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身持ちの堅い専業主婦が、パート先の社長にワインと薬で堕とされ、匿名動画で夫に知られるまでの背徳

不倫/浮気 / 寝取られ(NTR) 全6章 約86分で読了(42,938字) 2026年9月26日

あらすじ

中学受験の塾費用を稼ぐため、駅一つ先の不動産事務所でパートを始めた35歳の人妻・綾野淳子。異常に短いタイトスカートとバストを強調するブラウス姿の彼女に、社長の田布施馨は優しく接近する。断り続けていた誘いを、顧客トラブルを助けられたことをきっかけに断れず、夜の食事へ。高級イタリアンでワインを勧められ、酔いが急に回る。フワフワとした多幸感と浮遊感。二件目のバーの個室で、社長のコロンが欲情を駆り立てる。身持ちの堅い淳子の股の中は、レースのパンティの下で洪水状態だった。誰にも言えない夜が始まる。

第1章 塾代のために始めたパート先で、社長のコロンに目を奪われた身持ちの堅い人妻

第1章のシーン

六月の朝の光は、まだ柔らかく、どこか遠慮がちに街を撫でていたが、綾野淳子はその光を味わう余裕もなく、駅の改札を抜けてからずっと胸の奥を忙しなく鳴らしていた。アスファルトの照り返しが、パンプスの薄い底を通してじんわりと足の裏へ伝わる。見知らぬ街の空気は、パン屋から流れてくるバターの香りと、乾いた排気ガスの苦みとが不器用に混ざりあっていて、それを吸い込むたびに喉の奥がくすぐったく疼いた。歩く速度が、自分でもわかるほど速い。落ち着かなければと思うのに、肩に掛けた鞄の揺れに合わせて、心臓だけが先へ先へと急いでしまう。スーツの袖口が汗ばんだ手首に軽く張り付き、その湿りけが、新しい場所へ足を踏み入れる女のひそかな動揺を正直にあらわしていた。淳子は胸の下で、ブラウスの白い布が汗を含んで肌に吸い付くのを感じながら、まるで自分を逃がすまいとする生温い手のひらに、乳房の下をそっと包み込まれているような錯覚に、はっと歩幅を広げた。指先で胸元のボタンを確かめる素振りをしながら、人差し指の腹が、わずかに開いた前立ての隙間に触れる。体温のせいでしっとりと柔らかくなった布地が、指を押し返す。

駅から歩いて七分ほどの場所に、その不動産事務所はあった。こぢんまりとした三階建てのビルの一階、磨かれたガラスの向こうに木目調のデスクと観葉植物の緑が静かに浮かんでいる。自動ドアの脇には新築マンションと中古住宅のチラシが、まるで呼吸を止めているかのように、きっちりと角度を揃えて並べられていた。淳子はガラスに映る自分の姿を盗み見る。淡いグレーのスーツ、白いインナー、ヒールの低い黒のパンプス。美容院で整えてもらったばかりの栗色の髪が、肩の上でゆるやかな波を描いている。悪くない、と自分に言い聞かせて、彼女は指先にわずかな力を込め、硝子のドアを押した。冷たい取っ手の感触が、汗ばんだ掌にひやりと滲みる。その冷たさが、火照った指先から手首の骨へ抜け、まるで一瞬、心臓にまで届いたような静けさを連れてきた。

ドアが閉まりきるかきらないかのうちに、明るい声が弾けるように淳子を迎えた。

「あら、綾野さん? 早いわね」

出迎えたのは、宮下沙耶香だった。二十代も終わりに近い年頃なのだろう、明るい茶色の巻き髪が耳の下でふんわりと跳ね、動くたびに花の香りのような甘さがふわりと漂う。パステルカラーのブラウスに花柄のスカートをひらめかせ、小柄な体全体で歓迎をあらわすように、彼女は軽やかな足取りで近づいてきた。よく通る声も、無駄のない仕草も、すべてが弾んでいて、まるで朝の光をそのまま小さな鳥に変えたような人だ、と淳子は思った。

「おはようございます。本日からお世話になります、綾野です。よろしくお願いいたします」

淳子が深く頭を下げると、沙耶香はにこやかに笑みを深くして、淳子の腕を軽く引いた。触れた指先は細く、ひんやりとしている。オフィスの中は、外から見るよりもずっと広く、打ち合わせ用のテーブルが三つ、応接のソファが一脚、奥には座席が整然と並んでいた。冷房が効きすぎているのか、汗ばんだ肌の上を、薄い空気の膜がすうっと滑っていく。淳子は無意識のうちに、スカートの前を軽く押さえていた。制服の下から男たちの視線が這い上がってくるのを、実際に受けたわけでもないのに、首筋の産毛が逆立つ。

「まずは着替えましょう。更衣室はこっち。あとで社長も挨拶に来るって」

「社長さまが、わざわざ?」

「パートの初日だからって、ね。綾野さん、きっと気に入られるわよ。なんてったって、美人だもの」

淳子は曖昧に微笑み、顔の前で小さく手を振った。褒められるたびに、胸のどこかがむず痒くなる。まだ何者でもないこの場所で、すでに「女」として見られているような、そんな薄い緊張が首のうしろに張り付いた。沙耶香に案内された更衣室は、ビルの奥まった場所にあり、白いロッカーが壁一面を埋めていた。無機質で、ひんやりとしていて、換気扇だけが低く唸っている。鉄の匂いと、誰かが使った石鹸の残り香が、閉じた空気の中でゆっくりと分離せずに漂っていた。

手渡された指定の事務服を、淳子は袋から取り出した。白いブラウスは、指の腹に吸い付くほど生地が薄く、襟元と袖口にだけ淡いレースが縁取られている。胸元のボタンの間隔が妙に広く、布地がひどく透けて見えるわけではないのに、陽の光を受けると素肌の輪郭が浮きそうな頼りなさがあった。黒のタイトスカートは、手に取る前から丈の短さが目に入る。立って鏡の前に立てば、膝の上から十五センチは素肌が覗くだろう。その薄い黒い布地を両手で持つと、指の形が裏側まではっきり透けて、履く前から下半身を他人に見透かされるような、妙に生々しい予感が掌に滲んだ。

「これ……、本当にこれなんですか?」

着替えの途中で、淳子は仕切りの向こうへ小さく声をかけた。

「そうよ。ちょっと肌を出すぎだけど、不動産の事務所って、見た目も大事だから。男の人はけっこう、受付の女の子の脚とかじっと見てるものらしいの。でね、社長が自分でデザインしたんだって」

「社長が、これを……」

淳子は溜息を呑み込みながら、ブラウスのボタンを上から順に留めた。白い布が胸の膨らみをそのまま輪郭として浮かび上がらせ、中央のボタンがわずかに引っ張られているのが、指先の感触ではなく、布地の張り具合として肌に伝わってくる。ワンサイズ上を頼めば良かったと後悔したが、今さら言い出せるはずもない。胸の下で、布がぎしっと音を立て、乳房を下から押し上げる窮屈さに、淳子は指先で前立てをそっと引っ張った。だが、直した端から、また生地は乳房の丸みに引っ張られて、ボタンの孔の間に小さな菱形の穴が三つ、まるで肉を覗かせるための窓のように開いてしまう。腰のくびれを強調する黒いペンシルスカートを履き、ロッカーの内側に貼られた小さな鏡を覗き込んだ。

そこにいたのは、自分のようで自分のようでない女だった。胸の谷間がレースの縁からうっすら覗き、腰から腿へかけての線が、黒い布によって必要以上にくっきりと輪郭を描いている。太腿の白さが、黒い布と対照的にひどく生々しくて、淳子は思わず脚を引き締めた。鏡の奥の女が、同じように脚をすぼめる。指先で襟元を直し、呼吸を繰り返したが、胸の窮屈さだけはどうしても消えてくれなかった。白いブラウスの中で、普段は慎ましく和らいでいるはずの双丘が、布地を持ち上げ、自らの存在を執拗に主張している。淳子は、自分の胸の大きさを、こんな風に他人の目線で確かめたのはいつ以来だろうと思いながら、そっと腕を組み、その腕の下で、ふー、と息を吐いた。

更衣室のドアを開けた瞬間から、淳子は、飛び交う視線の重さを、肌で感じていた。いや、それは勘違いではない。男たちの、値踏みをするわけでもなく、けれど明らかに見ようとしてしまう、あの眼差し。事務所の中を歩く淳子の脚を、太腿を、スカートから伸びる素肌を、視線がぺたぺたと触れていく。受付カウンターの近くにいた若い営業マンは、挨拶も忘れて、淳子の足元からブラウスの胸元へと視線を滑らせ、次の瞬間、慌てたようにパソコンの画面へ顔を戻した。奥のデスクに座っている男たちの一人は、資料を取りに立ち上がったふりをして、あきらかに淳子の横顔ではなく、スカートの布からはみ出す腿の曲線を盗み見ている。

淳子は、背筋を伸ばした。伸ばせば伸ばすほど、胸の双丘が前へ突き出し、制服の布地が破れそうなまでに張り詰めるのが自分でも分かる。男たちの視線が、その張り詰めた布の頂点、汗の粒が浮き始めた谷間の上を、いや、それより更に下、スカートの短い端と素肌の境目を、舐めるように撫でる。淳子は、視線が当たる場所だけ、体温が上がっていくような心地がして、指先で耳の後ろを軽く触れた。首筋に、薄い汗が玉になっている。その汗を、先ほどすれ違った五十がらみの男性スタッフが見ていたのではないかと思うと、呼吸が浅くなり、乳房の先端が制服の内側で、ふと、シルクの下着に擦れる。淳子は、よほど脚を閉じて歩こうとした。けれどパンプスが床に触れるたび、黒いスカートは太腿の張りに持ち上がって、さらに上の白い肌を惜しげもなく男たちの目に晒した。まるで自分という女が、すでに、この事務所の空気に浸されて、絞り立ての果物のようにみずみずしい輪郭を浮かべている。その輪郭を、見知らぬ男たちが、目だけで舐めている。淳子は、心の奥で、視姦という言葉をそっと呑み込んだ。初日にそんな言葉を思い出すなんて、と、心臓が嫌に早鐘を打ち始める。

事務所の朝は慌ただしかった。電話はひっきりなしに鳴り、ホワイトボードには来客の予定が次々と書き込まれていく。淳子は沙耶香の隣に座り、物件情報の打ち込み方を教わった。画面に並ぶ数字、ワンルーム、二〇二〇万円、駅徒歩四分、南向き。指先でキーボードを叩くたび、昔の感覚が少しずつ戻ってくる。かつて、大手商社の受付に座っていた頃。来客の名を伺い、内線を回し、お茶を出して、笑顔で見送る。それだけの仕事だったが、背筋を伸ばして立つ時間は嫌いではなかった。あの頃の制服も、今と似た形だったように思う。窮屈な白いブラウスと、短いスカート。男たちの視線。知らないふりを続ければ、それで済む。そう思って笑っていた。淳子はブラウスの第二ボタンのあたりを指先で摘み、薄い生地が胸の肉に食い込む感触を確かめる。あの頃はまだ、ここまで男たちの眼差しを、着るものを通して肌へ受け止める不安を、知らなかった。

「あ、来た来た。社長だ」

沙耶香が小声で合図を送る。淳子は反射的に背筋を正し、キーボードに置いていた指を、そっと膝の上へ戻した。胸の奥が、きゅっと縮まる。

硬質な床を叩く男の靴音が近づいてくる。まず黒い革靴の先が目に入り、次に、仕立ての良いダークスーツ、濃い色のネクタイ。それから、切れ長の目許。黒曜石を思わせる瞳が、笑っているのか笑っていないのか判別できない光を湛えている。年齢の割に肌は引き締まり、ジャケットの下の肩幅が不自然なほどがっしりとしていた。動くたびに、空気を押しのけて近づいてくるような、重い存在感。甘くて辛い、男の匂いが、彼の輪郭よりも先に淳子の鼻へ届いた。淳子は、田布施の視線が自分の胸元へ、ほんの一瞬、けれど確かに落ちるのを、まぶたの裏ではっきりと感じた。先ほどまで、このオフィス中の男たちが無遠慮に這わせていた視線よりも、もっと静かで、もっと熱い。

「綾野淳子さん。本日からパートで入られた方だね? 私、社長の田布施馨です。ようこそ。初日から無理をしないで、ゆっくり慣れてください」

「あ、ありがとうございます。綾野でございます。よろしくお願いいたします」

深く頭を下げた拍子に、香りが鼻の奥を満たした。強いのに、ちっとも嫌ではない。黒胡椒と、濡れた木の皮と、どこか獣じみた熱が混ざったような匂い。鼻の奥がじんと痺れて、喉のあたりまで甘ったるくなる。頭を上げた瞬間、田布施の喉仏が、白いワイシャツの襟の上でゆっくり動くのが見えた。男の喉仏を、こんなに近くで意識したのは初めてだった。淳子は指先を膝の上できつく組み、目を伏せた。伏せた目蓋の裏で、田布施の指先が、スーツのスラックスに沿って、わずかに動いた気配だけが、やけに生々しく広がっている。

「隣、座っても?」

「どうぞ。社長、お忙しいのにすみません」

田布施は薄く笑い、淳子の隣の椅子に浅く腰掛ける。スーツの袖が動くたび、また香りが強まる。舌のつけ根が苦いくらいに甘い。淳子は彼の視線が画面の上を滑るのを、首の後ろで感じていた。

「ワードもエクセルも使える? 元々、受付をやってたんだってね。勘が良いから、すぐ慣れると思うよ」

「精一杯、がんばります」

言葉がうまく出てこなかった。喉の奥に、香りがまとわりついている。もっと自然に話さなければと思うのに、隣に座る男の肩と自分の肩のあいだの空気が、じくじくと熱を帯びていく気がした。淳子は襞になったスカートの端を指で抓み、口を開く。出てきたのは、自分でも予想していなかった問いだった。

「……あの、社長は、その、いつも香水をお使いなんですね。素敵な香りだと思って」

言ったあとで、場違いな質問だったと気づいた。けれど田布施は嫌な顔ひとつ見せず、喉の奥で笑うように、ふっと息を吐いた。

「これ? 気になる? もし淳子さんが嫌なら、付け替えてもいいけど」

「いえ! 嫌だなんて、とんでもない。私、ようやく落ち着いてきただけで……」

「そう。ありがとう。これを嗅ぐと落ち着くって女の子が多いんだよ、本当に」

田布施は柔らかな口調でそう言うと、軽く片手を上げて立ち上がった。黒いスーツの背中が遠ざかっていく。淳子は、その広い背中を、目だけで追っていた。耳の奥で、鼓動がやけに大きく鳴っている。香りがまだ鼻の奥に居座っていて、頭の芯がぼんやりと霞む。はやく何か打ち込まなければと、指をキーボードへ戻したが、指先がほんのわずか、震えていた。その震えを、隣の沙耶香が横目で見ていたかどうか、淳子には分からない。ただ、自分の体の熱が、制服の下で、じわりと奥へ奥へと沈んでいくようだった。

「ね、すごい人でしょ。仕事は鬼だけど、私たちパートには優しいの。とくに綾野さんみたいな綺麗な人には、ああやって自分から寄ってくるわよ」

沙耶香が、画面から目を離さないまま、淳子にだけ聞こえる声でささやいた。淳子は首をすくめ、曖昧に笑う。胸の奥に、小さな棘が一本、刺さったような違和感がある。痛いのか、痒いのか、それさえわからない。ただ、彼のまとう香りが、肺の奥のほうまで染み込んで、いつまでも、いつまでも、出ていかない。淳子はブラウスの袖口で、盗み見られるはずのない胸元を覆いたい衝動を、両手で押さえつけた。指先は汗ばんで、すでに湿った腿の内側に、行き場なく丸まっている。

昼休みは、沙耶香と二人で近くのパン屋へ行き、給湯室の片隅に並んでサンドイッチを摘んだ。沙耶香は噂話が好きで、誰がどうした、誰と誰に交際の影がある、社長は去年離婚したらしいと、矢継ぎ早に畳みかけてくる。淳子は黒っぽいライ麦パンを小さくちぎりながら、曖昧に相づちを打ち続けた。指先にパンの皮がぽろぽろとくっつき、なかなか離れない。

「社長、離婚してから、彼女いるのかしら。部長みたいに社内には手を出さないって噂だけど」

「私は家庭がありますから、そういうお話は……すみません」

「真面目ねえ。でもね、世の中、真面目だけじゃ守れないものもあるのよ」

淳子は軽く首を傾げて、紙コップのコーヒーに口をつけた。安い豆の酸味が、喉をくすぐる。胸の奥で、見えない壁がほんの数センチ、崩れそうになるのを感じた。守れないもの。私は守るべきものを、ちゃんと、この腕の中に抱きしめられているのだろうか。制服の黒いスカートが、椅子に座った拍子に太腿の中ほどまで這い上がり、素肌が冷たい座面へ直接触れる。淳子は、その生々しい感触から逃れるように、そっとスカートを膝あたりまで下ろした。けれど、下ろした先から、正面にあるガラス窓の外を歩く男の視線が、こちらの脚を、ほんの一瞬、追いかけた。淳子は顔を伏せ、パン屑を摘む指に集中しようとした。しかし、耳の奥には、先ほどの男たちの視線が、まるで羽虫が肌を這うように、まとわりついて離れない。

夕方、淳子は業務の流れを一通り教わった。入力、検索、来客対応、電話の取り次ぎ、それに重要書類の管理。事務所の天井の隅には、黒い半球のカメラが設置されていた。防犯カメラなのだと沙耶香は言った。売買契約の書類や手付金が動くから、防犯上しかたがないらしい。小さな赤いランプが、一定の間隔で点滅している。その赤い光が、短いスカートから伸びた淳子の太腿を、じっと見つめている気がして、彼女は椅子の上で何度も膝を揃え直した。つけ根のあたりがむず痒く、かといって触れるわけにもいかず、ただ太腿の内側にうっすら汗が滲んでいく。立ち上がるたびに、汗ばんだ太腿の内側が、黒い制服の裾に一瞬張り付き、歩くたびに、ぬる、と剥かれていくような感覚がする。淳子は、その度に、誰かにその音を聞かれているような気がして、パンプスの先を内側へ向けて歩いた。尻の丸みを布がぴったりと覆い、動くたびに、スカートのシワが浅い谷に食い込む。その谷を、やはり男たちの目が、音もなく沿っていく。淳子は、背中に溜まる視線を、絶対に振り返らずに、コピー機の前に立った。排気口から漏れるわずかな熱風が、太腿の裏を、ねっとりと這う。まるで、このオフィス全体が、昼のうちから、ぼんやりと、女の肢体をなぞり続けているようだった。

帰宅すると、玄関に陽葵のスニーカーが、左右ばらばらに脱ぎ捨てられていた。白い靴の向こうに、ランドセルが寝転んでいる。淳子は上がり框に手をかけて、深く息を吐いた。台所のほうから、子供の声と、食器の触れ合う音が聞こえる。汗で湿ったブラウスが、ようやく自宅の空気に触れて、ひやりと冷える。その冷えが、オフィスで浴びた視線の熱を、表面から柔らかく剥がし始める。

「おかえり。ちょうど陽葵が、お腹空いたって騒いでたところ」

夫の高志が、リビングから顔を出した。柔らかい黒髪を七三に分けた、見慣れた横顔。その穏やかな茶色の瞳を見た瞬間、ようやく自分が、帰るべき場所へ帰ってきたのだとわかった。胸の底に力が抜けていく。ここは私の場所なのだ。

「遅くなってごめんなさい。すぐご飯にするから」

「無理しなくていいよ。俺が準備しとくから」

高志の声は、いつも優しい。肩に張り付いていた昼間の空気を、そっと剥がしてくれる。着替えを済ませてダイニングに戻ると、テーブルには惣菜の包みと、炊きたてのご飯が並んでいた。陽葵は宿題のプリントを広げたまま、エアコンの風に当たって、溶けた子猫のように背を丸めている。

「お母さん、仕事どうだった?」

陽葵が、丸い目をぱちぱちさせて、淳子の顔を覗き込む。まだ十一歳なのに、妙に大人びたところがある。青いナップサックを背負って塾へ向かう小さな背中を思い出すと、胸の奥が、きゅう、と細く締め付けられた。

「楽しかったわよ。まだ覚えることがいっぱいで、あたふたしちゃったけれど」

この子の未来のために、私は働く。塾代。夏期講習。模試の費用。どれもこれも、決して軽い額ではない。それでも、母親としての誇りは、淳子の中で静かに熱を灯し続けている。少なくとも今は、そう信じていた。着替えてもなお、ブラウスの圧迫感が胸の下に残っている。ブラジャーを外した素肌の乳房の下に、制服の布で押さえられていた跡が、細い赤みとなって浮いているのを、ダイニングの灯りが淡く照らしている。淳子は、その赤みが下りる前に、エプロンをつけた。

「無理しなくていいからね。何か辛いことがあったら、いつでもやめて構わないんだから」

食卓の向かいから、高志が穏やかな顔でそう言う。淳子は箸を置いて、夫を見つめた。彼の優しさは、ときに胸が痛むほど深い。それは、彼女を包む海のようなものだった。けれど今夜は、その海の水が、ほんの少しだけ、ひんやりと肌に沁みた。オフィスで浴びた、数え切れない視線の棘が、家の柔らかな沈黙の中で、まだ、折れずに残っている。

夜、シャワーを浴び、髪を乾かす。鏡の前に立つと、白い素肌が、昼間の気疲れをまだ忘れていないように見えた。太腿の内側に指を這わせてみる。ひんやりとしている。ここに、誰かの視線が触れていた。いや、誰というわけでもない。あの短いスカートのせいで、理由のない羞恥ばかりが体のそこかしこに残っている。淳子はブラシを置き、そっと寝室のドアを開けた。

ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。翌朝の出勤を知らせるアラームが、静かに点滅していた。未読のメッセージがある。高志からだった。

「明日も仕事、がんばって。応援してる」

淳子は微かに笑い、画面を胸に抱いた。それからベッドに滑り込んで、目を閉じる。洗いたてのシーツが、火照った肌をやさしく包む。暗闇の向こうに、遠い事務所の天井がうっすら浮かぶ。赤いランプが、点いて、消えて、点いて、消える。その点滅の間隔が、心臓の音と重なっていくようで、淳子は、しばらく眠りにつけないでいた。目を閉じると、白いブラウスの下、黒いスカートの端、歩くたびに太腿を舐めていた数多の視線が、暗闇の中で、ひたひたと彼女の方へ寄せ返してくる。耳の奥で、男たちの静かな息遣いが、赤いランプの鼓動に混ざって、いつまでも、薄く聞こえている。

あのコロンの匂いが、まだ、鼻の奥に残っている。

第2章 顧客トラブルを救われた人妻が、断れずに夜の食事へと誘われるまで

第2章のシーン

# 第2章 顧客トラブルを救われた人妻が、断れずに夜の食事へと誘われるまで

七月の陽射しが、窓ガラス越しに事務所の床へ白く傾いていた。磨き込まれたフローリングの上で光が長く伸び、その明るさがかえって室内の静けさを際立たせている。空調の人工的な風が、淳子の短いスカートの裾をふわりと持ち上げ、剥き出しの太腿の裏をひやりと撫でては逃げていった。淳子はデスクに向かい、物件情報の数字をひとつひとつ確認しながら、キーボードを静かに叩いていた。指先が硬質なキーの感触に慣れ、三週間という時間は思っていたよりも早く過ぎ去り、ようやく業務の流れに身体が馴染んできた頃だった。隣の席では宮下沙耶香が、電話の合間に小さな飴を鮮やかな舌の上へ放り込み、カラフルな装飾を施した爪先をきちんと揃えて書類をめくっている。彼女の明るい茶色の巻き髪が動くたび、甘いシャンプーの香りが淳子の鼻腔へ微かに届き、それがこの事務所の空気に溶け込んでいた。

「綾野さん、この間のデータ、あとで確認しておいてね。新しい成約価格が入ったから」

宮下が飴を舌の上で転がしながら、事務的な声音の中に親しみを含ませて淳子へ声をかけてくる。淳子は彼女の方を向き、はい、と短く応えた。黒い瞳がにこりと細められ、宮下はまた電話の相手へと意識を戻していく。その時だった。事務所の入口の重いガラスドアが勢いよく開かれ、外の熱気とともに空気がひやりと震えるような音が響いたのは。

「責任者、出せ!」

中年男の怒鳴り声が、壁にぶつかって鋭く跳ね返る。淳子の背筋がすっと伸び、指先がキーボードの上で凍りついた。入ってきたのは五十代半ばほどの男性で、汗ばんだワイシャツの襟元がくたびれて肌に張り付き、手にした紙の束が力任せに握り潰されていた。目は血走り、眉間には深い皺が刻まれ、怒りが皮膚の表面から湯気のように立ち昇っている。事務所内の空気が一瞬で張り詰め、電話の声だけがどこか遠くで響いていた。

「お客様、どうなさいましたか……」

宮下の隣の席で、担当の男性社員が恐る恐る立ち上がり、低い声で問いかける。男はその社員に詰め寄ると、握り締めた紙束をデスクへ力任せに叩きつけた。ばさりと乾いた音がして、書類が扇形に散らばり、一枚が淳子の足元まで滑ってくる。淳子の視界の中で、その白い紙片がゆっくりと床に落ちるのを、時間が引き伸ばされたように感じた。

「どうしたもこうしたもない! おたくのサイトに載ってた価格と、この間もらった書類の金額が全然違うじゃないか! こっちは購入のつもりでローンの手続きまで始めてるんだぞ! どういうことなんだ!」

淳子は息を呑んだ。酸素が喉の奥でつかえ、胸のあたりが冷たくなる。視線が自然と、散らばった書類の上の数字へ吸い寄せられていく。そこに印字されていたのは、三日前に淳子が打ち込んだ物件番号だった。間違いなく。淳子の指が、スカートの裾の上で微かに震え始め、爪の先から血の気が引いていく。心臓が早鐘を打ち、耳の奥で自分の脈拍がやけに大きく響く。

「申し訳ございません。すぐに確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」

男性社員が深々と頭を下げ、それから淳子の方を振り返った。彼の瞳が、確認を求めるように淳子を射抜く。淳子は椅子から立ち上がり、男の前に進み出た。パンプスの中の足の裏が、床に張り付くように重く、一歩ごとに鉛を引きずるような感覚が太腿まで這い上がる。

「わ、私が、入力いたしました……。ただ、あの、入力時には……」

言葉が喉の奥で絡まって、うまく形にならない。男の鋭い視線が、淳子の顔から汗ばんだ首筋へ、白いブラウスを突き上げる胸元へ、そして短いスカートから剥き出しの太腿へと、ほんの一瞬で舐めるように落ちた。その視線の粘り気に、肌が粟立ち、胃の底がぎゅっと縮む。

「お前がやったのか! 主婦かなんか知らんが、素人が適当に打ち込むからこんなことになるんだろうが!」

男の唾が、淳子の頬すれすれに飛んだ。生暖かい飛沫の気配に、淳子は身をすくませ、ただ、ごめんなさい、と頭を下げることしかできない。三週間の間に何度も考えた、あの夜の自分のミスではなかったのか、という疑いが、また胸の奥で不気味に頭をもたげ、内臓を冷たい手で撫で回すようだった。

「お客様、ここは私がご対応いたします」

その声が聞こえた瞬間、空気の質が変わった。重たく濁っていた事務所の空気が、凪いだ海面のように静まり返る。田布施馨だった。ダークスーツの胸元には深い紺のネクタイが優雅に揺れ、彼の纏う官能的な香りが、汗と怒号で曇った事務所の空気をするりと切り裂いて淳子の鼻腔へ届く。それだけで、淳子の呼吸は不思議と深くなる。

「社長……」

淳子は思わず小さく呟いた。馨は淳子をちらりと見ると、黒曜石の瞳で大丈夫です、と告げる。視線だけで肩を押さえられたような、目に見えない優しさが淳子の身体を包み、張り詰めていた筋肉の糸が少しだけ緩んでいく。

「お客様には大変ご迷惑をおかけしました。この度の価格誤表示、原因は当社の更新手続きにございました。いえ、入力者のミスではなく、私の監督不行き届きです。お詫びのしようもございません。本日、成約に向けて最善の条件をご提示することをお約束いたします」

馨は床に散らばった書類を一枚一枚丁寧に拾い上げながら、男の目を真っ直ぐに見つめ、深く頭を下げた。その背中の広さ、スーツの肩の縫製が描く滑らかな曲線を、淳子は呆然と見つめていた。彼の額が、蛍光灯の青白い光を受けて薄く光っている。男はしばらく馨を睨みつけていたが、やがて鼻から荒い息を吐き出すと、わかった、二度と間違えるなよ、と捨て台詞を壁に叩きつけるように残して事務所を出て行った。ドアが閉まる音が、淳子の胸の奥に長く響く。

「綾野さん、顔を上げて」

馨が、淳子のすぐ前で柔らかな声を落とす。顔を上げると、彼の黒曜石のような瞳が、淳子の揺れる焦茶の瞳を静かに覗き込んでいた。その近さに、心臓の音が耳の奥で急に大きくなり、息の仕方を忘れそうになる。

「怖かったでしょう。ですが、あなたのせいではありません。あの価格は、更新の際に私が誤った数字を入れてしまった。あなたは何も悪くない。むしろ、こんな思いをさせて申し訳なかった」

「……社長が謝ることでは……」

「淳子さん」

馨の大きな手が、ほんの一瞬、淳子の肩に触れた。白いブラウスの薄い生地の上から伝わる熱が、肩の骨から首筋へ、耳の後ろへとじんわり染み込んでいく。淳子は何か言わなければと思いながら、ただ彼の顔を見上げることしかできない。彼のコロンの香りが、汗と動揺にまみれた淳子の全身を、薄い紗のように静かに包み込んでいた。

その日の午後、淳子はデスクの上を片付けながら、何度も馨の言葉を反芻していた。あなたのせいではありません。その一言が、胸の中の張り詰めた塊をゆっくりと溶かし、澱のように沈んでいた自責の念を静かに希釈していく。そんな折、馨が再び淳子の傍へ歩いてきて、デスクの縁に指先を置いた。磨かれた爪が、夕陽を受けて鈍く光る。

「綾野さん、今日は本当に疲れたでしょう。もしよければ、今夜、気分転換にお夕食でもいかがですか。私なりの、お詫びも兼ねてです。何度もお誘いしてしまって、しつこいと思われるかもしれませんが……」

彼は少し照れたように、ネクタイの結び目を指先で整え、その仕草に大人の男の余裕と、ほんの僅かな隙が垣間見えた。いつものように、また断るつもりだった。これまでも何度も飲み会や食事の誘いを柔らかくお断りしてきたのだから。パートタイム勤務なので、小学生の子どもがいますので、夫が待っていますので。そんな言葉が口のすぐ手前まで出かかっていた。なのに、喉の奥から溢れたのは、まったく別の言葉だった。

「……私で、よろしければ」

けれど、代わりに零れたのは、そんな甘い震えを帯びた声だった。あの場で助けていただいた恩義が、馨の穏やかな物腰が、そして彼の肌に染みついたあの充ちるような香りが、淳子の舌を柔らかく縛り、心の隅に潜んでいた好奇心を静かに呼び覚ました。自分の声とは思えないほど甘やかで、それでいて掠れていた。

「本当ですか? 嬉しいです。場所は私が手配します。何か食べ物の好き嫌いは? イタリアンはお好きですか?」

「はい、好きです……」

そう答えた瞬間、スカートの下の太腿が、ひたりと寄り合うように緊張して内側の柔らかな肉が押し潰された。心の中では、早く帰って夫と陽葵と夕飯を、という思いがまだ巡っているというのに、身体の芯にはそれとは異なる熱が、ほんの小さな灯りのように点ってしまっている。

帰宅すると、玄関には高志のくたびれた革靴と、陽葵の小さなスニーカーが揃って並んでいた。その見慣れた光景に、淳子の胸はほんの少しだけ安堵する。リビングへ入ると、陽葵がソファに寝転んでタブレットを弄っていた。淳子の足音に気づくと、ぱっと丸い黒の瞳を輝かせて顔を上げる。

「お母さん、おかえり。今日、早いんだね」

「ただいま、陽葵。宿題はもう終わったの?」

淳子がそう問いかけると、陽葵はばつが悪そうにタブレットを閉じ、こたつテーブルの上に置かれた塾のドリルを両手で引き寄せた。表紙が少し折れ曲がっていて、何度も開かれた形跡が紙の癖として残っている。今にも床に溶けて消えそうなほど小さな声で、まだ、と呟き、俯いたままこれからやる、と言葉を継いだ。

「えらいわね。すぐにご飯にするからね」

淳子は微笑みながら、手早く着替えるために寝室へ向かった。ハンガーにかけたままの生成りのニットを手に取る。襟元がふんわりと広がり、そこから微かに馨の香りが立ち昇った気がして、胸の奥がちりりと疼いた。淳子はそのニットを鼻先へ近づけ、深く息を吸い込んで匂いを確かめる。柔軟剤の青い香りだけがする。ほっと息を吐き出したが、指先にはまだ、馨に触れられた肩の残像が熱を帯びているようだった。

夕食の支度をしながら、淳子は夫の高志に切り出した。フライパンから立ち上る湯気の向こうで、言葉がうまく形になるか不安だった。

「あなた、来週の金曜日なんだけど、会社の人と食事に行くことになったの。悪いんだけど、陽葵のこと、お願いできるかしら」

高志はリビングのダイニングテーブルで新聞を広げていた。落ち着いた茶色の瞳が、新聞の上から淳子を見つめ、それからゆっくりと細められる。

「構わないよ。淳子がたまには息抜きするのもいい。仕事を始めてから、頑張ってるし」

その言葉が、淳子の胸の真ん中に刺さる。ちく、と小さな針のような鋭さ。罪悪感がじわりと滲み、しかしそれを上塗りするように、あの黒曜石の眼差しと香りが過ぎる。淳子はフライパンの油が弾ける音に紛れて、ごめんなさい、と唇だけで呟いた。高志には聞こえなかったようだ。

約束の金曜日が来た。朝から心臓が、理由もなく速く脈打っているのを感じていた。化粧水を肌に馴染ませる指先が、いつもより丁寧で、いつもより冷たい。陽葵は学校の後、夫の実家へ泊まりに行く予定で、高志が仕事の帰りに車で送っていく手はずだった。出かける間際、高志は玄関の薄暗がりで靴紐を結びながら、淳子を振り返った。

「あまり羽目を外しすぎないように。終わったら連絡して」

「ええ。ありがとう。陽葵のこと、よろしくね」

高志が出て行った後、淳子はハンガーにかけていたワンピースを選び直し、鏡の前で幾度も身体のラインを確かめた。胸元が開きすぎている気がして、薄いボレロを羽織っては脱ぎ、青白い鏡の前を行ったり来たりする。下着は淡いラベンダーのレースのものを手に取った。夫と寝る時でさえ、最近は無地の色味のないものばかりを身につけていたのに、何故今日はこの色を選んだのか、自分でも綺麗に説明できなかった。

待ち合わせの駅に、馨は定刻の五分前には立っていた。仕立ての良い紺のスーツを涼やかに着こなし、右手には小さな花のブーケを持っている。夕暮れの光を背にした彼の姿を見つけた瞬間、淳子の歩みが一瞬止まりかけた。改札を抜けてきた淳子を見つけると、馨は満足そうに口元を緩め、その笑みだけで周囲の雑踏が静かになる。

「綾野さん、とても綺麗です。そのワンピース、よくお似合いです」

「ありがとうございます……。お待たせしてしまって、すみません」

「いいえ、私が早く着いただけです。夜の空気が気持ちいいから、少し歩きたかったのもありますし。さあ、行きましょう」

馨のエスコートで、駅から徒歩五分ほどの高級イタリアンへ向かう。ビルの上階にあるその店は、入口からして別世界だった。重厚な木の扉を開くと、仄暗い灯りが大理石の床の上を蛇のように這い、ワインセラーからは微かに樫の香りが冷たい空気とともに漂ってくる。店員の案内で通されたのは、窓際の静かなテーブル。眼下には黄昏の都会が、宝石を無造作に散らばめたように広がり、高層ビルの窓という窓が橙色の光を孕んでいた。

「ここ、すごく素敵な場所ですね……」

腰を下ろしながら、淳子は思わずため息を零すように呟く。馨は向かいの席に座り、ブーケをテーブルの上へ置いた。カスミソウの無数の白い粒とスイトピーの花弁が、テーブルの灯りに透けてゆらゆらと揺れている。

「綺麗なもの好きのあなたに、合うと思って。さあ、ワインはお好きですか? 今日は料理に合わせて、三種類ほど頼んでおきました」

馨のしなやかな指がワインリストを押し広げる。香りの情景を綴った幾つもの形容が、蝋燭の火の下で蜜のように煌めいている。淳子は酒豪ではない。日本酒も焼酎もほとんど口にしない。ワインは結婚式の時にグラスを唇で湿らせたきりだった。

「あの、私、お酒が弱いので……」

そう断ろうとすると、馨は首をゆっくりと横に振り、瞳の奥にほんの少しの寂しさを湛えて静かに微笑んだ。

「大丈夫。軽いものばかり揃えてあります。それに、せっかく素敵な夜です。私が無理はさせませんから、一口ずつ、味わうだけでも」

その微笑みの柔らかさに、淳子はそれ以上を言えなくなる。運ばれてきた前菜の美しさに思わず息を呑むうちに、グラスへ深紅の液体が注がれていた。深い赤の水面が、キャンドルの光を受けてとろりと揺れ、淳子の心臓の動きに合わせるように波紋を描く。淳子はその揺らぎを見つめ、自分の心が同じように揺れていることに、唐突に気づかされた。

「いただきます」

グラスを細い指で包み、口元へ運ぶ。芳醇な果実の香りが鼻腔の奥まで満ち、舌の上を滑らかな苦味と甘みがゆっくりと通り過ぎた。喉を落ちる感覚が熱く、胸の内側を柔らかく温める。美味しい。素直にそう思った。

「お口に合ったようで、安心しました。実は、ここは私の行きつけでしてね。大切な人としか来ないことにしています」

馨の声が、心臓の真上にそっと触れるような深みを帯びて耳へ染み入る。グラスを重ねるたび、淳子は自分の頬が火照り、首筋の下がじっとりと汗ばみ、ブラウスの襟元が肌に張り付いていくのを感じていた。時間が過ぎるにつれて、料理の繊細な味わいを舌の上で楽しみ尽くし、ワインは二杯目を空けようとしている。身体の芯が水面に浮いたように軽く、頭の中は薄い雲の上でゆらゆらと漂っていた。指先が痺れるようで、グラスを持つ手に力が入らない。

「綾野さん、元々、受付をされていたんでしょう? どんな風にお客様を迎えていたのか、その頃のお話を伺いたいです」

その問いかけが、淳子の中の何かを開いた。堰を切ったように、言葉が泉のように湧き出てくる。新人の頃、純白の手袋を嵌めてエレベーターの前で背を正してお辞儀をしていたこと。来客の重役に、半ば強引に名刺を手渡されて、それを上司が呆れた顔で見ていたこと。そんな、夫にも語ったことのない昔の思い出が、するすると舌の上を滑り落ちていく。話すたびに馨は、それは素敵だったでしょうね、と深い声で相槌を打ち、蕩けるように熱を帯びた眼差しが淳子の唇を、汗ばんだ首筋を、薄いボレロの間から覗く胸元を、順番に舐め上げる。

「淳子さんは、真面目で、責任感が強くて、誰にも優しくて。きっと、ご家族にも深く愛されている。あなたの声を聞いていると、こちらまで優しくなれる」

馨が身を乗り出すようにして、そう囁いた。気づけば、テーブル越しに、彼の指先が淳子の指の上にそっと重なっている。淳子はその指から電撃のように這い上る熱に、掌を閉じられずにいた。閉じようとすれば、彼の指を握り返してしまう。そんな恐れが、淳子の手を金縛りにしていた。

「社長……」

「馨でいいですよ。今だけ。今の淳子さんに、そう呼んでほしい」

淳子は首を振りながら、でも、と呼びかける。けれど、唇はそれ以上を紡げない。ワインの酔いが、思考を舌の上からじわりと溶かしてしまった。店を出る頃、外の空気は甘く香り、淳子は地面の高さを正しく感じ取れないでいた。舗道の石畳が波打っているように見え、馨の腕の力だけが確かな支えだった。

「抱きつきたくなるな。危ないから、少し、捕まえていてください」

馨が隣にぴたりと並び、淳子の肘をそっと支える。彼の体温と、あのコロンの香りが、夏の夜の熱気を割って淳子の全身を包んだ。胸が高鳴り、足元が揺れ、甘やかな浮遊感が身体の隅々まで広がっていく。街灯の光が輪を描いて滲み、淳子は自分の吐息がいつもより熱いことを自覚していた。

「ねえ、淳子さん。もう一軒、静かなバーがあるんです。少しだけ。そこのカクテルは、夜の雫みたいで、あなたの唇に似合う」

耳元で囁かれた言葉の熱に、首筋の産毛が逆立つようだった。駄目です、帰らなければ。そう言わなくちゃ。気持ちだけが先へ駆けていくのに、声が出ない。目の前を、真珠色の顆粒が散るように、夜の灯りが滲んで流れていく。

「……少しだけ、なら」

その返事を待っていたとばかりに、馨の腕がするりと淳子の腰へ回り、華奢な身体をそっと引き寄せた。見上げた彼の横顔が、街灯の下で美しく翳り、鼓動が耳の奥でひときわ強く跳ねる。馨の指が腰骨のあたりを軽く圧し、その指先の位置を淳子は余すところなく感じ取っていた。

バーは雑居ビルの地下へ続く、ひっそりと黙した入口の先にあった。磨かれた看板が湿った空気の中で鈍く光り、階段を降りるたびに地上の喧騒が遠ざかっていく。店員が背筋を正して迎える奥へ進むと、個室のような薄闇に包まれた小部屋へ通される。革張りのソファに腰を下ろすと、柔らかなクッションが淳子の腰と背中を深く包み込み、まるで夜の胎内に座らされたようだった。馨が隣に座る。自然と脚が触れ合い、淳子の太腿の内側に、互いの体温がほどけて流れ込んでいく。

「さあ、二人っきりですね」

馨の長い指が、淳子の栗色の髪を一房だけ掬い、耳の後ろへ丁寧に掛け直す。その指先の動きだけで、腰の奥が切なく疼き、下腹のあたりが鉛のように熱くなった。淳子は答えられず、持て余した手を膝の上で組み合わせ、指と指を絡めて誤魔化す。馨のコロンが、この閉ざされた空間ではいっそう強く、獣のように甘く、淳子の鼻孔を犯してくる。

「淳子さん、少しこちらを向いて」

顎に彼の指が添えられ、そっと上向かされる。暗がりの視界いっぱいに、馨の端正な顔があった。黒曜石の瞳が熱く揺れ、吐息が淳子の唇の先を湿らせる。淳子は彼のコロンと、その下に潜む男の肌の匂いを、肺の奥まで吸い込んでしまった。

「私、もう、帰らないと……」

ようやく搾り出した抗いの声が、縋るように震える。馨はその声を、言葉ではなく、唇で淳子の声帯ごと塞いだ。柔らかく重い何かが淳子の口を覆い、彼の下半身の熱が、スカート越しに太腿の外側へ確かな重みで触れる。口の中で、馨の舌が淳子の舌を見つけ、逃げる先を追いかけるように絡めてくる。身体を触られると、溢れてくるのは恐怖ではない。母の胎内に還るような、名付けようのない親密感。このひとを、ずっと前から知っていた。そんな錯覚が、毒のように優しく舌の上で甘く弾け、四肢の力を抜いていく。

馨の指先が、淳子の背中をゆっくりと辿り、ワンピースのファスナーへ触れる寸前、淳子は残った力で彼を見つめ返した。それは拒絶ではなく、溺れる者が水面の光を見上げるに似た仕草だった。馨は微笑み、淳子の耳朶に、低く名を吹き込む。

「淳子さん」

その声とともに、グラスの中で揺れていた赤い波が、頭の芯に何度も何度も寄せては返す。ああ、どうして断れなかったのだろう。淳子の身体はもう、夏の夜の熱に溶けて、馨の腕の中でふわりと花びらのように開いていた。

第3章 バーの個室で唇を重ねた人妻が、ホテルで激しく身体を開いていくまで

第3章のシーン

暗がりの中、淳子の唇はまだ彼の唇の感触を覚えていた。革張りのソファに沈み込んだ身体の芯が、痺れたように熱を持っている。つい先ほどまで「帰らなければ」と繰り返していた舌は、まるで別の生き物のように重く萎え、口蓋の奥で溶けてしまったかのように動かない。彼の舌が淳子の口内へ入り込んで、上顎をゆっくりと撫で上げるたび、腰の奥から沸き立つような甘い戦慄が背骨を駆け上がってくる。濃厚な彼のコロンの香りは汗ばみ始めた首筋の皮膚にしっとりと纏わりつき、息を吸うたびに脳の芯を痺れさせる。

社長の指が、淳子の耳の裏から首筋を伝い、鎖骨のくぼみへと降りていく。触れるか触れないかの力加減。壊れ物にでも触れるような繊細さで、なぞるというよりは空気ごと撫でるような指先だった。そのあまりの優しさに、淳子の身体は抗う力さえ抜け落ち、自然と彼の胸へ寄りかかっていく。ワインレッドの闇の中で、自分の吐息ばかりが異様に甘く響き、その音を聞いている自分がもう一人、どこかから見下ろしているような心地がした。

「淳子さんの肌は、思っていた通り温かい」

社長の低い声が鼓膜をじかに震わせ、彼の息が耳たぶを濡らす。その生温かい風に肩がびくりと跳ねた。指先がブラウスの襟元をなぞり、第一ボタンに触れる。淳子は両手を彼の胸に添えたまま、押し返すこともできずに、ただ浅い呼吸を繰り返していた。

「……私、どうして、こんな……」

ようやく絞り出した声が、深い海の底から浮かんでくる泡のように儚くて、自分でも驚くほど弱々しい。夫の顔が、遠い残像のように胸裏を掠めた。それなのに、彼の指が襟元に触れるたび、皮膚の下で熱が波打つ。社長はそんな淳子の呟きを唇でふさいだ。啄むような三度の接吻。一度目は上唇、二度目は下唇、三度目は唇の端。そのたびに、内腿の付け根がきゅうっと痙攣するような甘い疼きが走り、淳子は彼の胸元へ無意識に指先を食いこませていた。

「嫌なら、今ここでやめます。けれど、あなたの身体はもっと触れ合いたがっている。委ねてもいいんですよ」

彼はそう囁き、淳子の右手をとって自分の胸元へ導いた。厚い胸板の向こうで、彼の心臓が力強く脈打っているのが掌に伝わる。その律動に触れた瞬間、淳子の胸の奥から、夫以外の男性に抱かれることへの罪悪感が熱い塊となって喉まで持ち上がった。けれど、その塊は口へ届くまえに、彼の甘い舌先によってふわりと溶かされてしまう。溶けた罪悪感は、温い蜜のように胸の内側へ滴り、かえって淳子の下肢を熱く湿らせていった。

彼の膝が淳子の膝のあいだへ割って入ってきて、タイトスカートの生地がつれて腿の半ばまで這い上がる。曝された太腿の内側を、彼の指が這った。内ももを柔らかく撫で上げるたび、子宮が熱く収縮する感覚が波のように寄せては返し、指の腹の凹凸がナイロンのストッキング越しにくっきりと感じられる。その布地一枚の隔たりが、逆に淳子の感度を研ぎ澄ませていた。

「脚を閉じないで。あなたがどれほど敏感になっているか、私に教えてくれる?」

甘く命じるような口調でありながら、彼の目は真剣に淳子を射抜いていた。暗闇に慣れた視界に、彼の黒曜石のような瞳が濡れた光を湛えているのが見える。淳子の手はもう、彼の肩へ縋りついていた。閉じようとした膝は、彼の太腿によってやわく押し戻され、あらわになった太腿のあいだを冷えた空気が這ってゆく。

彼の指は太腿の付け根から、下腹部をかすめるようにして、レースの縁へ触れた。淳子は小さく喉を鳴らし、顔を背ける。見なくてもわかる。あの場所はもう、自分の身に覚えがないほどに熱を持ち、染み出す湿り気を堪えきれずに下着を重たくしていた。社長の指が、パンティの上からやわらかな膨らみを押し上げるように擦り上げる。

「あ……っ」

その瞬間、身体の中の何かが弾けた。浅く重い声が口から漏れて、腰が彼の指へ擦りついていく。布越しなのに、彼の指は淳子の敏感な突起の位置を的確に捉えていた。上下にゆっくりと割れ目を挟み、縦の襞をなぞる指の動きに、内側から熱い蜜がじんわりと染み出していく。布地に滲んだ自分の体液の温さを指越しに感じるたび、淳子は息を詰めるようにして身を縮めた。

「素敵です。こんなに濡らして……」

そう言われた途端、羞恥が熱い炎のように頬を焼いた。けれど羞恥を抱く淳子とは別の淳子が、もっと触って、もっと強く、と腰を揺らしている。その二つの自分がせめぎ合うたびに、吐息は細かく乱れた。背徳という名の毒が、愛液という蜜に溶け合って、淳子の理性を根元から蕩けさせていくようだった。

社長の指がレースのパンティを横にずらす。露になった肉の裂け目に、空気の冷たさがひやりと沁みた。ぬらついた襞が、彼の指に食いつくように吸い付く。くちゅくちゅ、という粘ついた音が、個室の静寂に立ち昇り、自分の身体から漏れているとは思えない淫らな響きが鼓膜を犯していく。彼の指がゆっくりと入り込んでくる感覚に、淳子は目を閉じ、こめかみに熱が昇るのを感じた。

「指を、締め付けてきますね。ここ、もっと開いてもいいですか?」

囁きとともに、二本目の指が淳子の中へねっとりと沈み込んでくる。圧迫感と充実感が同時に押し寄せて、喉の奥から息とも声ともつかない苦鳴が溢れた。彼の指がゆっくりと屈折し、ざらついた前壁の一点を幾度も擦る。そのたび、尾骨すれすれを雷が這い抜けていく。

「ああ……だめ、ぇ……そこ、触らないでぇ……」

「ここですか。淳子さん、ここをこうすると、どうなりますか?」

指がくっと体内で持ち上がる。がくがくと腰が勝手に跳ね、彼の指に食らいつく蜜壺の卑しさを自分自身ではっきりと知らされた。彼の指の腹がこりこりとした固い襞を掻き回し、粘液の音がいっそうはっきりと響きわたる。社長のコロンの残り香が、淳子の嗅覚を犯すたび、夫の顔が頭の片隅で揺れるのに、身体はそれ以上に目の前の男を深く受け入れようと蠢いていた。夫の横顔を思うたび、胸の内側で何かが軋むような音を立てる。それなのに、淳子の腰はますます彼の指へ押し付けられていった。

「あ、や……、わたし、もう、なんか、きて……あぅ……あはッ」

腰をそらした瞬間、膣壁が痙攣し、太腿が細かく震えた。指ではなく、彼そのものに掬い上げられるような浮遊感を抱いたまま、甘い痺れが下腹を突き抜けていく。淳子は彼の肩口に顔を埋め、彼の香りを何度も吸い込みながら、波打つ身体を持て余し、彼の背広を指でかきむしるように縋った。体を痙攣させる度に、彼の胸が淳子の乳房を押し返す。

「イッてしまいましたね。可愛い。大丈夫、まだまだ気持ちよくなれますよ」

耳元で笑い混じりの吐息が落ちる。恥ずかしさと快楽がぐちゃぐちゃに滲んで、涙がにじんだ。彼に抱かれることが、こんなに気持ちいいなんて。身体の奥でくすぶっていた飢えが、一気に火の手を上げて燃え広がっていくようだった。ふと脳裏を過ぎった夫の顔、帰りを待つはずの高志の姿。それを見ないようにしながら、淳子は深く沈むまぶたを閉じて、誰にも見えない暗闇の中でそっと息を吐いた。

気づいたとき、淳子は社長に腰を支えられ、店の廊下を歩いていた。足音が自分のものとは思えないほどおぼつかない。視界の縁が溶けた飴のように揺らめき、彼の体温だけが現実の錨みたいに淳子をこの世界へ縛りつけていた。タクシーの後部座席で、彼は淳子の肩を抱き寄せ、淳子の指を彼の指でほどくように弄ぶ。窓の外を流れる街灯の光が、彼の横顔を青白く影取っていた。足の付け根に残る愛撫の感触が、座席の振動と重なるたび、淳子は息を詰めた。

ホテルの部屋に足を踏み入れた瞬間、ふたりの身体はまるで初めからそう決まっていたかのように絡み合った。ドアが閉まるか閉まらないかのうちに、社長の手が淳子の背中へ回され、ブラウスのボタンを無造作に外していく。淳子の手もまた、彼のスーツの上着を探り、ネクタイを引き抜くように外していた。

吐息の合間に、互いの服が床へ落ちる音ばかり耳につく。裸にされてベッドへ倒れ込むと、シーツの冷たい感触が背中いっぱいに広がった。天井の灯りが白く滲み、淳子の心臓だけが一人で走っている。白い下着がじっとりと汗を吸い、レースの縁取りが肌に食い込んでいた。薄明かりに晒された自分の肢体が、ひどく無防備で、まるで別人のもののように生白く見えた。

「淳子さん、すごく、綺麗だ」

社長の囁きが、裸の乳房の先端へ落ちてくる。見下ろす先で、彼の指が淳子の乳首を二本でねっとりと転がした。胸が勝手に反り返り、声が掠れて漏れる。乳輪を舌先で円を描くようになぞられ、その中心を吸い上げられると、胸の奥から絞り出されるような荒い喘ぎが突き上がった。

「ひぁ……ああっ……!」

彼の口の動きに合わせて、身体が跳ねる。彼の舌が乳首を捏ねるたび、下腹の奥がきゅんと反応して、太腿が擦れ合う。柔らかな肉を吸われ、軽く歯を立てられるたび、身体の中心から溢れた蜜が、腿の内側をつたってシーツへ滲んでいくのがわかった。胸から滴る感覚が下腹の奥へ落ちて、むずかるように腰が揺れる。

いつのまにか両脚を広げられていた。脚のあいだに彼の肩が沈み、呼吸のたびに湿り気が冷たくなる。羞恥に、棄権したプールの更衣室で友達に裸を見られた日の記憶がよぎる。いや、もっと直接的な恥辱が淳子の四肢をこわばらせた。

「明るいところで、じっくり、あなたを見せてください」

そう囁かれ、彼の顔が淳子の中心へ近づく。熱い吐息が敏感な襞へ吹きかかり、淳子は咄嗟に腰を引こうとした。けれど社長の大きな両手が、淳子の腿を押さえ込み、閉じることを許さない。指の腹が腿の内側に食い込み、秘所を隠すこともできないまま、淳子は喉の奥でひくっと鳴いた。

「恥ずかしがらなくていい。この世で一番、綺麗な花です」

彼の舌先が、裂け目の入り口から上へ向かってゆっくりと舐め上げた。淳子は「あぁあ、あああっ」と叫ぶほかない。蟻の行列が背骨を這い登っていくような快感が、爪先から頭のてっぺんまで突き抜ける。彼の舌は陰唇を一枚ずつしごくように舐め分け、ぬるりと光る襞の隙間を丹念に嘗め回した。充血した突起を唇で捉えると、そのまま軽く音を立てて吸い上げる。

「ひぐ……っ! あ、お願い……それ、強すぎ、ぃ……!」

「強すぎるのは、私のせいではなく、淳子さんが敏感すぎるからですよ」

笑いを含んだ声の後、彼の舌先がさらに速いリズムで突起を弾く。淳子はのけぞり、シーツを握りしめた。腰が勝手に浮き上がり、彼の舌へ自ら押し付けてしまう。むきだしの肉芽が、唾液と淳子の蜜でぬるぬると音を立てるのが、淫らで、恥ずかしくて、それでいて脳の奥まで蕩けそうに気持ちがいい。夫の高志には決して見せたことのない場所を、社長の舌はゆっくりと、隅々まで舐め返していく。その口の動きに身を委ねながら、淳子は自分の中の何かが音もなく崩れ落ちていくのを感じていた。

そのまま何度目かの白い吐息が止まらないうちに、身体中が弓なりに反って、深い海の底から声にならない悲鳴が溢れた。今まで味わったことのない、鋭くて重い悦び。産卵する魚のように下腹が律動し、膣が収縮と弛緩を繰り返す。社長の唇が、痙攣する淳子の脚のあいだで静かに笑った気配がした。

半分失神した淳子の上半身を抱き起こし、社長は淳子の顎を持ち上げる。

「今度は、あなたが私を気持ちよくしてくれますか?」

その問いかけに、淳子は何のためらいもなく彼の脚のあいだへ滑り込み、ゆっくりと彼のズボンを下ろしていた。視界の先に屹立する男根が、淳子の息を一瞬に奪う。夫のものよりも二回りほど大きいそれは、黒い茂みの中から怒張し、赤黒い傘を絞り出された樹液のようにつやめかせていた。先走りの匂いが鼻を突き、空気が粘り気を帯びたようにさえ感じられる。

淳子はおずおずと手を伸ばし、熱い幹に指を絡めた。掌の中で脈打つものが、力強く、凶暴で、いまにも怒り出しそうな硬さをしていた。高志の、あの穏やかなぬくもりとはまるで違う凶器。それなのに淳子の指先は、知らず彼の裏筋をなぞっていた。指の腹に感じる血管の凹凸が、彼の昂奮を生々しく伝えてくる。

「……私、こんなの、初めて……」

正確には、夫以外の、嫌悪感を抱かない男根を扱うのが初めてだった。だが口に出すかわりに、淳子はゆっくりと亀頭を唇へ運んだ。彼の先端に口づけ、その割れ目をそっと舌先で開く。塩辛さと雄の匂いが口内へ広がり、それが甘く感じられるほど、淳子は壊れはじめていた。頭の片隅で、高志が自分に向けるような優しい眼差しを思い返して、胃のあたりがすっと冷える。それでも唇は彼の熱を貪るように吸い付いた。

「ああ……淳子さん、上手ですね」

吐き戻された彼の声が、頭の芯を痺れさせる。嬉しい。もっとこの人を気持ちよくしたい。その感情が、身体じゅうの細胞を熱く満たしていった。舌全体で傘の下を這いずり、棒の裏筋をゆっくりと丁寧にしごき上げる。唇を窄めて亀頭を吸い、先端の窪みを舌先で突くと、彼の太腿がこわばった。

「ねえ、喉の奥までいけそう?」

淳子は頷くかわりに、彼の腰へ手を回し、身体ごとその熱へ沈み込んだ。口をいっぱいに拡げられ、上顎と舌で肉茎を包みこむ。喉の入り口に傘が触れると、軽い嘔吐感が込み上げた。唾液がどろりと溢れ、吸い付くたびにじゅぼじゅぼと下品な水音が部屋へ響く。淳子の吐き出す空気と吸い込む空気が、穴という穴を淫らに鳴らした。

「淳子さん、そこで、吸いながら、こっちを見て」

言われるままに顔を上げると、彼と目が合った。男根を口に含んだまま見つめ合う。どうしようもない罪悪感と、とろけきった幸福感が、視界の奥でぐるぐる回っていた。涙で滲んだ彼の顔が、ひどく綺麗に見えた。夫への呵責を、唾液と一緒に飲み下していく。社長の匂いに包まれながら、淳子は声にならない自身の浅ましさを喉の奥で噛みしめていた。

「……もう、挿れたい。あなたの、ここに」

彼に抱き起こされ、再びベッドへ押し倒される。淳子自身、もう待ちきれなかった。彼の手が淳子の右足を持ち上げ、ぐっと折り曲げる。秘所がひくつくほど開かれ、先ほどの蜜が糸を曳いているのが見えた。

「あぁぁあ、社長、はやく、はやく入れてください……!」

自分で言いながら、従順に腰を差し出している。彼の剛直が淳子の陰口へあてがわれ、熱い傘がぬれた裂け目をぬちゅりと割った。身体の中が、待っていたとばかりに彼を迎え入れる。ずぶり、と音がして先端が沈む。内臓まで届くような圧に、息が止まった。その瞬間、淳子の頭の中で、高志が振り向く背中がよぎった。部屋の灯りを消す前の、優しい声。けれど、淳子はもう、目の前の男の熱を拒むことができない。これで本当に戻れない。その言葉が、肉の奥でくっきりと脈打った。

「ああ、淳子さん……中が、とても熱い……」

彼のこめかみが引き攣る。荒い息が胸元へ落ちて、淳子は首を反らして喘いだ。彼が腰を進めるたび、肉壁が押し広げられ、ざらついた熱が狂おしいまでに淳子を満たしていく。脚を切なく絡め、彼の背中へ爪を立てた。

ピストンの間隔があがる。彼の腰骨が割れ目へぶつかり、汗ばんだ下腹部が淳子の突起をぴしゃりと鞭打つ。そのたびに、尻肉が波打ち、強い快感が背骨を駆け抜けて頭頂から抜けていく。

「こんな、の、夫じゃ……味わったことない……あ、あ、あああっ!」

彼の根本まで含んだ場所から、外へ抜ける間際、外壁をこすり上げられる快感に、淳子は舌を出し、鼻から抜けるような悲鳴を上げた。社長は腹の奥を突きながら、淳子の乳を揉み上げ、時に指で突起を摘まみ上げる。三方向からの躾けるような悦楽に、眼球の裏で白く火花が散る。

「いつ果ててもいいんですよ。ほら、私も、もう限界に近い……。一緒に」

耳元に吹き込まれる声が、最後の楔になって熱を爆発させた。ひときわ強い抽迭の反動で、淳子の背中が軋むほど反り返る。声にならない咆哮が喉を震わせ、身体がばらばらに砕け散るかと思った。彼の脈動が、とくとくと腹の奥に響く。同時に、熱いものが膣いっぱいに注がれる感覚があった。汗なのか、唾液なのか、別のものなのか、太腿を伝うものがすべて混ざり合う。淳子はびくびくと跳ねる身体をそのままに、天井の花模様だけを見つめていた。

その後も、指で、舌で、幾度も淳子を果てさせ、そのたびに淳子の口は社長の男根を受け止めた。飲み込むことが、彼に属している証明のように錯覚して、淳子は何度も喉を鳴らしながら彼の精液を嚥下した。夫の精液を飲んだことすらないのに、社長のそれを喉で味わうたび、罪悪感が背骨をひたひたと満たしていく。それなのに、舌先はまだ彼を求めていた。

深夜の闇が窓辺に張り付いていた。ふと我に返ると、隣で彼の規則正しい寝息が聞こえる。彼の腕の中にいる自分が、急に現実の色を取り戻して迫ってくる。身体のあちこちが火照り、倦怠感が深い沼のように四肢へ沈んでいた。汗と精液の匂いが、沈黙の中で腐臭のように蘇る。

淳子は無意識にサイドテーブルのスマホへ手を伸ばしていた。画面を灯せば、夫からの通知。時間は二時を回っている。指先が震えた。文字が、三行ばかり並んでいる。

「まだいるのか? 遅いから心配してる。終わったら連絡がほしい」

胸のあたりが冷えた。けれど、それ以上に、隣から漂う社長のコロンの残り香が、鼻を掠めて淳子の身体の芯を甘く疼かせる。社長の匂いを吸い込むたびに、さっきまでの快感の記憶が潮騒のように蘇り、胎のあたりがまた、熱く濡れていく。なんて浅ましい身体なのだろう。淳子は唇を噛みしめ、音を立てないようにベッドを抜け出した。

手早く服を拾い上げ、ブラウスのボタンを手探りでとめながら、自分の首筋へ残った香りをタオルで拭う。社長が身じろぎをしたので、呼吸を殺す。

「お送りしましょうか」

彼の低い声が、また甘い毒を流し込んでくる。淳子は背を向けたまま、首を振った。

「一人で帰ります。……ここまで、本当に」

言葉が見つからず、胸の前で鞄を抱きしめる。彼はそれ以上引き留めず、ゆっくりと起き上がる。後ろから淳子の髪へ、軽く顔を寄せ、彼のコロンをすっと吸い込んだ気配がした。その気配だけで、太腿の根元が緊張し、蜜が薄く滲む。泣きそうだった。誰のせいでもない、自分の身体の淫らさが、何よりも淳子を苛む。

タクシーに乗り、窓から流れる夜の街の光をぼんやり見つめながら、淳子は自分の身体がまだ彼の形を覚えていることに打ち震えていた。歯の奥に彼の味。髪の奥に彼のコロン。皮膚の下に、彼の熱。それを持ち帰ることの罪悪感が、胃の腑で赤く燃え上がる。夫の高志が、眠る息子の隣で、自分を信じて待っている姿を思う。その信頼を、パンティの中で固まりかけた精液のぬるつきと一緒に持ち帰る自分が、ひどく汚れた生き物に思えた。

家の前まで着くと、足音を殺して玄関を開けた。靴を脱ぎ、真っ直ぐ浴室へ向かう。服は脱いですぐ洗濯機へ放り込んだ。熱いシャワーを浴びながら、何度も何度も性器を洗う。それでも、身体の内側から溢れてくる熱だけは洗い流せない。自分が自分の身体の住人ではなくなったようで、淳子はシャワーの中で声を殺して泣いていた。

浴室から出ると、洗い流したはずの社長の残り香を、また首筋から感じた。そんな浅い幻にさえ、胸の奥がひくりと痛む。淳子は下着を身に着け、水を一杯飲んでから、夫の眠る寝室へ足を運んだ。高志は、灯りを消した布団の中で静かに背を向けていた。けれど、淳子が敷布をめくって潜り込んだ瞬間、彼の声がひそやかに夜を裂いた。

「おかえり。遅かったね。何か、心配したよ」

どきりと心臓が跳ね、喉の奥が引き攣る。淳子は自分の腕で身体を抱き、彼の背中をじっと見つめた。高志が振り向き、こちらへ顔を寄せた。布団の摩擦に混じって、淳子の髪から漏れた社長のコロンの匂いが、闇の中でほんの僅かに揺れる。高志の鼻先が、一瞬だけ近づいた。

「なんか、香水みたいな匂いがする」

「そ、そう? お店の匂いかもしれない。タクシーでも、匂いのきつい人がいたから」

そう言って、淳子は口元だけで笑う。高志は黙っていた。今はただ、沈黙の粒が、布団の上へしんしんと降り積もるようで、心臓の音ばかりがやけに大きい。しばらくして、彼は小さく息を吐いた。

「疲れてるだろう。無理しないで、ゆっくり休みな」

彼はそう言うと、静かに背を向け直した。淳子は明日も仕事なんだ、と呟いて、自分の肩を抱く。真っ暗な天井を見上げても、眠気は来ない。閉じた目の裏で、社長の指が、舌が、あの海綿体の熱が、しつこいくらいに淳子を呼んでいる。現実へ引き戻そうとする夫の規則正しい寝息だけが、背骨を砂時計の砂みたいに冷え冷えと落ちてゆく。やがて窓の外が青みはじめた頃、淳子の身体はまだ、男の残り香に浅く喘いでいた。

第4章 八月の朝は、夜のあいだに部屋の隅々まで染み込んだ熱を、開け放した窓から流れ込む空気ごと吐き出しているようだった。カーテンの合わせ目から差し込む日差しが、寝室の床に白い水たまりを幾つも作り、その光の縁で微かに揺れる埃の粒さえ、眠れなかった私の目には鋭く突き刺さる。私は一睡もできないまま、背中に張り付いたシーツの皺を指先でなぞりながら、朝の輪郭を確かめるように、細く息を吐いた。

第4章のシーン

八月の朝は、夜のあいだに部屋の隅々まで染み込んだ熱を、開け放した窓から流れ込む空気ごと吐き出しているようだった。カーテンの合わせ目から差し込む日差しが、寝室の床に白い水たまりを幾つも作り、その光の縁で微かに揺れる埃の粒さえ、眠れなかった私の目には鋭く突き刺さる。私は一睡もできないまま、背中に張り付いたシーツの皺を指先でなぞりながら、朝の輪郭を確かめるように、細く息を吐いた。

台所へ向かい、シンクの蛇口をひねる。冷たい水が手のひらに溢れ、指のあいだから零れ落ちていった。顔を洗うたびに、昨夜の汗と、あの人の肌に染みついていた香りが、毛穴の奥からゆっくりと溶け出してくるようで、私は何度も顔を擦り、鏡の中の自分と視線を合わせられずにいた。眠っていないはずなのに、頬は熱を持ったように紅潮し、目尻には薄い疲れの影が青く滲んでいる。

「お母さん、おはよう」

陽葵の声が、廊下の向こうから跳ねるように届いた。私は濡れた手をタオルで拭きながら、ええ、おはよう、とできるだけ穏やかな声を返す。彼がリビングの椅子に腰を下ろし、ランドセルから昨日の塾の宿題を取り出す気配がした。私は朝食の支度を整えながら、胸の奥に沈めたあの夜の欠片を、さらに深く押し込むように、深く息を吸い込んだ。

それからの一か月、事務所の時間は表向き静かに流れ、むしろ日常の穏やかさが私の肩を少しずつ解していった。社長は相変わらず激しく仕事を追い、壁を突き抜けて聞こえる叱責の声には一分の隙もない。けれど、私の前ではあの朝、ぽつりと「昨夜は、すみませんでした」と静かに頭を下げたきり、個人的な言葉を投げかけてくることはなかった。私も、いいえ、お互い酔っていましたから、とだけ答えた。それ以上は何も言わず、二人して酔った末の過ちとして、記憶の蓋を固く閉ざし続けた。

昼休み、宮下さんが私のデスクの横へ来て、飴玉をひとつ転がしてくれる。彼女の明るい茶色の巻き髪からは、今日も甘いシャンプーの香りが漂い、私はその香りに縋るように肩の力を少しだけ抜いた。

「綾野さん、来週の金曜、歓迎会やるのよ。知ってた?」

宮下さんが、自分の飴を奥歯で噛み砕きながら、ぱっちりとした黒い瞳を私へまっすぐ向けてくる。私は首を傾げ、初めて聞きました、と小さく応えた。

「綾野さんたちの歓迎会。主役なんだから、絶対来てよね。これまでもずっと断ってたでしょ。今回は大勢だし、そんなに堅苦しくないから」

彼女の言葉に、私は曖昧に笑みを浮かべることもできず、デスクの上の書類の端を指先で整えるだけだった。けれど宮下さんは、机に手をついて身を乗り出し、追い打ちをかけるように続けた。

「社長も来るし、もし都合が悪いなら、私からうまく言っておくわよ。家庭のことは、無理しなくていいんだから」

社長も来る。そのひと言が、心臓の真ん中をぎゅっと握りしめ、指先から血の気が引いていくのを感じた。私は慌てて、大丈夫です、と答える。断る理由が見つからなかった。いや、断れば何かを隠しているように、自分自身で認めているように思えてしまうのが、何よりも怖かった。大勢の飲み会なら、夫にも怪しまれない。私は「参加します」と告げてから、自分の声が微かに上擦り、喉の奥が不自然に熱いのを知った。

帰宅すると、高志がリビングのテーブルで、週刊誌を静かにめくりながら待っていた。陽葵は自分の部屋でドリルを解いているようで、鉛筆の音が廊下にまで細かく漏れている。私は鞄を置き、手を洗いながら、来週の金曜のことをできるだけ平板な声で話しはじめた。

「あなた、来週の金曜、会社の歓迎会があるの。私も、出席しなくちゃいけなくて」

高志は週刊誌から顔を上げ、穏やかな茶色の瞳を僅かに細めた。

「歓迎会? 淳子も主役かい」

「主役って言われると、断れなくて……。大勢での食事だから、そんなに遅くはならないと思うの」

「いいじゃないか、たまには。陽葵は俺と一緒に実家へ帰る予定だから、ちょうどいい。ひとつだけ、あんまり羽目を外すんじゃないぞ」

高志はそう言って笑い、新聞紙面を畳んだ。その何の屈託もない笑顔を見つめていると、胸の奥で小さな石が転がるような、鋭い痛みがひとつ響いた。彼は何も知らない。私の中にいるもう一人の女を知らずに、柔らかく信じている。その純朴さは私には眩しすぎて、同時に刃物のように胸の真ん中を冷たく裂いた。

金曜日。八月上旬の午後、日差しはまだ強く、街のアスファルトから立ち昇る陽炎が、遠くの景色をぐらりと歪めている。陽葵は学校の後、高志と合流して実家へ向かう予定で、私は玄関先で小さな背中を見送った。

「お母さん、行ってくるね。飲み会、あんまり飲みすぎちゃだめだよ」

陽葵がランドセルを揺らしながら、真っ黒な丸い瞳で私を見上げる。その眼差しが、幼いのにどこか大人びた光を宿していて、どきりと胸が鳴った。

「ええ。陽葵こそ、おばあちゃん家でご迷惑かけないでね」

私がそう返すと、彼はにっこりと笑い、砂埃のついたスニーカーを靴箱にきゅっと押し込んだ。

「おばあちゃん家、楽しみなんだ。お父さんと、電車で行くんだよ」

無邪気な声が、湿った空気に溶けていく。私はその後ろ姿を、玄関のドアを閉めるまで見つめていた。家の中がしんと静まり返り、壁時計の秒針だけが、冷たく規則的に時を刻んでいる。私はふと、化粧台の引き出しを開けた。指先が選んだのは、淡いボルドーのレースが縁取る、胸元の深く開いた下着。夫との夜でさえ、ほとんど身に着けることのない、一番華やかな勝負下着だった。どうして今日、それを手に取ったのか、自分でも分からない。分からないのに、指先はシルクの冷たい生地を確かめるように弄り、その滑らかさをしばらく楽しんでいた。

夕方近く、私は薄化粧を済ませ、家を出る。歓迎会の会場は、駅の裏手にある小さなビストロを貸し切っていると聞いていた。入口の細い路地を抜けると、ランプシェードの橙色が壁の煉瓦をしっとりと炙り、湿った夜の前ぶれのような空気が肌を包む。店内へ足を踏み入れた瞬間、赤ワインの甘い酸味と、幾人もの香水が混ざり合った空気が、むわりと鼻腔の奥を満たした。

「綾野さーん、こっちこっち!」

宮下さんが、壁側のテーブルから大きく手を振っている。隣には、若い男性社員が二人、こちらをちらりと見ては、何やら小声で笑い合っていた。私は彼女の隣へ腰を下ろし、周囲へ控えめに会釈をする。あちこちの席で、ビールの泡がグラスの縁を越え、乾いた笑い声が夜の始まりを静かに盛り上げていた。

「綾野さん、今日は一段と綺麗ね。そのブラウス、胸元がすごく色っぽい」

宮下さんが、私の耳もとへ唇を寄せて囁く。私は思わず胸の前へ手を置いた。薄いアイボリーのブラウスは、確かに乳房の膨らみをきつく包み、動くたびにボタンの隙間から肌色が覗く。スカートもまた、事務所で穿くものと同じぐらい短く、膝上をためらいなく晒していた。

「そんなことないですよ。沙耶香さんこそ、今日も可愛いです」

私が返すと、彼女は満更でもなさそうに笑い、カラフルなネイルを光らせてワイングラスを持ち上げた。彼女が注文してくれたらしい赤ワインが、私の前にも静かに置かれる。深い緋色の液体が、橙色の灯りを吸い込み、ゆらゆらと艶やかに揺れていた。

「綾野さん、まずは一杯。ようこそ、私たちの事務所へ」

宮下さんの声に合わせ、若い男性社員たちもグラスを掲げる。私は、いただきます、と小さく呟き、ワイングラスの縁へ唇をつけた。熟した果実の香りが舌のつけ根に広がり、冷たく甘い液体が喉を滑り落ちると、身体の内側から柔らかな火がぽうっと灯っていく。あの夜と同じ、甘いくすぐったい浮遊感が、一杯目からすでに足先を軽くしていた。

「綾野さんって、前に受付嬢だったんでしょ。納得だよ。いや、すごく、その、華があって」

隣の男性社員が、照れくさそうに後頭部を掻きながら言う。私はありがとうございます、と微笑み、照れを隠すようにまたワインを口へ運んだ。料理が次々と運ばれ、パンが割かれ、チーズの香ばしい匂いが店の空気に分厚く混ざっていく。

歓談が進むにつれ、私の身体はあの夜と同じ、蜜を溶かしたような浮遊感に包まれはじめていた。足の先がほの熱く、頭の芯が薄い綿で覆われたように輪郭を失い、目の前の景色が蜃気楼のように揺らいで見える。ワインの水面を眺めるたびに、自分の輪郭までが、その赤のなかへ溶け合っていくようだった。

「綾野さん、お酒、けっこう強い方?」

宮下さんが、ふっくらした肩を押しつけるように寄せてくる。私は首を振る。いえ、弱いんです、と。けれど、その自覚とは裏腹に、手はグラスを離せず、唇はつい、なめらかな液体ばかりを求めてしまう。照明の光がワインの中で幾重にも揺れ、私の胸の奥の輪郭まで、ゆらゆらと揺さぶっているようだった。

音楽が変わった。低いベースラインの上を、軽快なダンスミュージックが滑り出す。誰かが立ち上がり、空気が一夜の祭りのようにざわめき立つ。私もいつのまにか腰を浮かせていた。太腿がスカートのなかで揺れ、背中が勝手にリズムを拾っていく。

「綾野さん、踊りましょうよ」

若い男性社員が、てのひらを差し出してくる。私は断ることもなく、その手に指を預け、狭いフロアの中心でくるりと半周した。彼の胸が近づき、汗ばんだシャツの熱が、私の二の腕へじわりと移ってくる。動くたびに、胸の奥底から弾けるような高揚が突き上げ、笑い声がとめどなく唇から零れた。

「すごい、綾野さんと踊れるなんて。会社でひそかに憧れてました」

彼の声が、音楽の合間を縫って耳へ流れ込む。私は深く考えることなく、彼の頬へ軽く唇を寄せていた。触れたのはほんの半秒にも満たない、羽根が肌をかすめるような口づけ。それでも彼の目が丸くなり、周囲からひときわ大きな歓声が沸き起こった。

「あー、ずるい! 俺も綾野さんと踊りたい!」

別の男性社員が、私の手を取って引き寄せる。私はされるがままに、その腕のなかでステップを踏み、流れてきた歌の一節を鼻唄で追った。跳ねるたびに乳房が彼の腕や胸へぶつかり、布越しでも分かる柔らかな弾力が、音楽の律動に混ざり合っていく。彼の股間が、一瞬硬く私の下腹へ触れた気がしたが、その違和感さえ、甘い熱のなかで輪郭をなくしていった。

「ほら、あんまり綾野さんに絡まないの」

宮下さんの声が、遠くの廊下の奥から聞こえるようにぼんやりと届いた。彼女が男性社員を引き離し、私はソファへ戻って大きく息をつく。汗ばんだ額を拭いながら、空になったグラスをじっと見つめた。心臓が音楽と一緒に脈打ち、頭の奥にまでリズムが浸透している。こんなに楽しい。こんなに軽い。胸の奥で閉じ込めていた何かが、ぱあっと光を放って弾けそうだった。

そのとき、背中側から、あの香りが流れてきた。濃い。甘い。体温の下からゆっくりと立ち昇る、秘密の夜の匂い。社長のコロンだった。

「淳子さん、楽しそうですね」

低い声が、うなじへ降ってきた。私は振り返り、彼を見上げる。黒曜石の瞳が、橙色の灯りを宿して濡れ光り、細められた目尻が艶やかに笑っている。彼の気配が私の隣に座り、ソファの革が深く軋んだ。太腿が触れ合うか触れ合わないかの距離。あの夜の熱が、皮膚の下から一斉に這い上がってきて、息が詰まりそうになる。

「社長……」

喉が渇いていた。声は掠れて、空気に溶けて消える。彼は、私の耳のすぐ横へ唇を寄せ、今日は一段と色っぽいですね、と低く囁いた。指先が、私の剥き出しの膝へ軽く触れる。触れたのはほんの一点。それなのに、溶かされた蜜のように甘く熱いものが、太腿の内側を伝って、下腹の奥まで昇っていく。

「二次会、このまま行く連中もいますが、私は、この辺で。淳子さん、よかったら、送りますよ」

社長の声が、心臓の真ん中に直接響く。夫は待っていない。陽葵もいない。この浮遊する夜のなかで、身体の奥が、彼だけを欲しがって濡れていくのを、私ははっきりと感じていた。

「……お願い、します」

私がそう答えると、彼は満足そうに微笑み、私の腕をとった。店を出る瞬間、後ろから宮下さんの明るい声が追いかけてきたが、耳の奥ではまだ音楽が鳴っていて、言葉は霧のように散っていく。外の空気はひどく湿っていて、彼と並んで乗り込んだタクシーの窓の外を、夜の街の灯りが水のなかのようにゆらゆらと流れていった。

気づいたとき、私は見知らぬ部屋の厚い絨毯の上に立っていた。ベッドの大きな白い海が、目の前に静かに広がり、天井の間接照明が淡紅色の影を壁に落としている。彼のコロンが、むっとするほど甘く裸の肩へ絡みつき、部屋の空気ごと私の呼吸を縛りつける。私は自分の手が、社長のベルトに、そしてスラックスの前で硬く盛り上がった膨らみに伸びていくのを、他人事のように眺めていた。

「淳子さん、いいんですか」

耳もとで囁く声が、鼓膜の奥をくすぐる。私は返事をするかわりに、彼のズボンの前を緩め、熱を帯びた手つきで引き釣りおろしていた。下着の上からでも、逞しく持ち上がった陰茎の形が、布地を痛いほど押し上げている。鼻先が、彼の下腹部へ埋まった。むっと濃い牡の匂いが、呼ばれた獣のように私の舌のつけ根を痺れさせる。

「はやく、欲しいの……これが、社長のこれが……ずっと、また欲しかったの」

自分の口から零れ落ちる言葉が、自分のものとは思えなかった。誰か別の女が、私の喉を使って、卑猥な願いを紡がせているようだった。それでも手は止まらない。下着をずらし、火傷しそうなほど熱い肉の幹へ、ゆっくりと舌を這わす。張り詰めた傘を唇でくわえ込み、ちゅ、と吸い上げると、彼の腰がびくりと揺れ、低い吐息が頭上から落ちてきた。

「淳子さん、上手……」

その声に背筋が粟立ち、私は目を閉じたまま、彼を口の奥まで咥え込んだ。上顎に擦れる硬さと、舌の裏をくすぐる脈動が、自分のものではない快感を呼び覚ます。パンティの中心はすでに重く湿っていて、膝を閉じるたびに、ぬるり、と滑る音が内腿に吸い付いた。ああ、どうして、こんなに、ほしい。身体の芯から湧き上がる牡の情動が、心を置き去りにしていく。

彼の手が私の後頭部を掴み、腰がゆっくりと前後する。喉の奥まで硬い尖端が届き、軽い吐き気とともに、背筋を貫くような悦びが走った。目の裏が白く明滅し、自分の蜜の甘やかな匂いが、空気に混ざって鼻の奥をくすぐる。私はなりふり構わず、彼の根元へ指を這わせ、熱く張った陰嚢を柔らかく包みながら、舌で裏筋をゆっくりしごき上げた。口のなかが、彼の苦い先走りと私の唾液でぐちゅぐちゅと満ちていく。

「もう、中で、くわえたまま……、淳子さん、こっちへ」

彼の声に促され、私はベッドへ押し倒された。しわになったスカートが腰の上までまくり上げられ、湿った下着を横にずらされる。露になったそこを、彼の太い指がねっとりと割り開く。くちゅり、と粘液のにじむ音が、静かな部屋へいやらしく滲んだ。

「すごく濡れてる……。ここ、指、締め付けてきますね」

囁かれながら、指とは比べものにならない太く熱いものが、私のなかへ、ゆっくりと押し入ってくる。ずぶ、と鼻腔まで震えるような圧。内壁が、彼の形を覚えていたとばかりに、肉茎へぎゅうぎゅうと吸い付き、私の腰がひとりでに浮き上がる。ああ、これは、夫のものでは味わえない。後頭部の奥から、罪悪感が鋭い針のように追いかけてくる。だからこそ、深く、強く、この快楽に沈めたくなる。

彼の腰が、川底を大きく揺するように動きはじめた。抽送に合わせて、私の口から、あっ、うあ、ひゃ、ああん、と息が分断されていく。肌と肌がぶつかるたび、汗に濡れた音がまくれ上がったスカートの上で淫らに弾んだ。胸の先を彼の舌が吸い上げ、もう一方を指が転がす。三方向から与えられる快楽に、太腿ががくがくと揺れ、膣のなかが彼を千切れそうなほど締めつけた。

「社長……あっ、深い、奥まで、とどいてる……ひあ、ああっ、もっと、もっと突いてぇ」

自分の声が高く跳ね、下半身が大きく痙攣する。膣の奥がきつく脈打ち、天に昇るような浮遊感が全身を巻き上げていった。彼が私の脚を抱え直し、さらに深く、速く打ち込んでくる。ドスドスドス。骨盤のあいだから響く重い律動が、私の意味を何度も、何度も砕いていく。気がつけば、私は自分から腰を跳ね上げ、彼の熱を根元まで咥え込みながら、中の襞を絡みつかせていた。

「もっと、もっと言って、淳子さん。君のいやらしい声、ボクにだけ、ちゃんと聞かせて」

彼の声が、荒い息の合間を縫って降ってくる。その低い響きだけで、子宮のあたりが熱く痺れ、頭の芯がぐにゃりと曲がっていく。私はシーツを握りしめ、汗に濡れた首をのけぞらせた。

「ああぁ~ん、しゃちょう、だめ、おかしくなるぅ……ほら、ここ、私のぐちょぐちょのあそこ、社長ので、いっぱいにしてぇ……」

泣き声のようにねだる言葉が、溢れる嬌声と混ざり、部屋の空気を濡らしていく。テレビ台の鏡に映る自分の姿が、淡い間接照明のなかで淫らに揺れていた。彼の腰が一段と深く沈むたび、結合部から、ぬちゃっ、じゅぷっ、と水音が絶え間なく湧き上がる。

彼が私の片足を持ち上げ、さらに角度を変えて奥を抉ってくる。子宮の入り口へ、硬い傘がこつこつと打ち当たり、脳の芯まで痺れるような衝撃が走った。私のなかはすでに洪水のように溢れ、シーツの上にまで蜜が滲んで、太腿を伝い落ちていく。

「あっ、ああっ、そこ、やぅ、んっ、しい……、ああぁ、また、だめ、だめ、イっちゃ、あああっ!」

私の悲鳴が、喉の奥からこぼれ、膣の壁が強烈に収縮する。全身が突っ張り、指先がシーツを引き裂くように強張った。彼は追い打ちをかけるように、奥をえぐる律動をやめず、痙攣する私のなかを激しく掻き混ぜた。

時計の針は、とうに夜のてっぺんを越えていた。私は彼の肩にしがみつき、自分の上にのしかかる重みの下で、最後の震えを噛み締めていた。社長の胸元に顔を埋めると、汗の奥に、あのコロンの残り香がゆらゆらと揺れている。あの匂いを吸うたび、快楽の残響が、太腿の奥で何度でもはじけるようだった。

タクシーのなかで、私の意識は、深夜の闇と一緒に途切れ途切れになっていた。街灯の光が、窓の外を流れていくたび、瞼の裏で白く弾ける。気がつけば、自宅の寝室のベッドの上で、私は天井を見上げていた。隣には誰もいない。自分がどうやってここへ戻ったのか、ほとんど覚えていない。枕元で、スマートフォンの青白い光が点滅している。夫からのメッセージが、いくつも、冷たい文字の列になって並んでいた。

私は震える指で電話をかける。呼び出し音が、耳の奥でやけに乾いた音を立てて響いた。

「もしもし、淳子か。遅かったじゃないか。どうした」

高志の声が、眠たげに、けれど確かな心配を滲ませて届く。

「ごめんなさい。早く帰ったの。でも……あの、酔いが回って、気づいたら寝てたの。心配かけて、ごめんなさい」

私は上体を起こしたまま、声がずれないように、ゆっくりと嘘を紡いだ。喉の奥がからからに渇いていた。身体のあちこちに、男の熱と唾液の感触が、まだ生々しく残っている。

「そうか。それならよかった。遅くなるなら連絡くれよ。こっちは陽葵も、もう寝てるから」

吐き出すように、そう言って、高志は電話を切った。通話が終わった瞬間、耳の奥で、音楽の残響と、自分の嬌声が、ぐるぐると回りはじめる。私は自分の肩を抱いて、熱い泥のような闇の中へ、ゆっくりと沈み込んでいった。

第5章 匿名の動画メールが夫の会社に届き、家族の崩壊が始まるまで

第5章のシーン

第5章 匿名の動画メールが夫の会社に届き、家族の崩壊が始まるまで

八月も終わりに近づいた平日の午後、淳子の生活は見かけの上では静かに回っていた。朝に陽葵を送り出し、洗濯機を回し、事務所へ向かう。書類の数字を追い、電話を取り、夕方には買い物をして家へ帰る。その繰り返しが、彼女の身体に染みついた熱を、少しずつ日常の下へ押し込めてくれているように思えた。けれど、折に触れて社長の姿が視界の端を過ぎるたび、皮膚の内側で何かが浅く息を吹き返す。あの夜の残り香が、まだ鎖骨のあたりに住み着いているようで、首を振るたびにちり、と痛んだ。

月曜の昼下がり、淳子は事務所の給湯室で自分のマグカップを洗っていた。白い陶器の表面をぬるい水が滑り落ち、指の腹に細かい泡がまとわりつく。水の音に紛れて、入口のほうから宮下沙耶香の高い声が聞こえてくる。

「あ、社長。お疲れさまです。今日は午後から外出でしたっけ」

淳子は蛇口を止めて、濡れた手を布巾で拭いた。水滴が指先からぽたりと落ちて、ステンレスの流しに小さな染みを作る。心臓が小さく跳ねる。廊下の向こうから、社長の低い声がかすかに届いた。

「ああ。三時から、駅前の契約でね。綾野さんは今日は事務所にいるかい」

「いますよ。デスクで入力作業です」

二人の会話が、給湯室の白い壁に吸い込まれていく。淳子はマグカップを胸の前で抱えたまま、しばらく動けなかった。陶器の冷たさが、薄いブラウス越しに胸元へ染みる。社長が自分の名を口にする。そのたびに、彼の舌の上で転がされる音の感触が、首筋を這うような錯覚に襲われる。淳子は唇を引き結び、足音を殺してデスクへ戻った。

午後の事務所は、外の蝉の声が遠く波のように押し寄せてくるだけで、あとは静かだった。冷房の風が、短いスカートの裾をときおり持ち上げ、むき出しの膝裏をかすめていく。淳子はキーボードの上で指を滑らせながら、画面の中の物件情報をひとつずつ確かめていた。視線の先の数字が、ときどき白く滲む。あの歓迎会の夜から二週間。夫にも、陽葵にも、何も気づかれないまま、二度目の過ちを胸の奥深くへ折り畳んで生きていた。

その夜、帰宅した夫の高志は、いつもと変わらない笑顔で食卓に着いた。白いワイシャツの袖をまくり、少し弛んだ頬を緩ませて、湯気の立つ味噌汁を啜っている。陽葵は、塾の宿題をテーブルいっぱいに広げて、難しい顔でシャーペンを走らせていた。

「お母さん、今日、国語の宿題でさ、意見文みたいなやつが出たんだけど、何書いていいか分かんないんだよ」

陽葵が、丸い黒い瞳を淳子に向けて言う。淳子は冷めたお茶を一口含んでから、彼の横に回り込んで、ノートを覗き込んだ。まだ十一歳の少年の、細い首筋から立ちのぼる汗ばんだ匂いが、懐かしく鼻をくすぐる。

「あら、こういうのはね、陽葵の思ったことをそのまま書けばいいのよ。難しく考えなくて大丈夫」

「でも、まとまんないんだよな。こう、頭の中ではなんかあるんだけど、字にするとぐちゃぐちゃで」

彼はそう言いながら、丸い瞳を何度も瞬かせた。淳子は微笑んで、彼の柔らかな髪をそっと撫でた。さらさらとした髪の感触が指の腹を滑り、その小さな頭の熱が、手のひらから流れ込んで、胸の奥の凝り固まったものを少しだけ溶かしていく。この子だけは、この子の無垢な温もりだけは、何があっても失ってはならない。そう思うほどに、自分の身体に染みついた秘密の重みが、背骨のあたりでずきりと疼いた。

「ひとつずつ、短くていいから書いてごらんなさい。お母さん、横で見てるから」

高志は黙ってテレビのニュースを眺めていた。時折、あくびを噛み殺しながら、穏やかな茶色の瞳で、私たち親子のやり取りを眼を細めて見守っている。この平凡すぎる夜。この優しさに、淳子は幾度も救われようとした。けれど、救われようとすればするほど、裏切りが深く鋭く胸を抉る。淳子は陽葵のノートの文字を見つめながら、唇の内側をそっと噛んだ。痛みの代わりに、舌の先に血の味がじわりと滲む。それでも、この家庭の平穏という薄い膜を、自分自身の指で破らずに保ち続けるほかなかった。

水曜日。高志が会社の会議室で、匿名のメールを開く。淳子はこの事実を、ずっと後になってから知ることになるけれど、その瞬間も、彼女は家で当たり前の夕餉の支度に追われていた。あの日の夕闇がどういう色をしていたのか、彼がどんな手つきでノートパソコンを開いたのか、淳子には見えない。けれど、その時、世界のどこかで、自分の平穏は死んでいた。多分、静かに、血も流れず。

金曜日。空模様は、朝から湿った灰色で、空気はじっとりと肌に絡んだ。淳子は朝食の片付けを終え、陽葵が学校へ出た後、洗濯機の中の洗い上がった服をベランダへ運んでいた。湿気のせいで、洗濯物はいつまでも乾かない。白いカッターシャツの襟を伸ばしながら、生乾きの繊維が指にしっとりと吸い付く感触に、すり減っていく自分を重ねていた。空は低く垂れ込め、遠くで雷の気配が微かに鳴る。生ぬるい風が、彼女の首筋をべたりと舐めて通った。

そのとき、玄関の鍵が回る音がした。金属が擦れ、錠が外れる、日常の中では聞き慣れた音。けれど、その音がこの時間に響くこと自体が異様だった。時計を見る。午前十一時を過ぎたばかり。高志が家にいるはずの時間ではない。無意識に、淳子の指先がハンガーを持つ力を強くした。針金の細い感触が、指の肉に食い込む。

「あれ、あなた……」

玄関へ回ると、高志が靴を脱ぐところだった。背広の色が、薄暗い廊下では黒く沈んで見える。いつもはきちんと揃えられたネクタイがわずかに曲がり、結び目が左にずれていた。こんな姿は、結婚してから一度も見たことがない。

「淳子。……話がある」

彼は顔を上げた。その声に、淳子は体温が一気に引いていくような感覚を覚えた。足の先から氷水に浸けられたように冷え、心臓だけが胸の奥で異様に熱く暴れる。高志の目は、深く窪み、茶色の瞳が沈んで揺れている。顔色はひどく青白く、唇の端だけが何かを堪えるように引き結ばれていた。昨夜までは確かに穏やかだった夫の相貌が、たった半日でこうも崩れるものなのか。

「どうしたの? お仕事は……」

淳子の声が、自分のものではないみたいに細く震える。喉の奥が乾いて、言葉がひび割れていく。高志は靴を揃え、ゆっくりと廊下を上がってきた。彼の靴下が、ぺたぺたと床を鳴らす音だけが、やけに耳に残る。

「会社は、早退してきた。淳子、リビングへ」

彼の背中について、ダイニングへ向かう。カーテンの隙間から、鈍い昼の光が差し込んでいた。磨りガラス越しの光が、床に白く濁った水溜まりを作っている。高志はテーブルの傍らに立ったまま、淳子の顔をじっと見下ろしている。その沈黙が、よくない。胸の奥で、心臓が早鐘を打ち始める。汗ばんだ手のひらを、スカートの横で何度も握り締めたり開いたりした。

「あなた、何かあったの? 顔色、悪いよ」

高志は短く息をついた。それから、手に持ったスマートフォンを、テーブルの上に置いた。黒い画面が、鈍い光を反射する。

「今日、会社のメールに、変なものが届いた」

彼の声は、落ち着いているのに鋭い。喉の奥で、かすかに空気が歪んだように響いた。

「変なもの……?」

「お前が、誰かと浮気をしているという内容だ。動画のリンクまでついていた」

一瞬、世界から色が消えた。いえ、音だけが、冷たい針のように尖って耳へ刺さった。視界が白く灼けて、家具の輪郭が溶けていく。淳子は指先まで冷めていく心地がして、咄嗟に笑おうとした。笑わなければ、自分が壊れてしまうと思った。

「な、何よ、それ。悪質な、いたずらメールよ。私は何も知らないわ」

声が上ずって、自分でも聞き苦しかった。口元だけが笑いの形をつくっているのに、頬の筋肉は凍りついたように動かない。高志は動かない。その瞳が、淳子を傷つけるのではなく、傷ついた色を帯びて彼女の姿をなぞる。それが何より怖かった。怒りなら受け止められた。けれど、これは違う。彼の眼差しは、裏切られたというより、信じていた世界ごと崩されて、足元を掬われた者の色をしている。

「本当にそう思ってるんだな」

彼はそう言って、スーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。プリンタで出力したのだろう、メールの本文が黒い活字で並んでいる。それを淳子の前に滑らせる。紙の角が、テーブルの木目を擦って微かに鳴った。指先が触れることすら、今は拒まれている気がした。

「ねえ、私は何も……。あなた、そんなの信じないで……」

「見たんだよ」

高志の声が、淳子の言葉を覆い被さるように落ちた。淳子の舌が、口の中で凍りつく。顎の関節ががちがちと震え、歯の根が合わない。

「会議室。ひとりで開いた。動画に映ってた。お前が、知らない男にキスして、とても嬉しそうに笑ってる姿。ホテルで、男のものを……口で……」

彼の言葉が、一語ごとに淳子の胸を刺し、貫いていく。痛みなのか、熱なのか、自分でも分からない何かが、全身の皮膚の下で沸き立つ。あの夜の光景が、網膜の裏で不意に閃く。暗い部屋、湿ったシーツ、自分の口に押し込まれた熱い肉の感触。胃の奥から、せり上がってくるものを、淳子は必死に呑み込んだ。

「見間違いとか、似てる人とか、そういうんじゃない。あれは淳子。間違いなく、私の妻だった。はっきりと、顔が、身体が、声が、全部映ってた。嫌がるどころか、夫の私に見せたことのない顔で、お前は……」

高志の声が、初めて震えた。彼は右の拳をズボンの裾にこすりつけるようにして、俯いた。項に青い筋が浮き、指先は痙攣するように何度も握り直されている。

「違うの、違うの……」

淳子は気がつけば、その一言を繰り返していた。意味なんて、もう何も持たない言葉。口から出るたび、床に落ちて割れていく。足の力が抜けそうになるのを堪えながら、彼女はテーブルに手をついた。冷たい木の感触が、熱を持った手のひらに食い込む。

「淳子、もう嘘はやめてくれ。今の言葉、俺には全部、遠い声にしか聞こえない」

淳子は頷くでもなく、首を振るでもなく、その場にしゃがみ込んだ。スカートの裾が、ひっそりと足元へ広がる。夏の湿った空気が、首筋を蒸らした。素足の太腿に、フローリングの冷たさがじわりと染みる。それなのに、指の先だけが火傷したように熱い。

高志が、淳子の置きっぱなしのスマホを手に取る。彼の指が、画面を操作する。薄い電子音が、静かな部屋に流れた。あの夜の映像が、この部屋の空気を一変させていく。高志の表情を、淳子はこのとき初めて正面から見た。彼の目は画面に釘付けにされたまま、口元が微かに開き、呼吸が浅く乱れていく。眉間には深い縦皺が刻まれ、頬の肉がぴくりと引きつった。彼は暑くもないのに、汗をかいていた。まるで、目の前で肉親が傷つけられているのを目の当たりにした人間のようだった。

「これか。この動画の中のお前の声だ」

画面から、初めてあの声が流れ出した。淳子の声。あの夜の、獣のように茹だっていた自分の声。

「社長のちんぽ、気持ちいぃぃ、もっと、もっと……」

耳を塞ぎたかった。なのに、身体は動かない。その音が、湿った空気中にじわじわと溶けて、部屋の隅まで染み渡っていく。淳子の口から、あの夜、確かに零れ落ちた音。わたしの唇、わたしの舌、わたしの喉が発した言葉。何よりも、淳子自身がそれを聞いて、身体の芯がぞわぞわと粟立つのを感じてしまっている。夫が、夫の手に握られた画面の中の自分を、そういう目で視聴している。その事実だけで、ひどく戯れた熱が腹の底でうずく。夫の前で、犯された女の貌を晒している。左手に残った洗剤の匂いが、あの夜の汗と精液の匂いに混じって鼻の奥を突いた。淳子は無意識に太腿を擦り合わせ、その動きを悟られまいと身を竦めた。

高志はスマホをテーブルに置いた。音声は、まだ小さく続いている。恥部を曝け出すような、あの夜の淫らな囁きが、生活の音に馴染んだリビングという器をねっとりと汚していく。彼の指の力が緩み、液晶が一瞬、揺らいだ。高志はそのまま右手で顔を覆った。指の隙間から、細かく酸素を求める呼吸が漏れる。おそらく、画面の中の映像は、淳子が男に覆い被さり、唇を開き、唾液に塗れた肉の柱を根元まで呑み込み、腰を振っている場面だった。あのとき、確かに感じていた熱を、無理やり風化させて日常に戻ろうとした代償が、今、夫の指先を震わせている。

「これが、お前の本当の姿か」

彼の声は、蝋燭の火が消えるように静かだった。淳子は何も言えない。言えることなど、どこにもない。床に座り込んで、膝を抱えるか、顔を覆うか、それすらもわからなかった。動画の音声だけが、灰になった彼女の心の上を、ゆうらゆうらと通り過ぎていく。高志の指先が、スマホの縁にかかる。爪が白い。彼の呼吸が、掠れて、時々止まりかけては、また浅く乱れた。淳子の息遣いを、彼は動画の中で幾度も聞いた。耳の奥に貼りついて剥がれない。甘えるような、強いられることを悦ぶような、一度も自分へ向けられたことのない甘い声。俺の前で、お前は……。

淳子は、彼の内面を想像して、胸を掻き毟られた。夫は、彼女の知らない場所で、すでにひとりで深い水底へ沈んでいる。けれど、それを引っ張り上げられるのは、自分ではない。あの動画を流した何者かの爪が、夫の心臓を掴んで離さないのだ。

そのとき、頭の奥でだけ、あの匂いが薄く香った。錯覚と知っているのに、確かな質量を持って漂う。社長のコロン。汗と混じり、淫らな夜に塗れて、淳子の鼻腔へ届いたあの匂いの記憶。今この瞬間も、運命が二度目の扉を閉める音が聞こえるというのに、彼女の身体はあの匂いに、ちり、と反応してしまう。太腿の付け根が、じくじくと浅い疼きを孕む。その疼きの深さを、夫はきっと見抜いていた。淳子は奥歯を噛み締め、自分の両腕を胸の前できつく抱いた。心の臓が、脈打つたびに痛い。

夕暮れ前の眠い光が、リビングの窓から斜めに入って、床の上の二人の影を薄暗い波のように揺らした。淳子のすべてが白日の下へ引き出されて、それでもまだ何一つ償われることのないまま、重く沈んでいる。

第6章 動画の音声が響くリビングで、人妻が崩れ落ち、夫が離婚を告げるまで

第6章のシーン

第6章: 動画の音声が響くリビングで、人妻が崩れ落ち、夫が離婚を告げるまで

床に座り込んだ私の耳に、あの動画の音声がいまだこびりついている。自分の声が自分を責め続けているようで、頭の芯を鈍い杭が貫いていく。太腿の上で握りしめた指の先は、すっかり血の気を失って、まるで他人のものみたいに冷えていた。リビングのシーリングライトは、昼間だというのに薄暗く、この部屋の輪郭さえ覚束なく滲ませている。ああ、いっそ消えてしまえたなら。そんな考えが、暗い水底から泡のように浮かんでは弾ける。

「淳子」

高志の声が、頭のずっと上から降ってきた。私は首を竦める。どんな顔をして彼を見上げたらいいのか、まるでわからない。彼の足元へ落ちた私の視線の先で、黒い靴下の爪先が、わずかに外側へ開いて立っていた。

「昨晩、ほとんど眠れなかった。お前は気づかなかったかもしれないが、俺は、この一週間、ずっとこの動画のことを考えていた。いや、それだけじゃない。このところのお前の、ほんの少しの変化。俺は、見ないふりをしていた。それも全部、今ならわかる」

高志の声は、驚くほど平坦で、それでいて、淵の深い川が静かに流れているようだった。私は唇を噛み、開きかけた口を結ぶ。なんと応えたらいいのか。この期に及んで、弁解の言葉など、塵芥ほども残っていなかった。

「陽葵は、今日、じいちゃんの家で迎えてくれる。あいつには、何も話していない。周りにも、まだいうことじゃないと、俺もそう思っているからな」

彼の言葉は、私を責めるためだけに発されたものではなかった。むしろ、だからこそ余計に、胸の内側を鋭利な刃で削っていく。あなたはそんなにも、家族を、私のことを。視界がまた滲み、私は床に落ちたスカートの裾を、両手でぎゅっと掴んだ。

「……わかって。わかってるの。私がしたことは、ほんとうに、取り返しがつかないことだって。でも……でも、私の中の私は、あんなことを望んでいたわけじゃ、ないの」

自分の唇から溢れる言葉は、酸欠の魚が水を求めるみたいに、ただ弱々しく床を這った。高志はしばらく黙っていた。沈黙が、リビングの空気を重く、冷たく圧縮していく。

「淳子。今更だ。お前を傷つけたいとも、責め続けたいとも思っていない。ただ、これ以上、同じ家で、顔を合わせて、何もなかったように暮らすことは、私にはできない」

高志の左手が、テーブルの端を強く握る。白んだ関節が、彼の心の裡を語っていた。あの穏やかな笑顔をいつも絶やさなかった夫が、静かな怒りと悲しみで、指先まで張り詰めている。それが痛いほど伝わって、私は息を詰めた。

「陽葵には、私が、ぼくが」、そう言いかけて、高志は声を切り、顔を横へ向けた。カーテンの合わせ目から、夕暮れのぬるい光が、彼の頰に斜めに映っている。

「今日は早く帰るよ、と淳子に送った。あの日のメール。お前はあれを、どういう気持ちで見てたんだ。……いや、どうでもいい。淳子、お前は出て行ってくれ」

心拍が、耳の奥でどくんと一度、大きく跳ねた。そのまま、胸の奥の何かが、ばりばりと音を立てて裂けていくようだった。私は床の上で、氷を背負ったように硬直する。出て行ってくれ、という五文字は、どろどろに濁っていない分だけ、高志の意志が骨の髄まで徹っていることが、はっきりと感じられた。

「……いやよ。で、出ていくなんて……。私は、陽葵を置いていくことは……」

声がひび割れ、最後まで言葉にならなかった。私は泣いていた。両目から、熱い雫が次から次へと溢れて、鼻の奥がつんと痛んで、呼吸が細切れに詰まる。顔を覆った掌の内側で、涙が指の隙間からこぼれて、顎を伝い、スカートの上へ落ちてぐずぐずに染みをつくっていく。

「陽葵に、これ以上嘘をつけとでもいうのか。……淳子、私は、お前が、毎晩よくやってる、あのひとりの夜更かしを、てっきり俺を想ってくれているんだと思っていた。今ならわかる。あれは、お前の、別の男のことを想って、ひっそりと身を捩る時間だったんだな」

高志が、肺の底から搾り出すように吐いた。その瞬間、私の全身が、沸騰した湯に放り込まれたかのごとく羞恥で煮え立った。そう。私は何度も、高志の隣で、あの社長の香りと手つきを思い返しながら、布団の中でひとり奥歯を噛み締めていた。高志は気づいていた。ずっと、私の寝返りの震えを。

「お前が、他の誰かを愛しているというのなら、せめて、まっとうにそうすればよかった。それを、あんな、盗み撮りみたいなものに記録されるまで、身体を許すとは。お前は、私の知らない淳子になっていた。それでも、嫌いには、まだなれない」

彼の声が、最後のところで初めて、明らかに震えた。私は下を向き、自分の爪が掌へ食い込むのも構わず、ただ、涙だけを流した。頭の中に、陽葵の顔が、朝、ベランダの洗濯物をたたんでいたときに「夕方、作文を書き直しておくから、お母さん、楽しみにしてて」と無邪気に告げた、あの丸い瞳が浮かんだ。帰ってくるだろう彼の、小さな笑い声が、もう二度とこの家で当たり前には聞けない夜が来るのかと思うと、背中が震えた。

「……来週、日程を調整して、離婚届を出す」

高志が、低い声で淡々と言う。私は顔を上げた。彼の横顔は、窓の薄明かりの中で、石を彫ったように動かなかった。伏せられた睫毛が、傷ついた花の影みたいで、それでいて目元は乾き果てていた。

「陽葵は、お前のことを、とても大事に思っている。その時間だけは、もう絶対に穢すな」

それだけを残し、高志はリビングを出て行った。廊下を進む彼の裸足の足音は、ぺたん、ぺたんと、水を踏むように間延びして、やがて寝室の扉が、ゆっくりと、けれど確実に閉められた。かちりという音が、家じゅうに葬式の鐘のように鳴り響いた。

私は一人になった。時計の秒針が、悲鳴のように壁を駆け抜ける。ソファの配置も、テレビの黒い画面も、出しっぱなしの新聞も、何も変わらないこの部屋なのに、世界ぜんぶから取り残されてしまった心地がした。自分の身体の輪郭だけが、沼の泥みたいにそこにある。立ち上がる気力は、果汁を絞り尽くされた果物のように干からびていた。

しばらくして、私は床の上に寝そべるように身を横たえた。頬に、冷たいフローリングが長く触れる。夕方の柔らかな光が、部屋の隅へ長い影を投げている。私は右手を、サイドテーブルの上に脱ぎ散らかしてあったスマホへ、這わせた。指先で画面をつまみ、顔の前に持ち上げると、光が目に刺さる。高志からの「今日は早く帰るよ」という古いメッセージ。あの日、あの夜、私が歓迎会の支度をしている最中に、いちばん行き届いたやさしさで届いた一文。それが、既読のままで、まだ、そこに残っている。小さく開いたままの私の名前。それが、胸の奥の深いところを、ぐりぐりと螺子のように締め上げた。

画面を指でなぞり、通知の一覧を下ろす。その一番下、昼すぎに届いた新しいメッセージ。私は指を止めた。高志からのものでも、宮下さんからのものでもない。ひとつの、短い文字。送信者を見なくてもわかる。あの匂いが、鼻先をかすめた気がした。実際にはもう、この家のどこにも残っていない。ずっと昔に、洗濯液とシャワーと、夫の信頼が、私の皮膚から剥ぎ取ってくれたはずの香りだ。それでも身体のどこかが、確かに呼び起こされそうになっている。苦しくて、浅ましくて、汚れきった私の感想。目を閉じて、それからまた開く。

「帰り、少しだけでも。あなたのことを考えると、身体が熱くなってしまう」

彼からのメッセージ。正確には、社長、田布施馨からの、たった数文字の甘い呼び水。私は震える指で、その画面をじっと見つめていた。涙はもう、頬の上で半ば乾いている。唾液が喉を落ちるときの、ぐ、という卑猥な音だけが、自分の生きている証拠みたいに、耳の内側で生々しく鳴った。

窓の外では、あの夏の熱が、夜の気配へすこしずつ屈し始めている。真夏のこもった空気が、風に押されてカーテンをゆっくり膨らませた。部屋を満たすのは、畳んだ洗濯物が放つ淡い粉の匂いと、テーブルの上の冷めた茶の、わずかな渋み。私の身体の奥の一点が、ちり、と焼けるように疼く。夫と息子の家。いちばん守らなければいけなかった、安らぎの繭。その中心で、私はいまだに、あの男の残り香を、自分の中に探している。

ぷつん、と、音がした。スマホの画面が消えていく。暗い液晶に、私のやつれた顔が映り込んでいる。その顔の、唇だけが、わずかに開いて、息を待っている。あの男に、呑みこまれる前の、最後の女の貌。いや、もう、とっくに呑みこまれている。私の足元には、ガラスのように割れて散らばった日常のかけらだけが、夕闇の中で、ちかちかと消え残っていた。

私はスマホを裏返して、冷たい床板へ伏せた。耳を塞ぎ、膝を抱え、小さく縮こまる。涙がまた、ひと粒、こめかみを伝って、生え際の産毛を冷やした。身体の奥では、あのコロンの匂いが、溶けない火種となって、静かに私の肉を燻り続けている。この家から出て行かされる夜にさえ、それは黙って灯ったまま、私の逃げ道を、ひとすじ残さず舐め尽くしていく。

リビングの明かりは、誰にも点けられないまま、夜が降りる。私の影が、カーテンの揺らぎに合わせて、床の上でゆっくりと伸び、消えかかっている。時折、窓の外で、夏の終わりが、へその緒を断つような短い風の音を立てていた。

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読み終えたあとの余韻に。

OVA 夏妻 #2 を FANZA で見る →
登場人物
  • 綾野淳子 あやの じゅんこ
    女性 ・ 35

    外見: 栗色のゆるく波打つセミロング、切れ長の焦茶の瞳、着痩せする豊満な胸を持つ華奢な体格。服装: パート先では異常に短いタイトスカートとバストを強調する白いブラウス、普段は生成りのニットに細身のパンツ。結婚前は一流企業の受付嬢をしていたおっとり美人。優しく真面目で身持ちが固く、家族思い。社長の誘いを何度も柔らかく断り続ける。

  • 田布施馨 たぶせ かおる
    男性 ・ 38

    外見: 短く整えた黒髪、鋭い黒曜石の瞳、筋肉質でがっしりした体格。服装: 仕立ての良いダークスーツに艶のあるネクタイ、常にコロンの香りを纏う。やり手の社長で部下には厳しいが、女性とくに淳子には優しく接する。常に甘い言葉をかけ、逃げ道を与えながら追い詰めていく。

  • 綾野高志 あやの たかし
    男性 ・ 42

    外見: 柔らかい黒髪を七三分けにした、穏やかな茶色の瞳、中肉中背の体格。服装: グレーのスーツに清潔なワイシャツ、休日は無難なポロシャツ。優しく真面目な会社員。妻の淳子を深く信用しており、疑うことを知らない。動画を見た後も、妻の知らない姿への驚愕と嫉妬に苦しむ。

  • 綾野陽葵 あやの はるき
    男性 ・ 11

    外見: 短く元気な黒髪、丸い黒の瞳、小柄でやや痩せた体格。服装: 半袖のポロシャツにハーフパンツ、塾では青いナップサック。小学5年生で中学受験の塾に通う。素直で明るい性格だが、両親の異変には気づき始めている。

  • 宮下沙耶香 みやした さやか
    女性 ・ 29

    外見: 明るい茶色の巻き髪ロング、ぱっちりした二重の黒い瞳、小柄で細身の体格。服装: カラフルなブラウスに流行のスカート、ヒールの高いパンプス。不動産事務所の先輩パート。噂好きで世話焼きだが、淳子を本気で心配もしている。淳子の異変を誰よりも早く嗅ぎ取る。

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