘を残す。棘は、日を追うごとに深く刺さり、夜になると疼いた。
「山口さんとこの立派な親戚の方かい」
そんな言葉をかけられたのは、先週の土曜だった。俺は曖昧に笑って、裕子の家の門をくぐり、履きものの砂を払う。咄嗟に「遠い親戚です」とも言えず、「ただの小さい頃からの知り合いでして」と、説明のつかない後ろめたさを呑み込んだ。ここの家と、俺のアパートのある市街まで、自転車で十五分。近所づきあいの濃いこの土地では、週末ごとに決まって現れる男は、放っておけば噂の種になる。だいたい、裕子の近所の男たちは、俺の何を知るでもなく、俺の来訪だけをじっと見ている。その眼差しは、泥棒を見るようでもあり、値踏みするようでもあった。
ある日曜の昼下がり。
十二月の陽は高く昇っていたが、風は冷たく、庭の金木犀の枝をゆらゆらと揺らしていた。俺は雨戸の建てつけを見るため、濡れ縁に上がって木の桟を持ち上げていた。裕子が、居間で洗濯物を畳んでいる。白いタオルを二つ折りにする音が、障子越しに聞こえてくる。ふと、玄関の外に軽ワゴンが止まる音がして、若い女の声が「お母さーん」と家の中へ飛び込んできた。俺の手が止まる。布団を干す間もなく、裕子が台所から廊下へ出て行く気配がした。スリッパの音が、小刻みに廊下を鳴る。
「あら、美咲。どうしたの、連絡もなしに」
「だってぇ、急に休みが取れたんだもの。たまには顔見せようと思って。あ、これ、駅前で買ったシュークリーム。お父さんの好物じゃなかったっけ。仏壇に供えて……あれ、誰か来てるの?」
娘・美咲の声は、よく通る明るい響きだった。俺は濡れ縁から慌てて体を起こしたが、逃げ場はない。玄関から正面の廊下に美咲が立っている。焦げ茶色のジャケットに白いカットソー、黒い細身のパンツ。眉毛の形は裕子に似ているが、背が高く、手足がすらりと長い。明るい茶色のミディアムボブを揺らして、きょろきょろと家の中を見まわしている。まだ大人と子供の間みたいな表情で、口元だけが父親似の薄さだった。都会の空気を纏った若い女の匂いが、玄関から流れ込んでくる。
「あら、靴。お客さん? お母さん、誰かと約束してたの?」
「ち、ちがうのよ。ほら、浩さん……この前の法要の時も手伝いに来てくれた、お母さんの昔のご近所さんで。庭の手入れとか、雨戸の具合とか、男手がないと大変だから見てもらってるの」
裕子が、普段より一段高い声で説明している。俺は泥の着いた軍手をそっと濡れ縁の隅へ置き、できるだけ落ち着いた足取りで居間へ入った。心臓が、耳の裏でどくどくと鳴っている。唾を飲み込む音が、自分にだけ大きく聞こえた。
「どうも、高橋です。裕子さんに小さい頃、ずいぶん世話になってて……足場の悪い所とか、手が届かない所だけ見てるんですよ」
俺は、曖昧な作り笑いを浮かべた。美咲は「へぇ」と口を半開きにし、それから、立てかけてあった雨戸の桟へ視線を移した。疑っているのではなく、単に、母の家に知らない男がいるという事態を面白がっているようにも見える。その目の奥に、娘の母を守ろうとする、小さな剣のような光が揺れた気がした。
「お母さん、私、今日泊まってくわ。明日の午後には帰るけど。あ、それなら浩さん、ごゆっくり〜。あたし、自分の部屋、空きっぱなしだけど平気かな」
彼女はばたばたと廊下を渡り、奥の六畳間へ入っていった。裕子が俺を見て、小さく謝る。俺は首を振り、居間の卓の前に座った。額に汗が浮いている。乾いた笑いが、胸の奥で砕ける音がした。
「すみません、子供が突然……本当に、何の連絡もなく帰ってくる子で」
「いや、娘さんの家だもの。気にするな。むしろ、俺が長居したらいかんだろ。適当な時間に、こっそり失礼するわ」
声をひそめてそう言った。裕子の顔いろが、さっと曇る。だが、言葉を交わす間もなく、美咲が奥の部屋から戻ってきて、居間の入り口に立った。肩にかけたボストンバッグを床へ置き、俺と裕子の顔を代わる代わる見る。その瞳が、明るい茶色の髪の下で、静かに何かを測っているようだった。
「お母さん、お風呂、あとで沸かしてくれる? なんか疲れてて、今夜は早く寝たいの。ねぇ、夕飯、何にする? 買い物、一緒にいこうか。あ、その前に、洗面所にタオル出しっぱなしでいいかな」
娘の矢継ぎ早な言葉に、裕子が困ったように笑う。俺は、いよいよ、この家の中で自分の居場所が余計になったと感じていた。座布団の上に座る自分の身体が、異物のように思える。空気が、俺の周りだけ固まっていく。
その時、玄関の引き戸が控えめにガラリと鳴った。
「山口さーん、回覧板ですよ」
向かいの主婦の声だった。裕子が弾かれたように立ち上がる。美咲が「はーい」と軽く返事をして、玄関へ出て行こうとした。
「あ、いいのよ、美咲。お母さんが出るから」
裕子が美咲を押しとどめ、小走りに廊下へ消える。居間には、俺と美咲が残された。窓の障子に、庭木の細い影が揺れている。どこか遠くで、物売りの軽トラの拡声器が、十二月の空に歌のような節をつけて流れていった。その音が、やけに遠く、他人事のように聞こえる。
「高橋さん、ですよね。あの、こうやって母の所に来てくれるの、いつも週末なんですか?」
美咲が、軽い調子で尋ねる。俺は、タオルで額を拭うふりをして、目を逸らした。
「ええ、まあ。ひとりだと危ない所って、気付かないものですから。裕子さんに、お父さんの釣り道具の件で声をかけられて、片付けた縁で、それから」
「ふぅん。でも、いい年した男の人が、お父さんのいない家に……あ、失礼、悪い意味じゃないんです。母が、変に親しくしてやしないかなって、正直、心配というか。するじゃないですか。私もこの春には三十になるし、お母さんだっていつまでも一人じゃ……あ、ほんと、変な言い方になった。ごめんなさい」
彼女は早口で、最後には笑い飛ばすみたいに手のひらを顔の前で打った。軽い口調のくせに、その目は笑っていない。俺は、心の臓のあたりに冷たい水をかけられたように感じた。そうなのだ。この家には、夫だった男の忌みが、まだ襞の奥に沈んでいる。いくらセックスレスだったと聞かされても、世間の眼から見れば、浩という男は喪服の似合う未亡人の家に通う、わけのわからない年寄りでしかない。自分で自分の首を絞めているようなものだった。
そのとき、玄関の外で、すこし若い、しかし落ち着いた女の声がした。
「あら、美咲ちゃん、帰ってきたの? お母さん、相変わらず綺麗ねえ。さっき、車、見えたから。この間なんて、庭でお母さんが笑ってるの、うちの主人と話してたのよ。最近、血色もいいし、何かあったのかしら」
回覧板を渡しに来た近所の主婦は、裕子と同年代らしい女だった。声に、幼い頃からここの家を知っている親しさと、ほんの少しの値踏みが混じっている。裕子は、曖昧に受け答えをしている。その語尾が、すこし上ずっているのを、居間の俺は聞いていた。ごまかしている。俺の存在を、彼女の生活の襞に隠すみたいに。不思議と、そのことが、裕子という女を、いっそう人の目から遠ざけて、俺だけのものにしているようで、心の奥に暗い快感が滲んだ。いや、違う。これは、そういう浅ましい喜びではない。裕子が俺を隠すほど、隠れた二人の世界が深くなるのを、身体のどこかが歓んでいるのだ。
夕方になると、裕子が夕食の準備を始めた。美咲が「あたしも買い物行くから、そのまま居てくださいよ。母、最近ひとりで寂しくしてたから、誰かいた方が元気になってる気がして」と言い、微笑みながら俺の腕に触った。女の子の指先はあたたかくて、少し汗ばんでいた。その無造作な馴れ馴れしさに、俺は隣人の目をいっそう強く意識した。若い女の指が、こんなに軽々しく男の腕に触れる時代なのか。いや、この娘は、自分の無防備さが男に何をもたらすか、まるで知らないのだ。その無垢さが、かえって痛かった。
俺は、いったん家を出ようと玄関へ向かった。ところが、美咲は「ね、お母さん、高橋さんも一緒に夕飯どうですか。どうせあたしの手料理なんて大したもんじゃないけど」と、裕子の腕に絡みながら言う。仕事で料理をする気力もないまま、母の家の匂いに甘えたい年頃の隙間が、その声に透けて見えた。裕子が俺を見る。困ったような、縋るような目だった。俺は「いや、悪いから」と一度は辞退した。それでも、玄関で靴を履こうとする俺の腕に、美咲がまた触れる。その指の熱さが、昼過ぎの若い女の速度のまま、俺の腕を捉えて離さない。
「高橋さん、せっかく来てるのに、用事が済んだらすぐ帰るなんて、母に悪いじゃないですか。男の人が家にいるの、久しぶりなんだし。あ、変な意味じゃなくて」
気付けば、俺は居間の卓に、再び腰を下ろしていた。裕子が、申し訳なさそうに、しかし、目の奥でほっとしたように微笑む。台所からは、美咲が冷蔵庫を開け閉めする大きな音と、水を勢いよく流す音が聞こえてきた。あの子は、よく喋った。仕事の話をしながら、母の背中に抱きつき、フライパンを手に取り、卵の殻を片手で割った。どうやら、この家にいるあいだは、自分を「世間」から連れて帰った子供として振る舞うことに決めているらしかった。その明るさが、古い日本家屋の夕闇に染み込んでいく。
夕食の間も、美咲は一人でよく喋った。仕事のこと、友人の結婚、母親が送ってくる重箱の作りものが持ち運びに不便だという話。それから、職場で実家の写真を机に出していたら、同僚に「山口さんとこのお母様、女優みたいな人ね」と言われたと、照れたように笑った。裕子は、菜箸を置いて、まあやだ、と小さく首を振る。その首すじが、オレンジがかった吊り灯の下で、うっすらと土色の影を帯びていた。俺はほとんど黙って、小皿の菜を拾っていた。裕子は、時々俺を見て、口元だけで笑う。その笑みに、俺は救われていた。
「そういえば、高橋さん。母が最近、すごくおしゃれに気をつけるようになって。今日も、あたしが帰ってきたとき、鏡の前で髪を梳かしてたの。昔は、父さんが死んでから、髪が伸びても放っておく人だったのに」
「もう、美咲。余計なこと言わないの」
「だって本当でしょ。この間、あたしが電話したときも、何か弾んだ声してたし。高橋さんが来るって、前の日から掃除してるんじゃないの」
いたずらっぽい、それでいて探るような声音。裕子は、箸先で煮物の人参をつまみながら、俯いた。俺は、宗十の昔話でも始めるか、いや、始められない。ただ、湯飲みに手を伸ばし、冷めたほうじ茶で喉を湿らせた。口の中に、茶の渋みと、夕餉の煮物の甘みが残っている。美咲の言葉は、なるたけ軽く受け流すべきなのに、裕子の耳がほんのり赤くなっているのを見ると、この食卓のどこにも逃げ道はないように思えた。彼女の耳は、昔から感情の色が出やすい。そんな小さな発見が、俺の心臓を、こっそりと、しかしはっきりと鋭く打つ。
夜のふける頃になると、美咲は「あたし、お風呂入ったから眠いや」と、あくびを噛み殺しながら二階の自室へ上がっていった。障子の影が消え、やがて、家の中に静寂が降りる。時計の秒針の音だけが、居間の空気を刻んでいる。カチ、カチ、という音が、やけに大きく響く。
「浩さん、ごめんなさい。まさか泊まることになると思わなくて……」
裕子が、泣き出しそうな小声で言った。
「何を謝るんだ。娘さんが帰って来たんだろ。いいじゃないか」
「でも、浩さんを、この家にいづらくさせてしまって。それに……私、美咲には、あなたのことを本当のことを言えてなくて」
「本当のこと、ってなぁ……」
俺は言葉に詰まった。裕子の膝の上で、指先が寒そうに組まれている。彼女はうつむき、しばらく黙った。その首筋に、夜の白い光が吸い込まれていった。痩せた肩が、小さく上下している。
「ねぇ、美咲に、あなたのこと、何て言ったと思う。庭と雨戸を見てくれる、昔の近所のおじさん、って。あの子、疑ってないわ。疑う理由もないもの。それが余計に怖いの。私はこの家で、死んだ人と血の繋がらない人を、両方の名前を使い分けて……いけない、こんな話、したくなかった」
彼女が、組んだ指に爪を立てる。細い三日月形の白い痕が、甲に浮いた。俺は、彼女の手を、上から、骨ごと包む。小さくて、ひんやりとして、それでいて、手のひらの中心だけが、まるで別の生き物の吐息みたいに熱かった。
「美咲は、もう寝たかい」
「ええ。あの子、寝つきはいいの。枕を並べて話したい、なんて、今夜は言わないわ。ずいぶん疲れてたから」
裕子の瞳が、居間の灯りをうけて、濡れた飴のように光った。
「浩さん、今日は、意地でも帰さない。このままお風呂沸かすから、入って。布団は、あの、もう少ししたら隣の部屋に敷くわ」
「馬鹿言うなよ。美咲がいるんだぞ。それに、俺がこの時間までいたら、それだけで、あの子だっておかしいと思うはずだ」
「なら、泊まって行って。朝早くに出れば、みっともなくないから。雨戸の続きがあるって言えば……ね、お願い。二人でいたいの。あの子が帰ってきた夜に、たまたまあなたも泊まっていっただけ。そう思わせて。明日の朝、あの子の前で、ちゃんと、庭の話をするわ」
そう言われて、俺の足は、玄関へ向かえなくなった。裕子は、いつもより少しだけ、開けっ広げに俺を見た。花茶色の瞳が、暗い居間の灯りの下で、縋るように細まっている。拗ねているようでもあり、泣いているようでもあり、そして、女の匂いが、じわじわと近づいてくる。女の匂いが、黒い喪服のあの日の夜よりも、ずっと生活にまみれて、それでいて甘かった。粉石鹸と、料理の油と、髪に残った柿渋色の夕暮れの匂い。ああ、この女は、自分の家の生活の熱を俺に預けようとしているんだなと、そんなことを脈絡もなく思った。美咲が来て、近所の女が来て、家という場所が急に世間に開かれたからこそ、閉じるべき夜が、余計に濃く、深く、俺たちを誘っているようでもあった。
「あんたが、そういう顔をしてると、俺は、帰るに帰れないよ」
「帰らないで」
裕子が、畳の上へ、片手を、音もなくついた。そのまま、畳に額をつけるみたいに、体を折る。肩のあたりで震えている。涙ではない。笑いでもない。たぶん、自分の中の何かが、人の形を保てないほど熱を持て余しているのだ。俺は、膝を立った。裕子の痩せた背中に、そっと手を当てる。木綿の部屋着の下で、女の背骨が、うすい肉を透かして浮いていた。彼女は、身を起こし、そのまま、俺の胸に顔を凭せかけてきた。ふわ、と上がる粉石鹸の残り香。その下に、女の皮膚が一日の終わりに放つ、じんっとした脂の匂いがある。
「浩さん、あなたが押し入れにいるとき、私、あの子に冷たい麦茶を出したの。ずっと、できなかったの。あの人を看取ってから、台所に立つと、あの人のいない夜ばかり思い出して、グラスに水を注ぐだけで指が重くなる。なのに、今夜はね、茶を、すうっと淹れることができた。あなたがいてくれたから。それだけで、もう、泣きそうだった」
裕子の小さな声が、俺の胸の肉の上で、くぐもって響く。俺の心臓が、その声の振動とぶつかって、ぞわり、と腹の下まで熱くなる。女というものは、こうやって、ふとした台所の水音や、グラスに落ちる氷の音にまで情を閉じ込めて、それを人の胸へ押し付けてくる。それが、どうしようもなく愛しくて、こう、咽喉がぎゅっと絞まるような、切ない怒りみたいな感情が込み上げた。
「馬鹿だな。俺は、麦茶くらい、いつだって淹れてたさ」
「そうね。でも、それができるようになったのは、あなたのせいよ。あなたが、この家に来るようになってから。だから、今夜は……そう、今夜は、どうしても、あなたを追い出したくないの」
美咲が眠ったことを確かめ、裕子は、灯りを消した台所で、残り物の煮物にふわりとラップをかけた。そうして、風呂を焚く。古いガス釜の唸る音が、家の土台を伝って、居間の俺の腹の奥にまで響いてくる。俺は、浴槽の湯に浸かりながら、天井の節を眺めていた。熱すぎるくらいの湯が、首まで満ちて、鼓動を皮膚のすぐ下に浮かせる。浴室の空気には、裕子の髪の香りが、濃く澱んでいた。石鹸と、湯垢の微量元素と、浴槽の隅で泡立つ肌の油。瞼を閉じると、女の細い浴槽の向こうに、裕子の裸身が、朧に、溶けた月光のつぶてみたいに揺れた。風呂から上がると、長袖の浴衣が用意されていた。青地に百合柄の、洗いざらしの木綿。袖を通すと、肩幅がきつく、胸元が子供の羽織みたいで、俺の身体には小さかった。それでも、襟を鼻に寄せると、裕子の肌に染みた線香の香りとも、粉石鹸の香りとも違う、奥座敷の樟脳の匂いに似た古い清潔さがした。夜の闇の奥で、淡緑の紙みたいに澄んだ匂いだった。
居間へ戻ると、裕子は、豆電球の灯りの下、奥の六畳間に小肥りの布団を二組並べていた。枕を、互いの場所にきちんと置いて、布団の波を掌で平らにしている。うす明かりのなかで、彼女の頬に、青白い紙を張りつけたような陰影が動いていた。
「座敷の窓、閉めたわ。障子も。これで、灯りが漏れにくいでしょ。……ごめんなさい、客間の押し入れに布団を出したの、気付かれないように。お客さんが泊まって、二階の美咲と母は別々、っていう体面だから、変かしら。二人分、並べちゃった。こうすると、かえって、怪しいかしら」
裕子が、自嘲するみたいに唇をほころばせる。俺は、肩幅の合わない浴衣の前を掻き寄せながら、布団を見やった。二つの白い褥が、月明かりの代わりの行燈を照り返して、漉いた米粒の密生みたいな艶を浮かべている。畳の冷えた匂いが、夜気とともに足を浸した。俺は、立ったまま、背後の廊下の物音を聞いていた。二階からは、何も聞こえない。美咲が眠った家というものは、こうまで静かになるのか。庭木が、時折、冷たい風にさらさらと擦れて、家の梁を鳴かせた。
「広い座敷に、二人分の寝床って、なんだか、昔の映画みたいだな。新品のシーツがあって、何もかも白々しくて、薄暗くて」
「そう、昔の映画みたいに、綺麗なまま済んでればよかったのに」
「済まないのか」
俺が、ひとり腰を下ろすと、布団が、ふっと重い息をついた。裕子は、横の布団の端に、ちょこんと膝を突いた。私、あなたにこういうことを言おうか、言うまいか、ずっと迷ってました、と、その短い沈黙の中で、彼女の唇が微かに動いたように見えた。だが、言葉は音にならなかった。代わりに、裕子は、二つの布団のうち、俺の寝るほうの布団へ、つ、と片方の足を忍び込ませた。白い脚が、浴衣の青を割って、のぼりかけた熱を帯びている。布団の表面を、彼女の素足の裏が、こす、こす、と二度こすった。
「おいで」
俺は、手を差し出した。裕子は、何かを振り切るように、勢いよく、その布団の中へ身体を滑り込ませてくる。細い両腕が、俺の浴衣の合わせを割って、胸の皮をまさぐる。ふるふると小刻みに、俺の男の乳首のあたりを這う指先。女の手は、こうして男の胸元へゆくと、みょうに幼く、卵の殻を剥くみたいに頼りなく見える。俺は、彼女の浴衣の帯をほどいた。薄闇に透ける白絹を剥くように布が割れ、五十路半ばの女にしては柔らかく肉付いた乳房が、行燈の光のそと、青い影の中に浮いた。乳輪は、薄い桜色が褪せたような沈んだ紅色。その先端の粒を、息でゆっくりと濡らしてやると、裕子の肩が、びく、と持ち上がり、閉じた口から、微かな喘ぎが漏れた。
「今夜は、すごく、熱い。風呂、長く浸かりすぎたせいかしら。それとも、美咲に隠れて、お布団に入って、いけないことをしてるって、そういう、あれかしら」
「あれかしら、って、何だよ」
「心臓が、頭のうしろの、とん、とん、とこまで聞こえてるの。浩さんの心臓と、ひとつの布団の中で、ぶつかってる。こうすると、浩さんの心臓、聞こえる小さい虫と、となりの、わるい女の血の音が、耳の中をごちゃまぜにするの。気が狂いそう。早く、あの、抱いて。押し入れに隠れてたときみたいに、鼻の先だけが、すごく高くなってるんでしょ。あなたの身体、男の悪いところ、全部、知ってるんだから」
裕子が、ふるえる指先を、俺の下腹へ、するすると這わせる。浴衣の下に、褌も何もつけていない。手が、茂みを掠めて、太腿の奥の、煮え立つふくろに触れる。その瞬間、俺の男根が、痛いくらいに脈打った。女の指先が、皮の上から、熱い珠を転がす。俺は、上擦った息を漏らして、その手を掴み、彼女の身体を布団の上に引き起こした。青い百合柄の浴衣が、二人の間に、剥ぎかけの花皮みたいに絡んでいる。
「俺に、隠れて、いたずらするな。人をこんなにして、女はいつだって、服の下に刃物を隠してる。おまえも、こんなに柔らい口で、男の全部を鵜呑みにしようって魂胆だろ」
「や、言わないで……そういう、いやらしい、口調」
俺は、裕子の膝を割って、その窄まりを指先で探った。茂みは湿り、縫い目のような縦筋が、蜜を吐く石榴の割れ目みたいに熱く、ぬるぬると指を迎える。皮の先を、すこし剥いて、溢れた汁を、くる、と隘唇の膨らんだ少年のような突起へ塗りつけた。裕子が、咽喉を仰け反らせて、「んん、っ」と、空気だけを嚙んだ。息が、行燈の火を通す空気の薄皮を震わせ、部屋の中の闇を匂いで煽る。女の熟れた花芯は、爪を立てるのを堪えた俺の指を、もっともっと深くへ誘うように開いていた。
「ああ、もう、なんて、濡れてる。俺、お前の中へ入る前から、指に、お前の汁を、糸ひかされてるみたいだ。音、立てて、動いてる。ほら、どうする、この音を、美咲が聞いていると思え。そうしたら、もっと、しまるか」
「美咲は、だめ……お願い、浩さん、あの子の話、しないで。あの子が帰ってきた日に、こんな格好で、あんたの指を咥えてるって思うと、私、頭がおかしくなる……あ、や、なか、いじらないで。もう、中は、待ってるの。押し入れの暗いとこから、出てきた男の、あついのでいっぱいにして。おっぱ、ああっ」
俺は、彼女を仰向けに押し倒す。青い浴衣が背中でぐしゃりと畳に潰れ、片方の肩から袖が脱げて、胸の実が、くつりと光をこぼす。彼女の左右の足を、自分の腰にまわして、亀頭をあてがう。とろり、と潤んだ泉から、肉冠が、熱い息を吹くように濡れそぼる。入り口の隘唇の肉が、痙攣して、それを咥える。俺は、腰を一息に進めた。じゅぷ、ぐちゅ、というより、ずるり、と沈み込むような、生ぬるい音。裕子は、ぐ、と唇を咬み、布団の上で、骨の細い足を、弓形に反らした。中は、きつくて、ぬめっていて、それでいてねっとりと俺のすべてを溶かすような熱を持っている。その肉の深さに、頭の芯がくらくらする。
「奥、まだ、もっと、ああ、奥、好き……り、り、こうして、あんたを、家に上げるたび、私、どうかしてる。近所の人がどんな目で見ても、美咲がどう疑っても、身体の底に、こうやって、あんたを溜めていたいって、女の性根が、どろどろに溶けるの」
「裕子」
「なあに」
「二人で、家を出るか。夜道、歩こう。このあと、お前が、肌を赤くして、風呂上りで、それで、俺の後くっついて、誰もいない社のあたりまで。そんなこと、考えてる。女を、抱いた夜の、あとの、夜道。昔、したな。お前と、中学生の頃、神社の祭りの、帰り道。暗い畦道、手を……繋いだな。俺、覚えてる。繋いでから、お前の手が、汗ばんで、恥ずかしくて、それで、どっちからともなく離した。そんな、夜だった。今、お前が、風呂上りの浴衣で、男のもの咥えて、股を開いてる。でも、そうした夜の記憶だけは、あの頃と変わらない。これを、なんと呼ぶのか、俺には、わからない。ただ、胸が、痛いくらい、お前で、いっぱいになる」
俺の声が、自分のものでないみたいに、熱っぽく、震えていた。裕子は、天井へ向かって、片方の腕を放り出したまま、まばたきもせずに俺を見上げていた。その瞳が、行燈の火を、ほんのひと雫、ためて光る。彼女の内側が、きゅう、と、男根を深く締めつけ、腹の底まで一気に熱が駆け上がった。あとで、社まで、歩きましょう。必ず。訳の分からない、十五の身体のまま、行きましょう。裕子が、泣き笑いみたいな顔でそう囁く。二人、畳の上で、古い思考の埃と、夜の汗にまみれて、暗い社へ向かう夜道のことを、ぼんやり、夢を見ながら、抱き合った。
「あ、ああ、そこ、そこ、いま、きてる。こ、浩さん、ゆっくり、お願い、焦らないで。私のお腹、ふかいとこ、突き上げて、ふぅ、あ、声、でちゃう。んんん、く、くる、ああ、私、しんじゃう」
「死なせない。お前なんかじゃ、死なせない」
俺は、腰の下に女の髪を敷くみたいに抱え込む。自分でも、五十八の男が、まるで少年のように加減をなくしている。彼女の足の指が、俺の背中に食い込む。短く切られたその爪が、浴衣の布地に引っかかって、背骨の上を、ツツツ、と走る。中が、一番深い場所で、ひくついて、女の内臓の形のまま、俺を飲み込む。裕子の中が、どろり、と音を立てて、俺の先端を締め出した。同時に、俺の下腹から、熱いものが、堰を切って出ようとした。いや、そうじゃない。まだ、もっと、お前の奥に、私を覚えさせていたい。お前の、この、絹を何枚も重ねたような肉のひだに、俺の熱を全部、摺り込んでやりたい。そう思うほど、僅かに体を引くと、女の隘唇の肉が、名残惜しそうに、くぱ、と鳴く。
「あ、やだ、抜かないで。まだ、私、なにも……あ、ふ、奥も、入口も、あんたのを欲しい。んっ、あ、あ、自分で、動かしていい?」
「ああ、してやる。好きなだけ、声を、殺して、犯されてる顔を、俺の下に晒せ」
布団の上で、裕子の肢体が、ばしゃ、ばしゃ、と跳ねる。水音が、暗い座敷の空気を割く。行燈の火が、罪の奥の罪を照らすように、女の熱を照らす。裕子の膣の肉壁が、俺の力の出入りに、果物の皮を剥くみたいに、すこしずつ、薄い襞の一枚というものを見せてくる。あれが、女の中の、女の季節なんだと思った。何十年も夫に抱かれず、枯れ果てた夜を守ってきた場所の、その襞の一枚に、俺は、ごつごつした靴を履いたままの土足で、今、入り込もうとしている。いや、入っている。恥ずかしいくらい、とろとろの音をさせて、彼女の履歴の上を、牝の匂いを掴んで離さない。
「あ、あ、浩さん、あたし、もう、なにも、わからない。浩さんが、わたしの、なかに、あついの、ください。どうぞって、してる、のに、先で、いじわるに、さわられる。きもちい。また、くる、おおきいの。あ、こえ、あ、あ、んん、んん、……んっ、あー、ああ、い、逝き、たたき、つけて。奥で、出して。わたし、浩さんの、匂いのする、身体で、社に、行きたい。あとで、いっしょに、ひみつの、夜道、歩くの。だから、なか、いっぱいに、……浩、さん」
最期のほうは、ほとんど、割れて裏返った小さな悲鳴だった。女は、喉を仰け反らせて、口を半開きのまま、空気に食いつく。首から胸へ、一気に紅潮が駆け上がり、浴衣の内側から、一日の終わりの女の汗が、噎せかえる匂いになって立ちのぼった。俺は、体重をかけて、一番深いところで、どろり、どろりと吐いた。熱が、腹の下で脈打って、全身の汗が、行燈の灯りで、黄色い脂のように光った。腹の下、太腿の向こうで、裕子の膣が、ひっ、ひっ、と波打っている。それは、海月の胃みたいに透けて、俺の精を、女の自分の液と混ぜながら、ゆるく、しかし確実に、まだ飲み込み続けていた。
ずるり、と抜いた後の、彼女の中から、濁った蜜が、一雫、薄明かりの中に糸を曳いた。ぽつん、ぽつん、と二筋、畳の上へ垂れる。声を失った座敷には、ぐちゃぐちゃの肉音の残滓が、湿って下品な、深夜の生きものの鳴き声みたいに、まだ、感じられた。裕子は、白いうなじを、畳のほうへ打ちつけて、半ば虚空へ浮かんだ目で、天井の隅を見ている。私、きっと、死ぬほど恥ずかしい声を出した。美咲に聞かれていなければいいけど。誰も、私たちのこの真っ暗な、秘密の布団を知らない。夜だけが、障子の外で、風の指を庭木にからませて、じぃっと、息を殺しているみたい。
「ねえ、浩さん。行きましょう。今から、夜道を。私、身体、ゆるゆるで、立てるか、わからないわ。でも、行きたいの。この、身体が、まだ、あなたで満ちてるうちに」
裕子が、帯を、ふらつく指で、締め直す。浴衣の前が、胸の上でくつろぎ、片方の乳の上が、暗闇で、棲みついた小動物みたいにこぼれている。靴下も、足袋も、ない。俺は、彼女の素足に、下駄を揃える。この時間に、庭へ出るのだ。外は、冬の空気が、ひゅう、と首筋を薙いだ。草いきれの奥から、夜露の匂いと、線香の匂いが薄く流れてくる。背戸の色あせた木戸を押す。音が、暗い住宅の寝物語のように、かたり、と鳴った。金木犀の黒い枝が、風に、さらさら。遠くで犬が、一度、ほえた。裕子は、俺の腕を、抱きしめるみたいに掴んで、足元もおぼつかない。心臓が、未だに、耳の奥で鳴っていた。さっきまで、あの汚れた座敷で、散々に啼いた女の素足が、夜露に濡れた石畳を、ぴちゃ、ぴちゃと踏んでいる。そのたび、竹藪の奥で、夜の生き物が、こちらの獣に返事みたいな、短い混じり声を立てた。
何もかもが、誰の眼にも届かない、夜の道の色だった。けれども、空だけは、厚い雲の切れ目から、うっすらと臙脂色の艶を垂れて、二本の坂道を、糊の効いた古い紙みたいにてらしていた。裕子の素足の、爪先から、白い吐息が、微かに立ちのぼる。俺と彼女は、暗い社の影、木立の下で、唇を合わせた。女の口は、あたたかくて、ざらつき、さっき飲んだほうじ茶の、ほろ苦い名残りがあった。舌を入れて、やわらかい上顎を、ちいさく舐めると、女の手が、俺の背から、灰の残ったシャツの裾を、くしゃりと掴む。このまま、どこか、鎮守の森の奥へでも歩けそうな気がした。鼻の奥で、くちなしの実が、冬の夜に、青白く熟れていた。それが、線香の残り香と、妙に、似ていた。死の匂いと、秘密の花の匂いが、冷たい空気の中で、分かちがたく、からまっている。ああ、これが、性というもの、か。社の下、木の影で、俺は、裕子の脇のあたりに腕を回し、もういちど、静かに、女の首筋へ、鼻を埋めた。
第5章 介護という名前の最期の暮らし

第5章 介護という名前の最期の暮らし
押し入れの闇から這い出した俺の身体を、十二月の夜気が隙間なく包み込んだ。美咲が二階へ引っ込んでから、三十分は経っていたろうか。裕子は居間の灯りを落とし、黙ったまま俺の腕を取って勝手口へ導いた。指先が冷えている。いや、冷えているのは俺の方か。互いの手の温度が混ざり合って、どちらの汗なのか判別のつかない湿りけだけが、掌と掌のあいだに薄く残った。
「今日は、ほんとうに、ごめんなさい」
裕子の声は囁きより低く、吐息は吐いた傍から闇に吸われて消えていった。
「気にするな。娘さんに何も見られてないなら、それでいい」
俺は壁に背を預け、靴を履く手を止めて彼女の顔だけを見た。薄闇の中で、裕子の目が、傷ついた獣のように潤んで光っている。触れたくて、触れてはいけない夜が、こうして音もなく剥がれていく。二つの身体の間で、昼間に交わした互いの体液の匂いが、冷たい外気に晒されて、かえって濃く立ちのぼるようだった。
「次、いつ来てくれる……?」
縋る声ではなかった。されど、それより深い、女の前のめりがそこに在った。俺の袖口を摘む指の腹が、小刻みに震えている。
「考えさせてくれ。悪いな。少し、頭を冷やしたいことがあって」
俺はそう言って、彼女の手をそっと外した。離れる瞬間、裕子の唇が、何かを言いかけて、そのまま結ばれるのが見えた。玄関の戸を引く。外では、冬の銀の月が、瓦屋根を薄白く照らしていた。月光は霜のように冷たく、吐く息だけが白く生き物めいて闇へ滲んだ。
あれから十日ほど、俺はアパートに籠もった。
電話には出なかった。いや、出られなかった。裕子の家に向かう足を、意志の力で止めねばならぬ理由ばかりが、風呂の湯のように心へ溜まっていく。娘の美咲の声が、押し入れの暗がりで聞いた「お母さん、最近綺麗になったね」という無邪気な言葉が、昼も夜も耳の奥で反響し続けた。女の肌に触れた自分の手が、世間という薄紙を破りかけている。週末ごとに男が通う家。近所の詮索。もしあの日、もう十分遅く美咲が階段を下りていたら。俺のくたびれた作業靴が、玄関に揃って置かれているのを目にしたとしたら。考えるな、と思うほど、悪い想像ばかりが胸の内に群がって羽搏いた。
アパートの流しで、素麺を茹でた。十二月の湯気は、夏よりも早く白く消える。麺を啜る。味がしない。いや、薄い塩気と小麦の甘みくらいは感じる。だが、食う喜びは腹の暗い穴へ落ちていった。青白い蛍光灯の下、テレビの中では相も変わらず若い女が笑っている。俺はあの脚を見ても、もう、あの頃のような飢えを覚えはしなかった。飢えの形が変わってしまったのだ。画面の向こうの白い肌ではなく、もっと生臭くて、あたたかくて、指先に吸いつくような、特定の肌。一人の女の、汗ばんだ襟元。それだけが、俺の知る欲望の在りかになった。
テレビを消すと、部屋が、墓の中に似た静けさを吐き出した。
沙汰のつかない日々。美咲が帰った翌週の土曜も、俺は訪ねるまいと硬く誓い、スーパーで買った絹ごし豆腐と葱を啜りながら、窓の外の枯葉を眺めていた。夕方になると、西の空が血のように赤く燃え、やがて薄い藍色へ沈んでいく。夕餉を済ませると、何をすることもなく、ラジオの天気予報を流したまま、こたつに足を突っ込んで浅く居眠りした。
身を切るような夜風が、網戸を揺らす。目が醒めると、時計は丑三つ時。希望も救いもない日常が、俺を鈍く苦しめる。女に会わなければ、また、こうして枯れていけるはず。ところが、胸の裏では、もう一人の俺が欠伸をしている。十一月中旬、あの四十九日の夜、裕子の浴衣の襟に漂った線香の残り香。何十年も硝子の向こうだと思っていたものが、掌中の肉になった夜。引き返す道は、疾うに消えているのかもしれない。
曜日感覚が溶けた十二月下旬の一日、俺は珍しく外を歩いていた。
日が傾き、川面が燃えていた。オレンジの光が、緩い流れに砕けて、ゆっくりと東へ下っていく。川べりの土手に据えた木のベンチ。どこかで誰かが、終わらない夕日を突っ伏して燃やしているみたいな空だった。俺は、ごわつく木の座面に腰を下ろし、橋の向こうを眺めた。自転車を押す主婦が一人、犬の散歩をする老人が一人。夕焼けは、すべての影を長く虚ろに引き伸ばして、地面に貼り付けていく。
どのくらい、そうしていたのか。
風に混じって、微かに線香の匂いがした気がして、俺はゆっくりと後ろを振り返った。土手の小道に、女が立っていた。臙脂色のコート、黒い毛糸のスカート、花茶色の眼。
裕子だった。
彼女は何も言わず、俺の隣に座った。ベンチが、ぎし、と小さく喘ぐ。コートの裾から、湯上がりとも違う、女の暮らしの匂いが仄かに流れてくる。俺は、膝の上に置いた拳を開いたり閉じたりしながら、川の向こうの畦道を見つめ続けた。どうして、ここが分かった。訊きたいのに、咽喉の奥が詰まって、言葉が砂のようにこぼれるばかりだ。
先に口を開いたのは、裕子だった。
「車、見えたの。この道、まっすぐだから。こんな所で、一人で何を見てらしたの」
「何って、ただの川だよ。水が流れてる。それだけだ」
「本当に、それだけなら、こちらを向いてくださいな」
彼女の声は、しわがれていて、こころなしか泣き腫らした後のようにも聞こえた。俺は顔だけ彼女へ向けた。臙脂のコートの襟元で、白い首筋が、夕陽を吸い込んでいく。俺の胸が、詰まる。
「剣呑な顔をして。眠れてないわね。目の下の色で分かるのよ」
「あんまり眠れない質でね。年寄りは、そういうもんだ」
「六十一の私の隣で、よく言うわ」
そう言うと、裕子は小さく笑った。それは、これまでの女の笑いではなく、もっと弱い、泣き笑いだった。夕日が、彼女の頬に橙色の絵の具を垂らす。遠くでカラスが一羽、鳴いて、電線を蹴った。
「謝りたくて、ずっと探してたの。美咲に何か言われたわけではありません。私が、勝手に辛くなってしまって。家に来てほしいのに、電話も出てくれないから、いっそ、この夕焼けにでも呑まれてしまおうかと、そんな、年甲斐もないことを」
「馬鹿だな。川に呑まれて、どうする。娘さんが二人前になるまで、しっかり生きててやれ」
俺の口調は、叱るというより、祈りに近かった。彼女の花茶色の眼が、一度だけ、切なげに伏せられる。
「浩さん」
彼女が、膝に置いた手提げ袋を抱え直す。指は白く、骨ばかりが目についた。この十日、食事もあんまり喉を通らなかったんじゃないか。詮索ではない。俺には、分かる。同じ匂いが、二人の間を流れている。
「あの日、押し入れから出て行ったきり、音沙汰がないから、すべて壊してしまったのだと、朝晩、胸が潰れていました。近所の目が怖いのも、美咲への後ろめたさも、私にだって分かっているつもりよ。でも、それでも、うちへ帰ってきて。玄関に、浩さんの古い作業靴が置いてあるだけで、私は、この齢になって、朝の味噌汁を二杯も戴けるのよ」
裕子は、俺の手を取った。細い指が、年齢よりも深い皺を押しのけて、俺の掌へ入りこむ。
「あなたと居ると、生きている実感があるの」
この言葉が、土手の草へ、川面へ、暮れてゆく空へ、ゆるゆると沈んでいった。あの、通夜の帰り道に漏らした「あの人、最後まで私を女として見てくれなかった」という一言が、胸の底で、古い傷痕のように疼く。そうだ。あの人に、見てもらえなかった。俺が見ている。俺だけが、この女の火照ったうなじを、泣き腫らした声を、洗い立ての浴衣の襟元を、息を呑むほど鮮やかに覚えている。それが、俺の欲望の、唯一の、いや最期の、根拠だった。
「裕子。俺もだよ」
夕焼けの端が、青紫に変わり始めていた。川面に映った光が、斜めに流れて、薄い金箔に変わる。彼女は、おもむろに鞄から紙包みを取り出した。若い時分から好んでいたという、肉桂の入った飴。指で一つまみ出し、俺の口元へ近づける。俺は黙って口を開いた。甘い。くるり、と飴が舌先で溶けていく。彼女の指が、俺の唇へ触れたのは、偶然なのか。まぶたの奥で、あの、くちなしの香りがした。
「浩さん、しばらく、うちへ来て。それで、嫌になったら、出ていってくれていい。私、離したくないの。こうして飴を分けるみたいな時間が、残りの全部だとしたら、全部、あなたと味わいたいの」
俺は、飴を噛んだ。ごり、と小さな音がして、肉桂の甘さが歯の奥に染みた。
年が明けた。
正月早々、俺はアパートの大家へ退去を告げた。四十年近くを過ごした街を去るのに、大した感慨はなかった。物を捨てるのは苦手な方だが、持ち物は三日で段ボール六箱に収まった。ああ、やはり、俺はこの部屋に独りで、何も育たない男だったのだ。いや、もう、そう言うのも、ひとつの過去だ。
裕子の家には、「近所には、私が倒れたりしないよう、遠縁の浩さんに介護を頼んだ」と、彼女がきちんと筋を通してくれた。近所の主婦連は、ああ山口さんも年だものね、と頷いた。銀行に行けば、遠縁というのは力になる。老人たちの世間は、病と確定申告と柿の木の枝に、わりと寛容だった。目を瞑って済む事柄なら、合点がいく。
引っ越し初日の夕餉、裕子は、仏壇の線香を律儀に上げていた。
居間の奥、白木の位牌と遺影が並ぶ小祭壇。彼女が正座し、黒い平服の背中をすっと伸ばす。細い煙が、真上へ昇って、折れて、風もないのに仏間へ漂った。俺は、ダイニングの卓へ味噌汁と茶碗を並べ、湯気が消えないよう急いで箸を置いた。おまけに、茹で過ぎぬよう気を配って湯を切った素麺を、ざるに盛っている彼女の横顔があった。一月の夜。窓の向こうでは、薄く、雪が舞っている。
「浩さん、お加減どう? 味、濃くないかしら」
「いい塩梅だ。大根、よく染みてる」
「今日はお引っ越しだから、栄養をつけないと。菜っ葉も、庭の隅のを摘んできたのよ」
裕子は、仏壇の前に座ったまま、俺を振り返った。黒い服の襟元が、しっとりと首に吸いついている。この女が、自分の亡き夫の遺影へ手を合わせていながら、そのくせ、こうして俺の飯を温めている。背筋がぞくり、と波打つ。呵責ではなく、もっと肌理の細かい昏い火だ。
「偉いな。お前は、毎日、線香を替えてるのか」
「ええ。あの人にしてやれることなんて、もう、これくらいしか。でも、最近は、浩さんと食べる夕餉の方が、数を増やしてしまって……生前は、寂しい思いもさせたから、せめてもの詫びのようで」
彼女が、細く笑う。線香の煙が、障子を透けて、部屋の余白を満たしていく。苦く甘い、女と男の区別のない、骨の奥から滲む匂い。
夜。
風呂を借り終えた俺は、裕子が敷いた二組の布団の片方へ、仰向けに寝そべった。並んだ敷き布団の境目が、うっすらと浮いている。従来の通い暮らしでは、ふざけて彼女の布団へ潜り込み、朝方まで汗を掻いた事もあった。だが、今日は、昨日までのように迫ってやしない。家を移った初夜というものは、男の腹に、奇妙な慎みを敷き続ける。
蛍光灯を消したあと、隣で、裕子が寝返りを打った。浴衣の裾が畳を滑る音。いや、彼女は絹のパジャマに着替えたのか。柔らかな衣擦れが、布団越しに聞こえる。窓の外、街灯が淡く滲む。
「要らぬことを聞くが、俺がここに住んでも、美咲は何と言った?」
闇を刻むように、静かに問う。
「年明けに、一度だけ電話で話したの。『お母さんが決めたなら、それでいいよ。でも、ちゃんと紹介してね』って。あの子、けろっとしていたわ。あの日、帰省した時、私の顔つきで、悟っていたのかもしれない」
裕子の声は、泣くでも笑うでもなく、低く透明に流れてきた。
「そうか」
「ええ。心配なのは、むしろ、浩さんの方が先に、私に嫌気が差すんじゃないかということよ。私、料理は見ての通りだし、色気もね、この通り」
彼女が、布団の上で、自らの浴衣の胸元を軽く握る仕草をした気配がした。
「よせ。色気のさの字も知らねぇ女を、十年、いや、五十年も想い続ける男が、どこにいる」
「ほんとうに、浩さんって……」
彼女の声が、笑いの粒を含んで、闇に散った。
「明日も、素麺にするか」
俺が、天井を見ながら呟くと、裕子はしばらく言葉を呑み、それから、くすくすと肩を震わせた。子供みたいな、湿りけのない、柔らかい笑い声。俺は、その声を、耳の産毛で受け止めた。
やがて、裕子は、するりと自分の布団を抜け、俺の敷き布団の端へ身体を滑り込ませた。布団の綿が、彼女の重みで深く沈む。
「お邪魔していいかしら」
「今さら何を言う。入れよ」
俺は、彼女の肩へ腕を回した。浴衣の襟元から、風呂上がりの女の肌が、湯の匂いと線香の残り香を混ぜて、じわりと立ちのぼる。彼女の足が、氷のように冷たい。俺は、その冷たい足先を、自分の太腿の間にそっと挟んでやった。彼女の薄い足の甲が、俺の肌の上で、小さく強張って、それから、ゆっくりと弛緩していく。
「お前の足は、昔っから冬になると、こうだったな」
「ええ。よく、こたつの中で浩さんに踏まれたわ」
「踏み合いになって、よく、どちらかが泣いていたよ」
「泣いていたのは、いつも浩さんの方だったわ。覚えてないのかしら」
裕子の笑い声が、俺の鎖骨を振るわせる。俺は、彼女の頭から、しわがれた乳房の膨らみへ、手のひらを滑らせた。浴衣の下、彼女は肌襦袢だけを身につけている。乳の根元の、たゆんだ肉が、男の掌を待っていたみたいに温かい。五分咲きの冷えから、ゆっくりと血液の巡りが戻ってくる。彼女の呼吸が、俺の胸元を濡らした。
「浩さん。あのね、私、今夜はね、こうして抱き合って眠りたいの。激しくじゃなくて、昔みたいに、ただ、お互いが此処に居ることを、肌で数え合う夜にしたいの」
「いいよ」
それきり、言葉は途切れた。俺は、彼女の髪に鼻先を埋めた。湯上りの石鹸が消えかけたあとの、女の頭皮のあぶらっぽい匂い。生暖かくて、すこし苦い。それでいて、年の瀬の雪の下で、春を待つ土の湿りに似ていた。もう何も、焦らなかった。剥き出しの肉欲より、深いところで、二人の間の川が、ゆるゆると一つになっていくのを感じていた。
これは、あの夕暮れのベンチで、夕日が川へ落ちる瞬間を追いかけた男が、とうとう、その光の留まる場所へ辿り着いた、あの長い沈黙の続きだ。女を抱く。それだけのこと。けれど、この女だけは、ちがう。この白い足首の、氷の冷たさ。この、背の曲線。三十センチほどの肩幅。声に混じる「浩さん」という、幼い、甘い高さ。
俺は、裕子の胸へ右手を添えたまま、彼女の背中を抱きしめた。力は、込めすぎない。まるで、夜の底から、まだ生まれていない朝を掬い上げるみたいに。心臓が、彼女の肩甲骨へ、とく、とく、と刻む。生きている。俺は、今、確かに。
「裕子、寒くないか」
「大丈夫。浩さんの胸が、とても温かいもの」
「そうか」
「ねえ、浩さん。この家、昼間は、庭の梅が二輪ほど咲いてね。通いの時より、ほんの少しだけ、春の気配が来てるのよ」
彼女が呟く。俺は、庭木のことを思った。くわえて、明日の朝、醤油出汁に大根おろしを溶いて、素麺を啜る二人の、まだ現れぬ食卓の風景。三度の飯を分け合う生活。近所の誰かと、会釈だけを交わす朝。草むしりを終えた夕方、彼女が「浩さん」と俺を呼ぶ声。それが、ただ、続いていく。
「俺、お前と、こうしてる時、ふと、この歳まで独りで良かったと思うよ」
「まあ。今になって、それ、口説き文句のつもり?」
裕子が、俺の胸で少しだけ咽喉を鳴らす。彼女の指が、俺の寝間着の背中に、そっと、爪を立てるか立てないかの強さで触れた。
「口説くなら、もう少し洒落たことが言えるさ。だが、畜生、生まれて初めてなんだ。五十八まで、若い女の脚を見ては、自分に触れてくれる人間の不在を数えていた男だぞ。それが、幼なじみと、こうして同じ布団で、脈を並べて眠るなんてな」
「私だって。あの人と、こうして手をつないで眠る夜が、いつから無くなったのか、もう、思い出せないの」
彼女の声が、波打って、闇を濡らした。俺は、彼女の後頭部を抱く手に、そっと力をためる。酷く傷ついた鳩が、肩に沈んでいった。この鳩を、生涯、俺の掌の中に置いてやろう。
薄明りの窓。外では、雪が、とぷん、とぷん、と、音もなく坂道を濡らしている。部屋には、二人の呼吸だけが、静かな磁石のように引かれ合っては、ほどけていた。
「愛してる」という言葉は、まだ、言わない。
いや、言ってやまぬでもない。けれど、この齢の男が、女に告げるべきは、きっと、もっと、泥くさい真実なのだ。
俺の右手が、裕子の胸の上で、ゆっくり開いた。浴衣越しに、女の乳の、年輪のような柔らかさ。張りではなく、蕩け。それは、誰にも知られず終わるはずだった夜に、奇蹟みたいに流れ込んできた温みだった。
「明日も、素麺にするか。隣の畑の婆さんが、葱を分けてくれるそうだぜ」
裕子が、ふ、と笑う。その温かい息が、俺の首の付け根をくすぐって、暗い天井へ舞い上がっていった。窓の外では、近所の灯りが、雪夜の奥に、ぽつぽつと、あたたかな穴をあけている。晩年というものに、これほどの手応えがあるなんて、誰が教えてくれたろう。
俺は、裕子の冷たい足先を自分の脚で包みながら、彼女の呼吸が、襞の一つになるのを待った。心臓が、互い違いに夜を打つ。雪解けの水音が、微かに、眠りの淵で揺れている。これからを思う。朝になれば、また、遺影の前で線香が煙る。それでも今日は、女の体温が、生きた証のように横たわっている。
闇の底で、確かに、俺の欲は、生平の場所へ戻ってきたのだ。
登場人物
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高橋浩 たかはし ひろし男性 ・ 58
外見: 白髪混じりの短髪、暗い茶色の目、痩せた扁平な体、身長168cm。服装: 洗いざらした灰の長袖シャツに、膝の抜けた深緑のスウェットパンツ。性格・特徴: 内向的で口数が少なく、人生の手応えを失っているが、裕子のことだけは自分でも呆れるほど鮮明に覚えている。一人称: 「俺」。裕子は「裕子」と呼ぶ。語尾は「〜だな」「〜か」「〜よ」が混じり、敬語になったり砕けたり揺れる。セリフ見本: 平常時「ああ、いいよ。俺でよければ」 動揺時「ば、馬鹿言うなよ……俺は、そんなつもりじゃ」 陥落時「裕子……裕子……もっと、聞かせて。俺だけに」
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山口裕子 やまぐち ゆうこ女性 ・ 56
外見: 肩より少し長い黒髪、切れ長の花茶色の目、柔らかく肉付いた小さめの身体、身長151cm。服装: 黒い長袖ワンピースの喪服、風呂上がりは青に百合柄の浴衣を着る。性格・特徴: 上品だが夫との日々に枯れきっていて、浩の前でだけ昔の少女に戻る。一人称: 「私」。浩は「浩さん」と呼ぶ。語尾は「〜ね」「〜の」「〜わ」など柔らかく、切迫すると上擦った鼻声になる。セリフ見本: 平常時「浩さんって、そういうところ、本当に昔のままね」 動揺時「私、もう誰にも触ってもらってないの。あの人にも、ずっと」 陥落時「あっ……や、やめて……やめないで……お願い、浩さん……来る、来てるの……」
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山口美咲 やまぐち みさき女性 ・ 29
外見: 明るい茶色のミディアムボブ、父親似の一重の黒い目、すらりと高く手足が長い、身長164cm。服装: 仕事着の焦げ茶色のジャケットに白いカットソー、黒い細身のパンツ。性格・特徴: 母との二人暮らしを案じつつも自分の生活に忙しく、帰省すると安心感からよく喋る。一人称: 「私」。裕子を「お母さん」と呼ぶ。語尾は「〜だよ」「〜でしょ」「〜じゃない?」と軽く明るい。セリフ見本: 平常時「お母さん、また素麺で済ませてない? ちゃんと作ってる?」 動揺時「え、浩さんってお父さんの知り合いなの? 何でうちの家に」 陥落時「そうだよね、寂しかったよね……ごめん、何にも知らなくて」





